◇ ◇ ◇
冬休みに入った。
和都とは年の瀬に、近くの公園で少し話をしたくらいで、年が明けてからはまだ一度も会っていない。
年始は、去年までは翔馬と一緒に初詣に行っていた。和都を誘ってみようかと思ったが、神社やお寺には連れて行けないのだったと思い返し、やめた。
塾は受験目前の時期ということもあって、大晦日と元日以外は開いている。年末年始は仕事が休みの両親が家にいることもあり、どうにも窮屈なので、祐介は授業ではない日も塾の自習室に通った。
この日も、朝から電車に乗り、塾で課題をこなした後、夕方には電車に乗る。
夏ならまだ明るい時間だが、冬至を過ぎた年明けともなると真っ暗で、窓の外を電車の明かりが照らしていた。
ふっと窓の外がコンクリートで固めた崖の壁になる。この辺りの線路は山間を削って敷かれているので、川を越える陸橋を渡り終えると、すぐこの景色だ。
この壁が見えてきたということは、もうすぐ中学校にほど近い『杜山駅』に着くということ。この次の『狛杜公園前駅』が自宅の最寄り駅だ。
祐介は、見えて来た崖の壁を眺めながら、何気なく視線を上に向けた。
ちょうどこの上は、一年の時に家を飛び出した和都を見つけた通路の辺りになる。
人通りは殆どなく、ただ転落防止のために付けられた銀色の金網が連なる崖の上。
そこに珍しく、人の姿を捉えた。
見覚えのあるキャメルの色のコートと、赤いマフラー。
「……和都?」
あっという間に過ぎ去ってしまったが、あれは和都ではなかったか?
こちらを見下ろしていた姿に、心臓が一気に煩くなる。
降りる駅に着いても、一瞬だけ見えた姿がどうしても頭から離れない。
自宅に着くとすぐ「コンビニに寄るの忘れてたから」と言って、自転車で駆け出していた。
──見間違いなら、それでいい。
妙な焦燥感にせき立てられ、ペダルを漕いだ。確かめないと、気になって仕方がない。
走り出してからスマホで連絡すればよかったかと気付いたが、もし、川に落ちた時みたいにスマホ自体を持っていなかったら? 持っていたとしても今いる場所を偽られたら意味がない、と思い直してかぶりを振った。
裏山を越える、線路沿いの通路。坂道を立ち漕ぎで一気に駆け上がっていく。
坂を上がりきって、なだらかになった道をしばらく進んでいたら、金網を掴んで佇む人影を自転車のライトが照らし出した。
電車から見えたのと同じ色のコートを着た、和都だった。
「やっぱり」
「ユースケ、なんで……」
驚いた顔がこちらを見る。
もうどのくらいここに立っているのか、頬も鼻の頭も真っ赤だ。
「電車から、見えた」
「なにそれ。目ぇ良すぎだろ」
和都が呆れたように笑う。
「……なんで、見つけるの」
力が抜けたみたいに呟くように言って、和都が俯いた。
祐介自身、よく見つけたなと思ったし、自転車でここまで来て正解だったと確信する。
多分、スマホは持ってないか、電源が入っていない。
「何があった」
「べつに。何もないよ」
そう言って吐き出したため息が、白く煙って黒い夜空に霧散する。
「ただ、父さんに会いたくなっただけ」
和都の視線が、崖下に連なる線路に向けられた。
ここで言う『父さん』は、きっと実の父親のことだろう。
「父さんは、ずっとおれの『味方』だったんだ。いつも変な人から守ってくれて、助けてくれて。……でも、病気になって、あっという間だった」
遠い昔を懐かしむように目を細める。
彼に常にトラブルがついて回るのは、この二年近くで嫌というほど思い知った。ここに来る以前から、きっとそうなのだろう。でも、実の父親という誰より信頼出来る人に守られて、今よりはまだ、ずっと安心できていたに違いない。
そういえばその父親は、年明けに亡くなったと言っていた。
──ちょうど、今ぐらいか。
まだ二年しか経っていないなら、思い出して気分が塞ぐのも無理はない。
「墓参りとか、行かないのか?」
「おれ、お墓の場所知らないんだ。知ってても、母さんが行くのを許してくれないし」
