羊が千百五十一匹、羊が千百五十二匹、羊が千百五十三匹……。
柵を飛びこえる羊の群れを数えていたら、ドアをノックする音が聴こえた。
こんな遅い時間に誰だろう?
ドアを開けると、おれの彼女が心配そうな顔をして立っていた。
「真田くん、大丈夫?」
「いや、今日もぜんぜん眠れなくてさ……」
おれは一週間ほど前から、不眠症に悩まされていたのだ。
「ちょっと、イイもの持ってきたのよ」
彼女は部屋に上がり込むと、鞄からお茶っ葉のようなものを取り出した。
「何だよ、それ?」
「これ、通販で買ったの。ルーハテネ・ハツジっていう薬草を煎じたものらしくて、これをお湯に浸して飲めば、一瞬で眠れるらしいのよ」
う、胡散臭い……。
だが今のおれは、藁にもすがりたい気持ちだった。どうせダメで元々だし、おれはその薬草茶を飲んでみることにした。
「どう、眠くなった?」
淹れたてのお茶を、
「ごめん、ぜんぜん眠くならないよ……」
彼女の持ってきた薬草に効き目はなく、その夜は一睡もできずに朝を迎えた。
それから数週間が過ぎた。
医者に行っていろいろな睡眠薬を処方してもらったが、いずれも効果はなく、今では一睡もできなくなってしまった。
そんなある日、仕事が終わり帰り道を歩いていると、よく日に焼けた小太りの男が話しかけてきた。
「失礼ですが、あなた、真田勇一さんですよね?」
「はい、そうですが?」
「わたくし、こういった者でして」
と言って渡された名刺には、男の名前の横に、テレビ局のディレクターという肩書きが刷られてあった。
「あなた、すでに一カ月は眠っていないと聞いたのですが、本当に?」
「ええ、本当ですけど……」
テレビ屋が、おれに何の用があるのだ?
「真田さん、テレビに出演してくれませんか? そうすれば、あなたが眠るための方法を無償で試してあげますよ」
「えっ?」
男の話によると、一カ月以上も眠れない不眠症は世界でも例がないらしく、ぜひテレビで取り上げたいというのだ。ドクター山根という発明家の博士が、自作の発明品を使って出演者の悩みを解決する番組らしい。
どう考えても胡散臭い……。
だがおれは、藁にもすがる気持ちで承諾した。
収録当日。
照明が輝くスタジオの中、司会者の男が声を張り上げておれを紹介した。
「今回の依頼者は、世界一眠れぬ男、真田勇一さんです!」
ディレクターの合図で、スタジオじゅうに拍手と歓声が湧き起こる。
おれは眠い目をこすりながら登場したが、不眠のせいで体はすでにふらふらだ。
「この真田さん、なんと二カ月の間、一睡もしておりません!」
観客席から驚きの声が漏れた。
スタジオの中央には、白衣を着た山根博士が立っている。
博士はオーバーにうなずきながら話を捕捉した。
「そうじゃ。わしが脳波測定を開始した一カ月前からでも、真田さんの脳波が睡眠状態に入ったことは一度もなかった」
司会者はおれにマイクを向けた。
「真田さん、眠れない理由に何か心当たりは?」
「はぁ、理由なんて分かりませんよ。眠気はひどいのに、目を閉じると頭が冴えてくるんです……」
蚊の鳴くようなおれの声に、司会者は同情を寄せた。
「大変、おつらい状況ですね。博士、彼を眠らせる方法はないのでしょうか?」
「医者も匙を投げたんじゃろ? 今回ばかりは難しいかも知れんな」
山根博士の言葉に、会場の空気が一瞬静まりかえったが、司会者はすぐに元気な声を出して切り替えた。
「そこで用意しましたのが、休眠音波兜、スリープ・ヘッドギアです!」
ドゥルルルルルルル、ジャーン!
ドラムロールの音が鳴り響き、スタッフが銀色のヘッドギアを運んできた。山根博士はそれを無造作に取り上げ、カメラに向かって説明を始めた。
「このヘッドギアはですな、装着者の聴覚にストレスをかけ続けることで、脳を強制的にスリープモードへ導くという装置なんじゃ」
「なるほど、音で脳を疲れさせるわけですね?」
「そういうことじゃ。では早速、真田さんに装着していただこう」
おれは促されるまま、スタジオの奥に用意されたベッドに横たわった。
ヘッドギアを装着するとスタジオの照明が落ち、静寂が訪れる。次の瞬間、不快としか言いようのない音が耳元から流れてきた。
ギイイイッ、くっちゃくっちゃ、カシャンカシャン!
