そんなわけで。
秋野ひかりは半ば強制的に、秘宝管理クラブに入ることになったのだった。いや、大好きな春風祈の傍にいられる仕事で、その素質があるだなんて言われて、自分にとっては都合が良すぎて怖いほどではあるのだけれど。
幸いにして、ひかりは習い事の類は一切していないし、仕事の多い委員会にも入っていない。中学受験をしようなんて無謀なことも考えてはいないので(ていうかひかりの成績では無理だろう)、放課後は宿題をやる以外にミッションはない立場だ。
よって、その日の翌日から放課後になると例の管理室に足を運ぶことになったわけだが。
「ゴム手袋に、レインコート、麦藁帽子、日傘……持ってこいって言われたアイテムはひとしきり持ってきたけど」
ランドセルと一緒に持ってきたトートバックを掲げるひかり。
「これ、何に使うの?」
「お掃除です」
「おそうじ」
「はい。これだけの数の秘宝があると、掃除も僕だけでは追いつかないのですよね。箒とかハタキの類は学校にもあるんですけど」
「は、はあ……」
箒やハタキが必要なのはわかる。ゴム手袋もまあ、わからないではない。しかし、麦藁帽子とかレインコートは一体何に使うのだろうか。
「そもそも、洗剤とか並べてるけど、ここで掃除できるの?」
よいしょよいしょ、とトイレから洗剤を運び込んできている祈を見て、ひかりはツッコミを入れる。
洗剤を使うなら当然洗い流す必要があるのだが、この旧校舎の床は木である(壁と天井はコンクリなのになんで床は木なのだろうか)。そのためにはホースを用いて水をぶっかける必要がありそうだが、いかんせん床に排水溝のうようなものは見えない。
水をかけたら最後、ものの見事に床が腐ってしまいそうな勢いなのだが。
「この部屋では無理です。そもそも、水をかけて洗っていいものとそうじゃないものがありますからね」
例えば、と彼は棚の上段を指さす。昨日ひかりが大笑いされた、例のはっぱが浮いたシャーレがそこに置かれているわけだが。
「あの笑う葉のシャーレなんですけどね。あれ、普通に壊れるんです。落としたら粉々になります。ていうか、此処に運んでくる時に一回やらかした人がいて、上からめっちゃくちゃ叱られました」
「え、えええ!?そ、それどうやって直したの?」
「直せる秘宝がなければアウトだったでしょうね。ガラスも割れるし水も飛び散るし、葉はシャーレから出した途端腐るんで本当に最悪でしたよ。そして、あの葉は未知の成分でできていますが、水は普通の水道水であるらしいこともわかっています。他の水と混ざってしまったらもう取り返しがつかないんです」
だからこそ、アレがどういう仕組みかわかっていないわけですが、と祈。
「ああいう壊れやすく、水が混ざると大惨事になりかねないような品はけして洗えません。あのへんは、渇いた布巾とかハタキで埃を落とすしかないんです」
「た、大変そうだね……。そういうの全部覚えてるの?」
「まあ。それを覚えるのも、資格試験の一つなので」
「本当に大変そうだね!?」
秘宝管理士に向いている、とかなんとか言ってはくれたが。ひかりはこの時点で“私には絶対無理だろ”とぶん投げ気味だった。なんせ、小学校五年生レベルの授業で既についていけていないのである。授業は毎日寝ているし、宿題はサボりまくっている。去年の夏休みの課題、答えを丸写しした算数ドリルと捏造した絵日記、親に拝み倒して書いて貰った読書感想文とめっちゃ手伝ってもらった自由研究でなんとか乗り切ったという背景にあるのだ。なお漢字ドリルは答えを写すのが間に合わなくて出さずにスルーし先生に叱られた。――算数ドリルを模写したこともバレてはいたけれど。
秘宝の種類とその保存方法まで全て覚えるなんて、到底勉強嫌いの自分にできるはずがない。
そりゃあ、普通の算数や国語の宿題と比べると面白そうだと思わなくもないけれど。
「掃除できる場所があるんです。こっちへ」
彼は、するするとステンレス棚のすき間を縫って奥へと進んだ。そして、一つのドアの前に立ち止まる。
こげ茶色の、何処にでもありそうなドアだ。何もおかしなところはない。位置で言うならば、これを開けたらそのまま外に繋がっていそうではあるが。
「このドアから外に出るの?」
「いえ」
彼は首を横に振って、ドアノブを回した。そして手前に勢いよく引く。
「え、ええええええええええええ!?」