和都と遊びに出掛けるようになった時、彼の母親に言われたことを思い出す。
『お墓とかある場所は、和都にはとても良くない場所って言われてるの。だから絶対近づかないようにしてもらえる?』
普通を装いながら、異常な目をしていた。寺や神社を避けなきゃいけないなんて、そんな宗教は聞いたことがない。
「お葬式は小さくて簡単なヤツで、短時間だったから出られたんだけど。お墓とか納骨場所とか、そういうのも教えてもらえなくて、行ったことない。おれはそういう場所に行っちゃいけないからって。うち、仏壇とかそういうのもないんだよ。小さい遺影と位牌が部屋の隅にあるだけ」
困ったような、泣くのを我慢しているような顔で和都が言う。
「母さんは、父さんが病気になった頃から、今の人と仲良くしてたみたいだし。もうすぐ命日なのに、昨日から二人で旅行に行っちゃった。だから父さんのことなんて、もうどうでもいいんだよ」
味方であるべき人が、味方ではない。
むしろ、牙を剥くことさえある。
彼はこの二年近くを、そんな家の中で過ごして来たんだ。
「……いなくなってあげたい」
ため息のように、白い息と言葉が吐き出されて消える。
「おれのことも、本当は多分、邪魔なんだ。父さんが死ぬ前から今の人と不倫してたとか、世間体悪いし。新しい人と忘れ形見の息子を大事にいい子に育ててますってアピールしたいだけ」
不意に遠くから、細く電車の警笛が聞こえた。ほどなく暗い眼下の線路を切り裂くように、電車が駆け抜けていく。巻き起こる風が冷たい。
「おれさえ居なくなれば、母さん達は幸せだし、おれは父さんのとこに行けて、丸く収まるんだよ」
金網を掴む和都の手は手袋をしていなくて、白くて細い指の先が真っ赤になっていた。
「……父さんに、会いたい」
「だから、ずっと」
死にたいって、言っていたんだ。
続ける言葉が出ない。でも和都は自分がどんな言葉を飲み込んだのか分かったようで、こちらを見て泣きそうな顔で微笑んだ。
大切な人を失った後、心を回復させるのに必要なのは、故人のことを想い、きちんとお別れをすることが大切だ、というのを本で読んだことがある。
彼が時折こうして彼岸に引き摺られるのは、そのせいではないだろうか。
このまま、味方が誰もいないままなら、いつか本当に消えてしまいそうな笑顔だった。
引き留めなければ。こちら側に。
祐介はハンドルを握ったままだった自転車のスタンドを立てて駐めると、そのまま近くまで歩み寄り、手袋をつけたままの手を和都に伸ばす。目の端に小さく溜まっていた涙を指の先で拭うと、驚いた顔をした和都を包み込むように抱きしめた。
芯から冷えているのが分かる。
思い切り力を込めたら、簡単に壊してしまいそうだった。
「ちょ、ユースケ?」
困惑する顔の横で、吐き出して膨らんだ白い息が、ふわりと消えていく。
それから和都の耳元で、呟くように言った。
「……一緒に、逃げようか」
「え?」
不意に祐介の着ている紺色のコートのポケットから、着信を知らせるメロディが鳴り出す。
ゆっくり身体を離すと、スマホを取って『応答』をタップした祐介は、いつものような調子で話し出した。
「ああ、母さん? 遅くなってごめん。コンビニで和都に会って、今日泊まりに行く約束だったの、思い出してさ」
近くのコンビニに行ってくると言ったのに、なかなか帰ってこないのを心配した母親からの電話。夕飯を一緒に食べようと待っているのに、という文句だった。
「ホントごめん。和都と一緒に適当に食べる。夕飯は明日残ってたら食べるよ。じゃあね」
電話を終えた祐介を、和都は訝しんだ顔で見つめる。
「ユースケ、泊まりにくる約束なんてしてないじゃん……」
今日会ったのだって偶々だ。
こちらの真意を図りかねる和都を気にも止めず、祐介は駐めておいた自転車のスタンドを蹴って外し、言う。
「腹減ったし、とりあえずコンビニ行こう。ほら、後ろに乗れ」
「えっ。う、うん……」
和都は戸惑いながら荷台に座り、祐介の身体に掴まる。
