――そして、初めての入学式を迎えた春。
俺はまた、運命に出会った。
――藤峰柚月。
受験のときに助けてくれたあの男子学生と、偶然にも再会したのだ。
残念ながら、その男子学生――藤峰くんのほうは俺のことを覚えていなかったけれど。でも、それがちょっと嬉しかったりもした。
だって、あのできごとを覚えていないということは、藤峰くんにとって道端で倒れているひとがいたら助ける、という行為が当たり前のことなのだと分かったから。
あんな現場、そうそう居合わせるものでもないはずなのに。特別なことをしたと思っているなら、きっと彼の記憶に俺の存在は残っていたはずだ。
でも、その記憶のなかに俺はいない。
つまり、彼にとってひと助けは、息をするように当たり前の行為なのだと。
藤峰柚月くん。
いったい、どんなひとなんだろう?
仲良くなりたいな。
けれど、話しかけるチャンスをうかがっているうちに、数週間が経過してしまっていた。
ほかの奴らとはすぐに打ち解けることができたのに、藤峰くんとはぜんぜん接点が作れないまま、どんどん時間だけが過ぎていく。
特別過ぎて、怖い。でも、諦めたくない。相反する感情の狭間で悩んでいたとき、彼の噂を耳にした。
特待生で入学した優等生。
みんなが頼れる委員長。
そして――藤峰水月の弟であるということ。
……藤峰水月の弟!?
驚いた、なんてものじゃない。
憧れの水月。その弟が、同じクラスにいる。
まるで漫画かアニメの世界だ。
これを運命と呼ばないのなら、なんと呼ぶのだろう。
俺たちはやっぱり運命だったのだ。
もちろん、憧れの水月との接点ができた、と喜んだのではない。
藤峰くんとの縁を、水月が繋いでくれたということが、嬉しかった。
わくわくした。心臓がときめく、という経験を、初めてした。
――だけど。
しばらく彼を観察するうちに、気付いた。
藤峰くんは、いつもひとりだった。
特定のだれかとつるむことなく、いつもひとり黙々と勉強している。
委員長として、クラスのみんなの悩みや問題の相談に乗っていたりはするけれど、それ以上はない。部活にも入らず、寮もひとり部屋。
朝早くひとりで登校して、授業が終わった放課後はずっと自習室。下校時刻になったら寮に戻って、それからはずっと部屋で勉強。
藤峰くんは、そういうサイクルで生きていた。
付け入る隙がなかった。
『委員長ー、課題見せてよー』
『委員長、このプリント配布頼む』
『あの子、藤峰水月の弟らしいよ』
『藤峰って、あの特待生の? なんかツンとしててイケすかねーよな』
『家族が芸能人だからって、じぶんも特別だとか勘違いしちゃってんのかな?』
しばらく彼を観察していると、もうひとつ気付いた。
それは、だれも彼のことを名前で呼ばないということ。
『委員長』とか、『特待生』とか、『水月の弟』とか。とにかく、名前を呼ぶ奴がひとりもいないのだ。
あだ名なんてふつうのことかもしれないけれど、なんとなく気になった。
だって、名前ってその存在を認めるためのものだ。
みんな、名前で呼ばれたいと思うものなのではないだろうか。
だから俺は、まず彼を名前で呼ぶことにした。
『柚月』って。
だってそうすれば、俺を見てくれるかもしれないと思ったから。俺が特別になれるかもしれないチャンスだったから。
それから、わざと寝坊するようになった。寝坊すれば、柚月が迎えに来てくれるって分かっちゃったから。
初めは体調が優れなくて、本当に起きられなかっただけだったけど、その日から三日に一回くらいは、わざと起きないようにした。
柚月が迎えに来てくれれば、学校までいっしょに登校できるから。ふたりで話す時間が作れるから。
友だちの作りかたを知らない俺にとってその時間は、ささやかな楽しみになっていた。
けれど、あんまり遅刻していたら、雨谷先生に呼び出されてしまった。
『さすがにな。これ以上はな』と。
このままだと、部屋を変えざるを得ないと言われた。
柚月と同じ部屋にして、規則正しい生活に慣れるように矯正させるぞ、と。
たぶん、雨谷先生は脅しのつもりだったんだろうけれど、俺にとってはこれ以上ないご褒美だ。
だって、柚月と同じ部屋だなんて。
ぜったいなりたい。
だから、
『お願いします!!』
俺は食い気味で頭を下げた。
柚月のことをもっと知りたい。
柚月ともっと仲良くなりたい。
柚月はどんな歌を聞くんだろう。
どんなドラマを見るんだろう。
歯磨き粉はなにを使う?
目覚ましの音はなににしてる?
