寮監の目を盗み、こっそり外に出る。といっても、この時間だ。寮監ももう寝ているだろう。
「靴音響かないようにな」
「おっけ」
こそこそしながら外へ出ると、コウは小さな声で騒ぎ出す。
「うわぁ、やば! なんか、なんか夜の町ってめっちゃドキドキするな!」
コウは興奮を隠せないといった感じで、辺りをきょろきょろと見回している。まるで子どものようだ。
「……で、肝試しってどこ行くの? 墓地とか?」
訊ねると、コウは得意げに笑った。
「いーや。肝試しといえば、やっぱり学校だろ!」
「学校!?」
眉を寄せてコウを見る。その瞬間、暗闇のなかにあったコウの顔が、パッと白色の光にライトアップされた。
「学校の怪談をたしかめに行くんだよー!」
「うわっ!?」
思わず大きな声を上げてから、慌てて口を押さえ、背後を振り返る。ここはまだ寮の玄関の前。大きな声を出したら最悪、寮監にバレてしまう。
「おまっ、まだ寮の前なんだから脅かすな!」
「はははっ! ごめん!」
無邪気に笑うコウの腕を小突き、僕は文句を言う。
「怒んなよ。ほら、早く行こーぜ!」
そう言って、コウは僕の手をとってずんずんと歩き出した。
僕は、コウの手をまじまじと見ながら、ふと思う。そういえば、こんなふうに歩くのは、初めてだ。
というのも、コウを引っ張るのはいつも僕の仕事だった。それが今は立場が逆転している。
「……いつもの登校も、このくらい前のめりになってくれるとありがたいんだけどなぁ」
ぽつりと呟くと、コウが笑った。
「それはムリ!」
「なんでだよ」
あんまり元気のいい返事だったので、ちょっとがっかりだ。ツッコむと、コウがおどけてみせる。
「だってなんか、朝はだるいんだもん!」
思わず脱力した。ため息が我慢できない。まったく、コウといるとため息が頻繁になって仕方ない。
「おまえ、今は僕がいるからいいけどさ……大学に行ったらどうすんの? いつまでもひとりで起きられなかったら、将来困るのはじぶんだぞ」
説教じみたことを言う僕に、コウが足を止めて振り返る。コウは、きょとんとした顔をしていた。
「えっ。柚月、ずっとそばにいてくれるんじゃないの?」
「はっ?」
素っ頓狂な声が出る。コウは僕の手をぎゅっとしたまま、澄んだ眼差しで僕を見てくる。
「えっ、待って待って! 俺ら、卒業したら離ればなれになるの!? やだよ、そんなの!」
コウが眉を下げて擦り寄ってくる。不意に接触したコウの体温が、やけに生々しく感じられて、僕の心臓は分かりやすく飛び跳ねた。
いや、てかその前に。もしかしてコウは、高校を卒業したあともずっとあの寮で暮らせるとか思っていたのだろうか。
有り得ない。僕たちが今暮らしているあそこは、高校の男子寮だ。高校を卒業したら退去しないといけないことくらい、ばかでも分かるはず。……と、思いたいのだが。
「……いや、でも……行く大学によっては、そうなるんじゃないの? 地元の大学行くとも限らないし」
地方に行く場合は、引っ越すことになる。
戸惑いながらもそう返すと、コウは僕から視線を外し、少し俯いた。
「……コウ?」
覗き込むように声をかけると、コウがパッと顔を上げる。そして、澄んだ瞳で僕をまっすぐに見つめて、宣言した。
「じゃあ俺、柚月と同じ大学行く!」
コウのまっすぐな言葉に、一瞬たじろぐ。
「……や、いやいや。大学はそういう理由で決めちゃダメだろ」
「え、そうなの? じゃあ、どうやって決めんの?」
「大学はそりゃ、仕事に繋がる学部に行くとか取りたい資格から逆算して決めないと。たとえば、弁護士なら法学部がある大学じゃないとダメだし」
