騒がし過ぎず、静か過ぎず。
ちょうど良い飲み屋横丁の、ちょうど良い裏路地。
ふと目についた小さい看板を横目に、階段を降りる。
トタンでできた軽い扉の奥に、もうひとつ扉。
何となく選んだ、雰囲気のあるバー。
少し澱んだ視界で店内を見回すと、女性と思しき客が一人。カウンターの隅で、麗しの唇に向かってグラスを傾けている。
「おとなり、よろしいですか?」
ホンの気紛れだ。許しを頂けたところで口説くつもりもなし。断られたら離れて飲むだけ。
「確かに…」
ぽつりと、
「集団になると気が大きくなる人は格好悪いけれど、それを群衆心理なんて皮肉ぶる人も、結局求めているのは共感なのだわ」
囁く様にそこまで言って。
「みんな同じ。ほら、安心」
振り返ったその女性は、息を飲むほどに美しかった。
「えっと…?」
いっそ気後れしてしまうくらいには、その容姿は整っていたし、
「僕……ひとり、なんだけど?」
「ええ、そうみえるわ」
きょとん、としたその表情は、理解するのが難しい。
「す、座っても?」
「もちろん。椅子は私のものではないわ」
とりあえず隣に居ても構わないようだ。一応マスターに目配せすると軽く頷いてくれた。安心して席に着く。
「どこかの職人さんの手によるものよ」
「ん?」
途端にかけられた言葉に、少し戸惑う。
「……ああ、この椅子?話、続いてたんだ」
「そっとおしりに触れてくるの」
「ごめん、なんて?」
「優しくて素敵な椅子だわ」
「ああ、聞き間違えたのかな?」
「痔にいい」
「うーん、あれぇ?」
少し眠たげな瞳に、不思議なテンポで話す女性。長く垂れた黒髪から覗く美しい横顔が、その独特さを強調する。
暫しの沈黙。
「そ、それ何を飲んでいるの?」
耐えきれず、会話の糸口を掴もうとする。
「これ?」
「うん、キレイな琥珀色だ。ウィスキー?」
「麦茶よ」
「麦茶かぁ…」
麦茶だった。
「今日は少し飲み過ぎたの」
「ああそれ、チェイサー?」
「ごめんなさい、特に掛け声とかはないの。それでも八杯は飲めた」
「お腹タプタプだね」
「ええ、きっと仕事に障りがでてしまうわ」
「ふぅん…」
ともあれ、とっかかりにはなったみたいだ。
「今の仕事長いの?」
職種を尋ねたりはしない。コレから仕事なら、言わずもがなというヤツだ。無粋だろう。
「ええ、でも余り向いてないみたい。いまだに右と左が判らないんだもの」
「そうな……ん?」
「いつまで経っても新人類みたいな扱い」
「大変だね」
仕事以前の発言が気になったものの、ここも何とか飲み込む。意味は分かるし、訂正しても仕様がない。
「僕も、今日は大変でさ…」
クレーマーに絡まれた。
損害賠償だ慰謝料だと、散々怒りをぶつけられた。
「知人に弁護士がいるぞ。なんて、名刺ヒラヒラされちゃって」
「あら奇遇ね。私も持ってるの」
思ったのと違う反応をされ、隣に目を向ける。
左側に座っていたので気が付かなかったが、女性はその細く白い右腕に、何故か名刺入れを巻き付けていた。
「デュエル。その方は受けてくれるかしら?」
「ちょっと分からないけど…」
「今は多職デッキが流行りだけど、政単積みで圧し切れるかしら?」
「それもちょっと分からないけど…」
「見た分だけでいいから、名刺のレアリティだけ教えてく…」
「ごめんデュエリストじゃないから分からないんだ」
ごめん、ともう一度断りをいれて黙りこくる。
その態度をみて、女性は少し申し訳なさそうに、掲げていた名刺入れを引っ込めた。
「ごめんなさい」
「いいんだ。僕の方こそルール知らなくてごめん」
「そうよね、決闘所以外で心に火を点けてはならないわ」
「そうなんだ」
「副流焔も気にするべきだし」
「煙草かな?」
「歩きデュエルも厳罰化したし」
「煙草かな」
「謝罪という訳ではないけれど。一服盛らせて頂戴?」
「そんな、悪いよ……もる?」
「マスター。この男性に、私と同じものを…」
「ぁハイボール下さい」
遅ばせながらマスターにハイボールを注文する。
申し訳ないが正直、忘れていた。
「山本さん」
「田中です」
「山本さんは手品が得意なの」
「あハイ…」
呼ばれた訳ではなかった。恥ずかしい。
「………あの、やまもと…」
「山本さん?」
「え?あの、手品が得意、なの?」
「ええ、山本さんは手品が得意なの」
「あ、うん。はぁ…」
何で急に山本さんの話をしたんだろう。
「何で急に山本さんの話をしたのかしら?」