ささいなことまで気になってしまう。
これじゃあまるで、恋する女の子だ。
『……あぁ、そうか』
これは、恋だったのか。
俺は、柚月に恋をしていたのだ。
じぶんと同じ特待生に。
ルームメイトに。
アイドルの弟ではない、藤峰柚月に。
そして――同性である、男に。
柚月のことを知れば知るほど、水月でいっぱいだった俺の頭のなかが柚月で塗り替えられていく。それは、柚月が俺にとっての特別であることの証拠だった。
けれど、残念なことに、俺は柚月にきらわれているらしかった。
俺は柚月のことが大好きなのに、柚月はそうじゃないみたい。
いつも鬱陶しそうに俺を見るし、説教をしてくる。いつも文句ばっかり。俺に指示するばっかり。
言うことをきかないと、怒る。
でも、その忠告を素直に聞いて、いい子になったら部屋をまた戻されてしまうかもしれない。
それはいやだ。
なにか、柚月と秘密を共有することができれば……。
考えて、俺はじぶんがゲイであることを告白すると決めた。柚月が好きだというのは伏せて。
優しい柚月のことだ。ルームメイトがゲイだと知ったら、たぶん、気を遣って俺に優しくしてくれるだろう。
でも、俺の気持ちがじぶんに向いていると知ったら、どうだろう。
きらわれたくない。
俺はきっと、彼に好かれることは永遠にない。
それならいっそ、ただの同情でもいいから、柚月の視界に入っていられる人間でいたい。まあ……できれば、好かれたいけれど。
そうして俺は、うそを重ねた。
***
肝試しからの帰り道。
結局、怪奇現象なるものには出会えなかった。けれど、またひとつ柚月との大切な思い出ができたから、俺としては大満足だ。
「さて、そろそろ戻ろ。バレないうちに寮に帰らないと」
「えーもう? あっという間だったなぁ……肝試し」
「……まぁ、そうだね」
相槌を打つ柚月の声も、少しだけ名残惜しそうなニュアンスを含んでいる気がするのは、きっと気のせいじゃない。それが、とてつもなく嬉しい。俺にしっぽがあれば、たぶんはち切れんばかりに振っていることだろう。
「でも、楽しかったな!」
嬉しくなって、笑顔で笑いかけると、
「……うん」
柚月もわずかに笑った。
ほんの些細な表情の変化だけど、今ならその変化がちゃんと分かる。ちゃんと気付ける。その変化が嬉しくて、俺は叫び出したい衝動を必死に堪える。
入院していた頃、楽しい時間はあっという間だという言葉を、俺はぜったいうそだと思っていた。
だって、入院していた頃は一晩が果てしなく長く感じていたから。
でも、柚月が教えてくれた。
あの言葉は、うそではなかった。
柚月といると、驚くほど時間が早く過ぎていくのだ。このまま時間が止まってしまえばいいのに、なんて乙女チックなことを考えてしまうくらいに、早く。
歩きながら、ぼんやりと空を見上げる。
このまま帰るのはやっぱり惜しい。もう少しだけ、柚月とふたりで特別なことをしたい。
「……なぁ、柚月。コンビニ寄っていかね?」
「はぁ? 今から?」
「うん、今から!」
柚月が呆れた顔を向けてくる。まぁ、予想どおりの反応だ。
「学校にチクられたらどうするんだよ」
「私服だし、学生かどうかなんて分かんないんじゃない?」
ちょっと下手に、可愛らしい……かどうかは分からないが、できるかぎり可愛らしく甘えてみる。
「ダメ。夜中は客が少ないから、顔を覚えられやすいんだよ」
ばっさりだ。
「ちぇー……アイス食いたかったのに」
真面目な柚月は、俺の提案をあっさり却下。相変わらず、カタブツくんだ。そんなところも好きなんだけど。
「アイスくらい、明日まで我慢しろよ」
「うへぇ。出た、我慢」
俺がこの世でいちばんきらいな言葉。そして、柚月がよく口にする言葉でもある。
「茶化すな。お前は我慢が足りな過ぎなの」
柚月に諭される。
「自覚してます〜。……でもさぁ、わがまましたくなるのが人間じゃん?」
「それを自覚して、我慢するのが人間なの」
「うっ……ああ言えばこう言う」
「おまえのためにな」
俺のことをすべて分かってるような口ぶりで、柚月が言う。
俺のためって、なんだよ、それ。俺だって我慢くらいしてる。これ以上無理って叫びたくなるくらい、毎日柚月を我慢してるのに……。
俺の我慢なんてなんにも気付いていない顔をする柚月にイラついて、俺は衝動的に柚月の手を掴んだ。
柚月が驚いた顔で俺を見る。
「なんだよ、怒ったの?」
「……ちげーよ」
違くない。本当はめちゃくちゃ怒ってる。
まるで俺のことなんて意識してませんというような無防備な顔を向けられて、胸が苦しくて、よく分からない涙が出そうになっている。
ムカつくのに、腹が立ってるのに、繋がれた手から伝わる柚月の体温は、たやすく俺の心臓を掻き乱して、甘く俺を絆していく。
あぁもう、なんで俺、こんなに柚月のことが好きなんだろ。俺ばっかりが柚月を好きで、いやになる。少しは意識しろってんだ、ばか。