「……なりたいもの……」
コウが夜空を見上げる。
「うーん、俺はべつになにもないなぁ。柚月はあんの?」
コウの視線につられるように、僕も夜空を見上げた。
「……いや、僕もまだ……」
ないけど、と呟く。
「ふぅん」
僕には夢がない。
昔からそうだった。
人前に出たり歌が好きだった水月と違って、僕にはなりたいものも、欲しい資格もない。
だから、必死に勉強して頭のいい子になろうとした。
でも……。
「やっぱり、目標がないと勉強なんかしたって無駄なのかな……」
たとえるなら僕は、駅のホームで立ち止まったままのひとだ。
行き先がないから、電車に乗れない。電車に乗り込んでいくひとたちを、僕はいつも、黙って見送るだけ――。
「そんなことないだろ?」
コウの声が、すっと僕の淀んだ不安を切り裂いた。
「勉強って、目標がないからするんだと思うね、俺は」
「え……」
「だって、夢がいつ見つかるかなんて、生きてみなきゃ分かんねーし。でもさ、いざ夢が見つかったとしてだよ? その夢に近づくためにはめっちゃ難しい資格が必要で、その資格は大学行かなきゃ取れないってなったら、大学に受かるだけの学力が必要になるだろ?」
想像しながら聞いて、頷く。
「まぁ……そうだな」
「そのための勉強なら、ぜんぜん無駄じゃねーじゃん! 勉強する理由なんて、それだけでもうじゅうぶんじゃね?」
唇の隙間から、ふっと息が漏れた。
「……それも、そっか。コウはたまーに良いことを言うな」
笑いながら、弾む心臓をなんとか誤魔化す。
「たまーに!? いつもだろ!」
「いや、たまーにだよ」
そう。たまーに。
「なんだよもう!」
文句を垂れながらも、コウは笑っている。その笑顔につられるように、僕も笑った。
「だから、卒業してからもいっしょに住もうな!」
そう、コウは恥ずかしげもなく、屈託もなく、ストレートに言う。今すぐ頷きたくなる衝動と、上がりそうになる口角を堪えながら、僕は、
「それは保留で」と返した。
「えー!! なんでだよぉ!」
「しつこいって」
「なぁ、柚月ぃ」
不満そうに詰め寄ってくるコウをあしらっているうち、学校に到着した。
夜の学校は引き戸門扉が閉じられていて、なかへは入れないようになっている。けれど、この場所以外、敷地のまわりは二メートル以上の柵でぐるりと囲われていて、なかへ入るにはここをよじ登るしかなさそうだ。
「よっと!」
軽く助走をつけて、鉄の門扉に飛び乗る。
「おぉ! さすが」
「言ってないで、ほら、早く手出せ。引き上げてやるから」
門扉に飛び乗ったまま、コウへ手を差し出す。伸ばされたコウの手を掴み、ぐっと引き寄せた。
「おわっ!」
そのままコウを抱え込むと、不意に耳元に吐息が触れて目の前が揺らいだ。さらに僕のものと同じ柔軟剤の香りまでが鼻先を掠める。
「お、おまっ、よろけてるって!」
三石の声で我に返り、慌ててコウを抱えていた手に力を入れる。
「ご、ごめん。大丈夫か?」
「柚月こそ大丈夫かよ?」
「う、うん、平気……」
地面にコウを降ろすと、僕はひとまずコウから離れて深呼吸を繰り返す。
あぁ、もう。落ち着け、僕。
「さてと、到着したぜっ!」
コウが元気よく叫ぶ。昼間の喧騒と切り離された静かな夜空に、コウの声は凛と響いた。
「……なぁ、ここまで来たはいいけど、学校って鍵開いてないよな?」
「新校舎はね! ただーし、旧校舎は一箇所だけ鍵が壊れてるところがあるんですよ!」
「旧校舎?」
そういえば、うちの高校には校舎がふたつある。ひとつは僕たちの教室がある新校舎で、もうひとつは今は使われていない旧校舎だ。