行ってみると、たしかに一階のいちばん端の教室の窓が開いていた。
窓を開けてなかを覗くと、水道付きの実験台が見えた。壁側には薬品棚や標本が並んでいる。
どうやらここは、理科室のようだ。
「うわぁ、不気味だな〜」
「な! なっ!? 夜の理科室ってめっちゃ雰囲気あるだろ!?」
「たしかに……」
幽霊なんて信じていないが、少し怖い。
僕はスマホのライトを付けて、台のあいだを抜けて、薬品棚のほうへ歩く。
とりあえず、三階までぐるりと一周すればコウも満足するだろう。じぶんから肝試しをやりたいと騒いでいたはずのコウは、なぜだか僕のうしろにいた。
「で、お前なんで僕のうしろにいんの?」
ストレートに訊ねてみると、コウはうしろから僕を見上げて、言った。
「だ、だって怖いから!」
「僕は盾要員だったのかよ……」
僕が女の子だったら、サイテー! って平手打ちしていると思う。
なんてやつだ、と呆れていると、不意に僕の腕にしがみついていたコウが叫んだ。
「ちがっ……ぎゃっ!?」
「うわっ、なんだよ!?」
突然叫ばれたら、幽霊なんて怖くない僕だって驚く。
「だってなんかそこにひとがっ!!」
「あぁっ!?」
ひとだって!?
内心ビビり散らしながらコウの視線の先を辿ると、棚と棚のわずかな隙間に、かなり古びた人体模型が置かれている。
「って……なんだ、人体模型か。びっくりしたー」
コウはこの人体模型に驚いたらしい。
ライトを向けると、ぎょろりとした目玉や皮膚を剥がれた肉体が闇のなかにゆらりと浮かび上がる。たしかに、これは怖い。
「つーかおまえの声のほうがびびるってば」
「ははっ、わりい!」
そのまま僕たちは理科室を出ると、階段を昇る。廊下を進んで、突き当たりの音楽室に入ると、モーツァルトやリストの肖像画がじっとこちらを見つめている。……わけはないのだが、なんだかそんなふうに感じる。
夜の学校はなるほど、不気味だ。怪談が生まれるのも分かる気がする。
「それにしてもよく知ってたね。こんなとこ」
「うん! 掃除の時間、いつもここでサボってたんだ。窓ガラスがきれーだなーって思って」
「あぁ……なるほどな」
それは、入学時に僕も思ったことがある。
旧校舎の窓ガラスは、すべてステンドグラスになっているのだ。
きれいだと思ったけれど、それだけだった。わざわざ見に来ようなんて思ったこともない。立ち止まってしっかり見たこともない。
僕とコウはきっと、こういうところが根本から違うんだろう。
「……コウは、よく気が付くな」
「そうか?」
「うん。僕もここはきれいだと思ってたけど、わざわざ来ようとか思ったことなかった。学校もそうだけど」
「まぁ、ふつうそうじゃない? 逆に俺は、学校に通ってなかったから新鮮に感じてるだけでさ。言ってみれば、海外旅行に来た気分なんだよ」
「海外旅行……?」
「そ。なんぴとたりも、じぶんにとっての新鮮なものに飛びつくってことだよ」
「……ま、たしかにそうかもしれないな」
理科室に戻り、窓から外へ出る。
「あー結局、幽霊見れなかったなぁ」
「いるわけないだろ。本当に幽霊に会えるかもって信じてたの?」
「当たり前じゃん!」
と、つまらなそうに口を尖らせるコウ。
「とにかく、帰るぞ。もう眠い」
「だな〜」
そして僕たちの肝試しは、怪奇現象の気配はまるでないまま幕を閉じた、はずだった。
***
翌朝、コウとともに食堂へ行くと、石田が声をかけてきた。
「あっ、おまえらー! 昨日マジでうるさかったんだけど! あんな時間になに騒いでたんだよ?」
石田に説教され、僕とコウは顔を見合わせる。
騒いだ記憶はないが、もしかして肝試しに行く前の言い合いのことを言っているのだろうか。でも、あのくらいの声量なら、隣室とはいえ聞こえていたとは思えない。となると、きっとべつの部屋のことだろう。
「なんの話? 僕たち、昨日は静かにしてたけど」
というか、いなかったけれど。とはさすがに言えない。
「は? いや、昨日の夜中、すごいどんちゃん騒ぎしてたじゃん!」
僕は眉を寄せ、首を傾げる。
「何時頃?」
「二時半とか、そのくらい」
「二時半……?」
その頃なら、ちょうど肝試しをしていた時間だ。寮にはいなかったはずだが。
「あ、その時間なら俺らは……」
うっかり抜け出したことを話そうとするコウの口を、慌てて塞ぐ。
「なにしてたの?」
怪訝そうな顔をする石田に、僕は笑ってなんでもないと誤魔化した。
「その時間、僕たちはぐっすりだったよ。たぶん、べつの部屋じゃない?」
「え? そうなの? でも、左隣の奴らは実家帰ってていないしなぁ……」
「え……そうだっけ」
周囲の温度が数度下がったような気がして、背筋が冷えていく。
「でも、昨日はマジではっきり声が聞こえてきたぞ? 帰るだの帰らないだの、帰すだの帰さないだの」
「なんだそれ?」
「……あと、最後になんて言ってたかな……あぁ、そうだ。〝この際ふたりとも連れていっちまうか〟って、聞こえたけど……」
ガタッ!
大きな音がして振り向くと、コウが椅子から落ちかけていた。
「お、おい、コウ。どうした?」
「あ……いや、なんでもない」
コウの顔色は蒼白で、とてもなんでもない状況ではないように思える。
僕はコウに手を貸しながら、
「なんだよ、言えよ」
とせっつくと、コウは呆然と床の一点を見つめたまま、呟いた。
「……や、実は俺、そのセリフを聴いたことがあって……」
「聞いたことがあるって、どこで?」
「……入院してたとき。ちょうど夏の終わりくらいに、俺が高熱出して寝込んでたときに、真夜中、どこかから聴こえてくるんだ。このまま連れていくか、どうするかって」
入院してたとき。
夏の終わり。
真夜中。
それらの単語に、ざわっと鳥肌が立った。
「え……なにそれ」
「それってもしかして、幽霊ってこと……?」
僕はコウと目を見合わせる。
「や……ま、まぁ、まさかな」
「そ、そうだよ。そんなまさか! 僕たち、そんな声聴いてないし」
幽霊とか、僕ぜんぜん信じてないし。いるわけないし。
「だよな。うん、気のせい。石田の気のせいだよ!」
「そうそう。疲れてただけじゃない?」
「そうだ! きっと夏バテだよ。ほら、僕の目玉焼きあげるから体力つけな!」
石田は真面目だから、きっと勉強疲れで変な夢でも見たのだろう。僕はじぶんの皿からとっておきの目玉焼きを石田の皿にのせてやった。
「は? あ、ありがと……」
石田は困惑気味に僕とコウを見比べながら、礼を言う。
「おかしいな……たしかに聞いたんだけど」
石田は未だに首を傾げている。
「まぁまぁ、もういいじゃんこの話は」
「そうだよ」
何度も『違う』と呟き、僕たちは引き攣りそうになる顔に、無理に笑みを作った。
もう二度と、肝試しをするのはやめよう、と誓った、夏の日のことである。