ひかりは思わず叫んでいた。その向こうには、真っ白なタイル張りの空間が広がっていたからである。そこそこ広い。教室一つ分くらいはありそうだ。
「ど、ど、どゆことデスカ!?だって位置的には、この向こうは外に繋がるはずじゃ」
ドアのすぐ真横には、黒カーテンが引かれているとはいえ窓がある。ちら、とカーテンを捲って外を見れば、葉桜が残った春の校庭がくっきりと見えていた。その向こうでは、サッカーをする少年達の姿もちらちらと見えている。
つまり、窓の真横にあるこのドアも、開けたら外へ繋がらないと空間がおかしいということになるのだが。
「このドアも、秘宝なんです。ていうか、この場所から管理室を動かせなかった理由の一つがこのドアなんですよね」
祈はバタン、と一度ドアを閉じると、近くに置かれていたトンカチを手に取った。そして思い切り振りかぶり――なんと、ドアに叩きつけたのである。
ドゴオオオオオンン!と想像以上に大きな音がした。
「ここここ、壊れちゃうよ!?だ、大丈夫なの、って……ええええ!?」
慌てて止めようとしたところでひかりは気づく。ドアには、傷一つついていない。そのまま祈はドアノブやドアの上部などにがんがんとトンカチを叩きつけるも、ドアは一切びくともしないのだった。まるで、ぴったりと空間に固定されて守られてでもいるかのように。
「このドアはNo,412、広いシャワールームのドア、です。ドアの向こうは、だだっぴろいシャワールームが続いています。つまり、異空間に通じているというわけです」
「すっげ……どこでもドアじゃん」
「そんなイメージで間違いないかと。ただし、このドアの向こうのバスルームは、この世界のどこでもない場所だとわかっています。そして、他の場所にドアを繋げることはできませんし、ドアの位置も動かせません。さっき、シャーレは落としたら割れてしまうと言いましたがこのドアは逆です。どんなにぶっ叩いても蹴っ飛ばしても絶対に壊れないんです」
「普通のドアに見えるのに?」
「空襲で爆弾が降ってきて他の秘宝がまる焼けになったのに、このドアだけ無傷で残っていたあたりお察しくださいなんですよね」
「あ、ああ……」
そういえばそんな話をしていたっけ、とひかりはもう一度ドアの向こうを覗き込む。確かに、ものを洗ったり掃除するには最適な空間に見えるが。
「大丈夫なの、この向こうに入っても?閉じ込められて出られなくなったり、変なものが出たりしない?怖いこと起きない?」
「怖いことはちょこっとだけおきますけど、ドアに鍵はついていないので閉じ込められる心配はないですよ。じゃあ入りましょうか」
「とっても心配なんですけど!?」
怖いことがちょこっと起きるってナニ!?と思ったが先に祈がずんずんと入っていってしまうのでどうしようもない。仕方なく、ひかりも後からついていくことにしたのだった。
そのシャワールームは、異様に広いということを除けば本当に普通の部屋であるように見えた。あちこちに排水溝の丸い穴があり、シャワーのホースがぶら下がっており、風呂場で使うような丸い椅子や風呂桶などがいくつも転がっている。
「ここの水とか風呂桶って使っても大丈夫なの?」
「大丈夫です」
中に“洗い物”と思しきテニスボールと、どっかのおじさんの銅像?みたいなものと招き猫みたいなものなどを運び入れながら祈が答える。
「完全に正体不明の水ですが、成分は水道水と変わらないし、人体に害はないこともわかっています。あ、ですが、風呂桶に水を溜めて使うのはあまりおすすめしません。時々血まみれの女の人の顔が映るので」
「ひえっ!?」
思わず手に取った風呂桶を放り出していた。からんからんからん、と黄色いプラスチック製の風呂桶が白いタイルの床を転がる。
「そそそそそ、それは呪われているということなのでわっ」
ひっくり返った声でひかりが言えば、大丈夫ですってばーと祈は平気そうにひらひらと手を振った。
「顔が映るだけで何も悪さはしてきませんから。あ、あと排水溝には気を付けてくださいね。時々髪の毛が伸びてきて足に絡まります。時々ですけど」
「めっちゃ嫌なんですけど!?」
そんな場所でお掃除しなければならないのか、自分。ひかりは一瞬にして気が遠くなったのだった。祈がまったく問題ないという顔で笑っているのが、なんとも信じがたい話である。