『ねぇコウ。もし、コウの病気治ったらさ、ふたりで水月のライブ行こうよ!』
ある日、俺の病室でライブ配信をいっしょに見ていた姉ちゃんが言った。
『俺と姉ちゃんでライブ? でも……』
心臓は、手術をしないと治らない。喘息のほうは大人になるにつれてだいぶ軽くなってはいたけれど、それでも年に一度は発作を起こしている。退院だってできないのに、ライブなんてまず無理だ。
答えられず俯いた俺の手を、姉ちゃんがぎゅっと握る。
『そんなことないよ! 私、それまでライブ我慢するから!』
『えっ!?』
びっくりして姉ちゃんを見る。
『だからさ、コウも頑張ろうよ!』
姉ちゃんは、どこか必死な顔で俺を見ていた。祈るような眼差しだった。
その目を見て初めて、俺は姉ちゃんにずっと心配をかけていたことを自覚した。
瞬間、目にじわっと涙の膜が張る。涙とともに、ずっと抱えていた思いがあふれた。
『っ……姉ちゃん、ごめんっ、俺、ずっと姉ちゃんに甘えてばっかで……弱虫で』
姉ちゃんは、感泣し出した俺を優しく抱き締める。
『いいんだよ、そんなのあんたは気にしなくて。手術が怖いのは当たり前だもん。私がコウだったら、きっと毎日泣いてるよ。ママとパパに八つ当たりしてるかも。……だから、コウはじゅうぶん強いんだよ?』
初めて聞くような、優しい声だった。
『そんなことないよ……だって俺、手術したくないって、ずっとわがまま言ってる。みんなに迷惑かけてる』
すると姉ちゃんは、違う、と強く否定する。
『それこそ迷惑じゃないよ。私もママもパパも、ただ心配してるだけ。コウに生きててほしいだけ』
――生きててほしい。
胸がきゅっと苦しくなる。
俺は、生まれてきてよかったと思えたことが、これまで一度もなかった。俺を産んだ両親を恨みに思ったことさえあった。なんでこんなに苦しまなきゃいけないのか、と。
でも。苦しいのは、俺だけじゃない――?
『……姉ちゃんも?』
『え……』
身体を離して、俺はおそるおそる姉ちゃんの顔を覗く。姉ちゃんは困惑気味に眉を寄せていた。
『だって姉ちゃん、俺のこときらいじゃないの?』
『はぁ!? なんで私が……ちょっとコウ、どういうこと?』
機嫌が悪いときの反応をされて、思わず怯む。姉ちゃんは目付きが悪いから(俺に似て)、睨むとかなり迫力が出る。
『だ、だって……生まれたときから俺が病気だったせいで、姉ちゃんは小さい頃からずっと我慢することを強いられてきただろ……?』
それでなくとも、両親はずっと俺につきっきりだったから、姉ちゃんはいつも寂しそうにしていた。
コウばっかりって、両親に泣いて文句を言っていたことも知っている。
それがずっと、申し訳なかった。
『俺さえいなかったら、姉ちゃんはお母さんとお父さんにもっとたくさん愛されたはずなのにって……』
そこまで言ったとき、頭上からゲンコツが降ってきた。
『いだぁっ!!』
頭を押さえて姉ちゃんを見る。
『なっ、なにすんだよ!?』
抗議するつもりで顔を上げると、いつも勝気な姉ちゃんが、目を潤ませて俺を睨んでいた。
『あんたがバカなこと言うからでしょ! あのねぇ、コウ。私たち、家族なんだよ!? 血が繋がった弟のことをきらう姉がいるか!!』
――家族。
『で、でも……』
『家族はねぇ、遠慮とかするもんじゃないんだよ!』
『むぐっ……!?』
姉ちゃんは俺の両頬を手のひらで挟み、無理やりぐっと俺を上に向かせる。そして視線を合わせ、言った。
『そりゃ、子どもの頃は寂しいこともあったし、わがまま言いたくなるときもあった。だけど、そんなことできらいになるわけないでしょ! 私は、あんたが泣きながら治療受けてるとこ、何十回も何百回もこの目で見てきてるんだよ! あんたが苦しんでることくらい、いちばん知ってるんだから!』
『姉ちゃん……っ』
再び涙腺が緩み出す。
ずっとひとりだと思っていた。
だれも、この痛みを分かってくれない。
だれも、この苦しみを変わってくれない。
ひとりぼっち。そう思っていたけれど。姉ちゃんも、お母さんもお父さんも、俺の痛みと同じだけの痛みを、抱えていたんだ。