「え?あ、スイマセン。僕は知らない人かな」
異次元過ぎる。
「えっと、山本さんはその……彼氏さんか何か?」
「よして頂戴。もう小学生よ」
「もう?ああ、小学生なんだ?」
「ええ。でも彼すごいの」
「へぇ、どういう手品をするの?」
余程にご執心であるのか、自分の事の様に誇らしげに「ふふん」と鼻を鳴らす。
「濡れた紙コースターを、コップにくっつけたのよ」
「んん…」
どうしよう、ほぼ種が明いてしまっている。パカパカだ。
「えっと…」
いつの間にか提供されていたハイボールを持ち上げてみせると、
「てってれー。なんつって」
いい感じに塗れていたジョッキが、紙のコースターを張り付けた。
「あら」
「あの…」
「小学生がこんな時間に外に居てはいけないわ」
「思い違ってたら予めごめんだけど、僕は山本さんではないよ?」
田中です。と、一応念を押す。
「タナカ?」
「はい田中」
「苗字は?」
「山本ではないね」
ちょっとそんな気はしていた。
「よかったら当ててみて?」
問われて、人差し指を顎に当てる女性。何とも可愛らしい仕草で暫し、逡巡した後。
「……こんぶ、かしら?」
慣れてきたと思ったがそうでもなかった。
「うん、もう正解」
「あら素敵。日本に百人くらいしか居ないらしいのだけれど、私ほとんどの昆布さんにお会いしているの」
どうやら、みんな放っといているようだ。
まあしかし、なんというか悪くない気分だ。
ワザとかどうか、小ボケを延々と繰り出すお嬢さんに、何の気負いもなくツッコんだり放っといたり。
心の底にたまっていたものが、少し洗われるような気がする。
「ふふふ、ねぇグルタミンさん?」
「……あ、僕か。うん、なに?」
「さっき私の彼氏がどうのと言っていたのだけど…」
洗われてしまって。
「貴方こそ、いいひと、いるのかしら?」
「……へっ…」
ああ、いけないな。
「それがその、つい先日……あはっ、その……女に騙されちゃって…」
心の底にたまった泥が、表に出てきてしまう。
そんなの、この素敵なお嬢さんに愚痴っても、仕様がない事なのに。
朗らかに酔えたら、楽しいだけで済むのに。
「ははっ、その…」
何か言おうとするけれど、沈んでしまった気持ちはもう取り繕えない。
ボロボロの心で、ハイボールをぐびり。音を立てて飲み下し、沈黙。
すると、少しの間を置いて「はぁ…」と溜め息が聞こえた。
「女、だったのかしら?」
その声が、余りにも優し過ぎて。
「貴方を騙したのは、女、なのかしら?」
ハッとなり横を向く。
悲しいような、切ないような、その笑顔。
「……そう、か…」
そうだ。
その通りだ。
僕は『女』に騙されたんじゃ、ないんだ。
僕という一人の人間が、彼女だと思っていた一人の人間に、散々貢いで捨てられた。それだけ。
性別なんか関係ない。
騙す人間はいる。
騙さない人間も、必ず、いる。
「すごい。すごいね、君の言う通りだ」
今度こそ、全て洗い流される。
女性不信に陥った心に、明かりが差す。
騙さない人間に、いつか、会える。
そうしたら、その人を目一杯、大切にすればいい。
「女、じゃなかったんだ」
「ええ…」
薄く微笑むその顔は、まるで菩薩のようで。
「タヌキさん、だったのでは?」
「………ぁぃ…」
ようで、といったからには菩薩ではなかった。
「ねぇ。男女といえば、こんな話があるの…」
どちらかといえばタヌキさんの方が気になるが、こんな気持ちじゃ最早どうする事もできない。
「とある国では、男女が逆さまなのだわ。社会的な役割も、家庭内での役割も、身体的な役割すらも。その話を聞いた時、私、思ったの…」
ほんの一瞬、その話に引き込まれそうになったが。
「翻訳家が悪いって」
「僕も……そう思うよ…」
そうして、午後が午前になった頃。
崩れ落ちたまま、意識を失う。
「………んぅ?」
目が覚めると、路地裏に寝転んでいた。
「……あれ?店…」
身体を起こして辺りを確認する。
路地自体には見覚えがあるものの、昨晩居たバーの看板と、地下への通路が見当たらない。
「……携帯!」
慌ててポケットを確認する。
果たして携帯はあった。六時半、いつも起きる時間。
「財布は!?」
とりあえずそれだけあれば何とかなる。
「…………ふっ」
どうやら、キツネさんだったようだ。
「あはは…」
騙された事を恨めしい気持ちも当然あるが、
「まあ、いっか」
ぎっちぎちにつめられた葉っぱをみて、何か許せた。