俺はずっと、ひれがない魚だった。
水のなか、深くて暗い底で、いつもひとり、水面に光る魚たちの影を見上げているだけ。
混ざりたくても、ひれがないからあそこまで泳いでゆけない。
ただ、魚の群れを見上げて、憧れているだけ。
きっと、あの場所にはいけないまま、俺の人生は終わる。
そう思っていた。
あの、優しい光を知るまでは。
***
それは、夏休みも終わりに近づいたとある真夜中のことだった。
「なぁ、肝試し行こーぜ!!」
俺が発案した肝試し。
はた迷惑な誘いであるにもかかわらず、ルームメイトである柚月は、なんだかんだ文句を言いながらも俺のわがままに付き合ってくれた。
真夜中に寮を抜け出して、向かったのは学校。
昼間とはまるで違う雰囲気の校舎に、俺の心臓はどきどきと高揚していた。
こっそり忍び込んで、旧校舎のいちばん奥の教室を目指す。そこの窓だけ鍵が壊れていることを、俺は知っていた。掃除の時間に気付いたのだが、先生に知らせるのを忘れていたことを、数日前に思い出したのだ。
鍵が壊れていた教室は、昔の理科室だった。
藍色が落ちた室内。ヒビが入った試験管に、薄汚れてしまったビーカー。星空がぎゅっと詰まった水玉が落ちそうで落ちない蛇口。
壁にかけられた標本の蝶は、今にも飛び出してきそうなほど大きく感じる。
明かりがないからか、それとも人気がないからか、なんだかいけないことをしているような気分になってしまう。……まぁ事実、不法侵入という大変いけないことをしているのだけど。
「やべー興奮するってこれ! な、柚月!」
大きな声を出す俺のとなりで、柚月は苦笑いをしている。
「お前は夜中なのに元気だな……」
「柚月は相変わらず冷静だな」
お化けは怖くないらしい。相変わらず冷めた男だ。可愛い反応を期待していたから、ちょっと残念。
「なっ、次行こ、次!」
俺は怖いふりをして柚月の背中に隠れつつ、次の部屋へ行こうと促す。
「こら、あんまり押すなよ。……ったく、勇ましいんだかビビりなんだか分かんないな……」
「へへへ」
本当は、お化けなんてぜんぜん怖くない。だって、お化けなんて病院にはごろごろいたから。
今日、肝試しがしたいと言ったのは、どうしても柚月とふたりだけの思い出がほしかったから。
怖がるふりをしているのは、もっと柚月のそばに行きたかったから。
触れたかったから。
柚月に俺を、少しでもいいから意識してほしかった。
好きだった。
ただどうしようもなく、柚月のことが。
もし俺がそう言ったら、柚月はどう思うのだろう。
俺は柚月の背中をぐいぐいと押しながら、柚月と出会う前のことを思い出していた。
***
――俺は、生まれつき身体が弱かった。
疾患は、心臓。そして、一歳のときに喘息も発症した。
心臓のほうは、三歳までに二回手術をしたけれど、完治はしていない。発作を起こすたび、頭のなかが真っ白になって、そのたび、『あぁ、俺はもう死ぬんだ』と思った。でも、俺は生きていた。
肺にはすぐに痰が絡まって、咳が止まらなくなった。
うまく息ができなくて、いつもヒューヒュー苦しくて。
頑張って痰を出そうと唾を吐くけど、うまくできない。
吸引をすると楽になるけど、麻酔なしで口や鼻から直接チューブを入れられるから、される瞬間は苦しくて痛くてたまらない。
でも、暴れても、泣いても、ゲロを吐いても鼻血を出しても止めてはくれない。
そうやって、身を削るようにして一日一日を必死で生きてきた。
ベッドに横たわる俺を見るたびに、家族は悲しそうな顔をしていた。
申し訳なかった。
早く元気にならなきゃ。家族が笑えるように。家族がもう心配しなくてすむように。
そう思うけれど、同時に勝手だなと腹が立った。
だって、治療がつらいのは俺だけ。家族は痛くも痒くもないのだ。そんな顔をするくらいなら、この痛みを代わってくれたらいいのに。
身体が成長するにつれて、喘息はゆっくり改善されていったけれど、心臓のほうは日毎悪くなるばかりだった。
ふつうに生活するためには、もう一度手術をする必要がある。
主治医の先生には、物心ついた頃からそう何度も言われてきた。
――手術をしよう。
先生も看護師も、家族もみんな、簡単に言ってくれる。
助かる道がそれしかないのは、理解している。
でも、頭では分かってはいるけれど、大人になればなるほど、『手術』という言葉に恐怖心は膨らむものだ。
だって、怖いじゃん。
手術してぜったい治るという保証があるならいいけど、そうじゃない。それに、手術自体が失敗する可能性だってある。
眠ってるあいだに終わっちゃうよ、なんて看護師さんは簡単に言うけれど、眠ったまま起きられなかったらどうなるの?
そう訊ねると、黙り込んだ。答えをくれなかった。
――死ぬよ。
そうも言わなかった。大人はずるい。
手術のことを考えるだけで、夜なんて簡単に眠れなくなる。術後のリハビリだって、頑張れる気はしなかった。
それになにより、手術してまで生きる意味が分からなかった。
こんな身体なら、生まれてこなければよかった。
夢も、希望も、なにもない。こんな世界、生きている価値なんてあるのか。
そう思いながら入院生活を送っていた十三歳の夏、俺は、運命に出会った。
『――藤峰水月?』
見舞いに来た姉ちゃんが、俺にスマホを見せてきた。画面には、知らない男性アイドルグループの写真がアップで映っている。
『だれ? これ』
『私が今超ハマってるアイドル!』
『へー……』
正直ぜんぜん興味なかったけれど、姉ちゃんがあんまり興奮気味に話すものだから、仕方なく話に付き合ってやっていた。
『私の推しはこの子なんだけどねー……見てみて、この藤峰水月って子! ちょーイケメンじゃないっ!?』
――藤峰水月。
端正な顔立ちをした俺と同年代のアイドル。
そのひとを見た瞬間、脳天に雷が落ちたような衝撃を受けて、気が付けば息をすることを忘れていた。
きれいな顔。きらきらした瞳。無邪気な笑い声。
水月のぜんぶに憧れた。男が男に憧れるなんて、おかしいのかもしれない。でも、好きなものは好きなのだ。
俺は、あっという間に水月のファンになった。
当時はまだ駆け出しで、ぜんぜんテレビの露出はなかったけれど、動画サイトでは結構人気があるようだった。
水月を知ってから、俺の世界は変わった。
毎日、彼を見るようになった。
笑うことも多くなった。
夜、眠るのも少しだけ怖くなくなった。
明日が、楽しみになった。