『だから、あんたが手術したくないって気持ちだってちゃんと分かってるよ。わがままだなんてぜんぜん、これっぽっちも思ってないよ。だけど……それでも私は、治る可能性が一パーセントでもあるなら、受けてほしいって思っちゃうんだよ……。コウのことが、大好きだから。これからもコウといっしょにいたいから! これは私のわがままなの! 私がわがままを言ってるの!』
そう、姉ちゃんは涙ながらに言った。
初めて知る姉ちゃんの思いに、俺は再び感泣する。姉ちゃんは子どものように泣きじゃくる俺を見て笑いながらも、その目尻にも透明な涙が光っていた。
しばらくして泣き止んだ俺は、姉ちゃんに向き合った。
『姉ちゃん……俺、手術受ける』
『ほ……ほんと!?』
『うん。……手術は怖いけど……本当は、死ぬほうがずっと怖いから。それに、水月のライブも行きたい!』
『よし!! よく言った! さすが私の弟だ!』
俺は、手術を受ける覚悟を決めた。
姉ちゃんが初めて口にした本音を聞いて、じぶんが初めて漏らした本音に気付いて。
死ぬしかない、と思っていた俺の道を切り開いてくれたのは、家族と、水月の存在だ。
姉ちゃんとの約束。
水月のライブに行く。
たったひとつの目標で、たったひとりの人間との出会いで、世界は変わる。
ひとは変われるのだ。
そんな存在に、いつか俺もなりたい。だれかの人生を変えられるような、そんな影響力を持つ人間に。そう、強く思った。
その後手術は無事成功し、俺は長いリハビリの末、長年暮らした大学病院を退院した。
しかし、手術から一年が経った中三になっても、水月のライブにはまだ行けていなかった。
俺がファンになってすぐ、水月はものすごい勢いで売れ出して、あっという間にドラマに映画に引っ張りだこ。
チケットはファンクラブに入っていても倍率がかなり高く、入手困難になってしまったのだ。
ライブチケットが落選するたびに落ち込みながらも、テレビで見られる機会が増えたことは純粋に嬉しかった。
なんとなく、水月のアイドルとしての成長が、俺の成長と繋がっているような気がして。
そして、ふつうの生活を送るようになった俺は、とうとう学校へ通えることとなった。
水月にハマるまでは勉強で暇を潰していたから、それなりに優秀だったということもあり、受験する高校は、地元の名門私立。
ようやく俺にもひれができて、彼らの群れに混ざれる日が来たのだと、嬉しかった。
しかし、いよいよ迎えた受験当日の朝、悲劇は起こった。
会場に着く直前、最寄り駅の構内で、喘息の発作を起こしてしまったのだ。
発作を起こしたのが人気のないトイレのなかだったということもあり、俺はひとりでうずくまったまま、咳き込んでいた。
気道がほぼ完全にふさがってしまって、息を吸いたくても吸えない。噎せるばかりで、だんだん意識が遠のいてくる。カバンのなかに発作止めの薬があるけれど、取り出す余裕すらない。
どうしよう、こんなに頑張ったのに。怖かった手術だって乗り越えたのに。姉ちゃんとの約束、まだ果たせてないのに……。
――だれか、助けて……。
薄れる意識のなかで嘆いていると、そっと背中にあたたかななにかが触れた。
『大丈夫ですか……!?』
急病人を前にしながらも、落ち着いた声。
タオルで口元を押さえたまま顔を上げると、そこにはどこかの制服を着た男子がいた。
顔は涙でぼやけてよく見えない。ただ、なんとなく雰囲気が水月に似ている気がした。
俺は噎せ返りながらも、なんとか床に落としたカバンを指さす。
『カバン……? あ、薬か! ここ開けるな。どこにある? 内ポケット?』
そのひとは、少し狼狽しながらも的確に薬を探し出し、渡してくれた。
吸入薬を飲み、しばらくして発作が落ち着くと、俺は彼に礼を言った。といっても、発作直後でうまく声が出せず、口パクでだけれど。
それでも彼は俺の口パクを理解してくれたようで、ひっそりとした笑みを浮かべながら、頷いてくれた。ほっとした。
そのあと、俺はなんとか無事に受験を終えて、合格を果たしたのだ。