ゆっくりと動き出した自転車の進行方向は、家のある方角とは真逆の、桜崎川のほうだった。
◇
怪物は 悲しそうに言いました
「キミは 街に戻りなさい 家族や友人が
待っているんだろう
このままここにいたら キミも死んでしまう
山をおりて お逃げなさい」
「キミは どうするの?」
「ボクはこのとおり ケガが酷くて動けない
お別れだよ」
「いやだ!」
少年は 怪物の手を引いて 言いました
「一緒に逃げよう!」
「家族や友人は どうするんだい」
「逃げた先で 手紙を書けばいい」
「ボクといたら 嫌われるよ」
「キミのいいところを 教えるさ」
怪物は 驚いた顔をした後 嬉しそうに笑いました
きっと 他の人には
不気味に見えたのかもしれません
でも少年は とても嬉しくなって 一緒に笑いました
──『銀貨物語』作中絵本「怪物と少年」より
◇
コンビニで、ホットスナックやおにぎりなどその場で食べられそうなものを買って食べた後、祐介は和都を自転車の荷台に乗せたまま、桜崎川の方へ向かった。
「街中だと捕まりやすいし、川沿いから行ったほうがいいな」
「ねぇ! 行くって、どこに行く気なの?」
「とりあえず、隣の県まで」
困惑した顔で問いかける和都に、祐介は前を向いたまま答える。
何度も通った川沿いの通路。街灯は少し離れた川沿いを並走する車道にはあるものの、走っている通路側までほとんど届いていないので暗い。
自転車のライトが照らす先を、ただ真っ直ぐにひた走っていた。
桜崎川は太平洋まで繋がっている。海に着いたらそのまま海沿いの道を走っていけば隣の県に入れるはずだ。
「ひと晩で行けるわけないだろ!」
「ひと晩じゃ無理だけど、明日の夕方くらいまでなら、なんとかなるだろ」
「泊まれる場所とかないよ? 子どもだから泊めてくれるとこもないし!」
「二、三日なら俺は寝なくても平気だ。お前は後ろで寝てていい。落ちるの心配なら身体縛っとくし」
明日の夕方まで、自分は和都の家にいることになっている。それまでにこの街を逃げ出せれば、早々に捕まることはないだろう。
電車やバスなどの交通機関を使えば、使ったICカードの履歴で足が付くし、街中は防犯カメラがたくさんあるからバレやすい。川や海沿いならほとんどないし、暗闇の中ならもっと分かりにくいはずだ。
「隣の県まで行って、どうする気だよ」
「向こうまで行けば、姉さんがいる。事情を話せば匿ってくれるはずだ」
この街から、あの家から、出ていきたいと思っていた自分のことを、姉なら理解してくれる。本当ならあと一年必要だったけれど、そんなものはもう誤差だ。
「俺の見た目なら、日雇いで働くくらいできると思うし、あと一年経てば普通に働ける」
冷たい空気の中を突き進むせいで、手はかじかむし、鼻の頭が痛い。
それでも、漕ぐのはやめたくなかった。
「姉さんは料理が苦手なんだ。和都、料理得意だったろ。お前が担当してくれれば姉さんも喜ぶよ」
「……なに、言ってんの?」
腰を掴む腕に、ぎゅっと力がこもるのが分かった。
「逃げた先での話だ」
普段なら考えないようなことが、すらすらと頭に浮かんでくる。
空も川も真っ暗で、深く沈んでいるのに。
ライトで照らすその先に、見たいものが映し出されているような気がした。そんな童話があったな、と祐介は思い出す。
あの話も、確か寒い夜の話だった。
「隣の県なら、翔馬にも会えるな。また三人で遊びにも行ける」
二人で家出して来たなんて言ったら、驚くだろうか。そしてきっと怒られるな、と祐介は苦笑する。あぁ見えて、翔馬はそう言うところはちゃんとしているタイプだった。
「お前が死なないで済むなら、俺は何でもやるぞ」
死んでほしくなかった。
和都がこの街で、あの家で、過ごしている限りずっと死につきまとわれると言うのなら、連れ出すしかない。
どこでもいい。
彼が死なないですむなら、どこだっていいし、なんだってよかった。
──俺には、こういう方法しか思いつかなかったよ、翔馬。