何かを引っ掻く音、気味の悪い咀嚼音、突然の金属音、確かにストレスはたまるが、十分、二十分、三十分……、一時間が過ぎても、あくび一つ出やしない。
「………博士、脳波の方はどうでしょう?」
「ふむ、ストレスは感じておるが、逆に眠気が飛んどるな!」
観客の笑い声が漏れる中、司会者は元気よく次の装置を紹介した。
「では、二つ目に用意しましたのが、安眠抱擁腕、スリープ・アームズです!」
ドゥルルルルルルル、ジャーン!
ドラムロールの音が鳴り響き、巨大なロボットアームが運ばれてきた。
「この巨大な腕で抱きしめてもらうことによってですな、赤ちゃんの頃の安心感を得て、眠りに落ちるという装置なんじゃ」
おれは促されるまま、巨大な二本の腕に挟まれた。
ロボットの腕は暖かく、
「どうですか、真田さん、眠気は感じますか?」
「うーん、ぜんぜん眠くなりませんよ」
と言った途端、アームの圧迫がじわじわと強くなった。
いや、ちょっと強すぎないか?
「痛い、痛い、痛い、痛い、ぎゃあっ!」
おれの叫び声に、観客席から大爆笑が起こった。
ようやく装置は停止し、ロボットアームから這い出るおれを見て、観客席から再び大笑いする声が聞こえた。
「冗談じゃない!」
怒りに任せてスタジオから出て行こうとすると、例のディレクターが慌てておれの前に飛び出してきた。
「真田さん、落ち着いてください!」
「おれは眠るために来たんだ。見せ物にされるだけなら、もう帰らせてもらう!」
「真田さん、そんなこと言わないで、次こそ絶対に眠れますから!」
「ふざけるな!」
「いやいや、演出上、最初の二つはあえて効果のない装置を使ったんです! そうすることで、三度目の成功がより感動的になるという……ええっと、つまり、テレビ業界の王道パターンなんですよ!」
おれは言葉を失った。
この男、平然と
だが、テレビに出た以上、ある程度の演出は仕方がないのだろう。
怒ったところで、どうなる?
このまま帰っても、眠れぬことに変わりはないのだ。
「そこまでおっしゃるなら……まぁ」
「ありがとうございます真田さん、今度こそお任せください!」
おれは、藁にもすがる気持ちで承諾した。
スタジオに戻ると、巨大なロボットが設置されていた。
マトリョーシカ人形を思わせる丸みを帯びたボディー。その手から四本の紐が垂れ下がり、ゆりかごのような座席がぶら下がっていた。
「ここに乗るんですか?」
と尋ねると、山根博士が自信満々に説明を始めた。
「これは揺籠巨大ロボ、スリープ・ジャイアントママじゃ。こいつは遠心力を利用して、脳をリラックス状態に持ってゆき、睡眠を誘発する装置なんじゃよ」
遠心力なんかで……眠れるのか?
ますます胡散臭いと感じたが、もう怒る気力もない。
「では、座ってくだされ!」
おれは言われるままに腰を下ろし、座席のベルトを締めた。
「スイッチオンじゃ!」
博士の合図とともにロボットの体が回り始め、不思議な浮遊感に包み込まれた。
「どうですか、真田さん、眠気は感じてきましたか?」
司会者の声が、ヘッドホンから聞こえた。
「まぁ、悪くないですけど……眠くはなりませんね」
返事をした途端、ロボットの回転速度が急激にはね上がった。
「ちょ、ちょっと、速すぎません!?」
回転はさらに加速した。
視界がぐるぐると回り始め、遠心力で肉体が座席に押し付けられる。
「大丈夫、もっと、もっと、スピードを上げるんじゃ!」
今度は、興奮した山根博士の声が聞こえた。
ゆりかごはさらに加速し、座席が不安定に揺れ始め、
「と、止めろーっ!」
次の瞬間、おれは空中に放り出されていた。
ロボットの腕が遠心力に耐えきれず、おれごとゆりかごを投げ出したのだ。
「うわあああああああっ!」
と、叫んだところで目が覚めた。
「どう、ルーハテネ・ハツジの効き目、すごいでしょ?」
おれが横たわるソファーの側に彼女がいて、窓からは朝の光が差し込んでいた。
「えっ、あれ?」
眠気はすっかりなくなっている。
どうやらおれは、昨夜から長い夢を見ていたらしい──。
(了)