プールサイドに上がると、僕は裸になってぐっしょりと濡れた制服を絞る。
水が滴る。細く落ちる水の糸を、僕はじっと見つめる。
「うわ、やべー! パンツまでびちょ濡れだぁ」
となりで三石も同じように制服が含んだ水を絞っている。
「あ、なぁ柚月、タオル貸して」
持ってないのかよ。
「まったく……」
カバンからタオルを取り出して、三石の顔面にぶん投げる。
「わぷっ」
三石は顔面でタオルをキャッチした。
「とろいな」
三石は、意外と反射神経が悪い。圭司たちが言っていたが、バレーも下手くそらしいし、よくつまずいているところも見る。階段もいつも手すりに掴まって降りていたような。
なんでも涼しい顔でこなすと思っていた三石にも、苦手なものはあるのだ。僕と同じように。
「……なぁ柚月、もしかして怒ってる?」
「え?」
考えていると、ふと三石に声をかけられた。タオルで顔を拭きながら、ちらっと見てくる。
「……べつに、怒ってないよ。お前がこういうやつだってのは、もう知ってるし」
「ほんと?」
「うん」
怒っていない。
ただ、少し驚きはした。水のなか独特の、あのいやな苦しさを感じなかったじぶんには。
「いやー俺、プール入ったの初めてだわ。結構塩素臭いんだな」
「は? 初めて? プールが?」
驚いて三石を見る。
「うん? そうだけど」
「中学でプールの授業なかったの?」
訊ねると、三石は気まずそうに曖昧に笑って、
「あー俺、最近まで身体弱かったからなぁ。学校にちゃんと通うの、高校が初めてだし。中学まではずっと、入退院の繰り返しだったんだよね」
顎が外れかけた。
「……マジで?」
「マジで。ほら俺、毎週木曜病院通ってるじゃん?」
そういえば、圭司がそんなことも言っていたような。
「いや、聞いてないよ! なに、病気!? 死ぬやつじゃないよな!?」
食い気味に問い詰めると、三石はいつものへらっとした力の抜けたような笑いかたをする。
「ははっ、死なない死なない! だからそんなびびんなって!」
「だって……」
「命には別状ないけど、ふつうとは程遠い生活してたわけ。だから、俺は生きてるだけでじゅうぶんなんだ。親も姉ちゃんも、俺が元気にしてるだけで嬉しそうにしてくれるし。実際学校ってめっちゃ楽しいしな!」
耳を疑う。
「学校が……楽しい?」
訊き返すと、三石は大きな目をぱちりとさせながら頷いた。
「楽しいだろ? 友だちに会えるし、放課後とか友だちと遊べるし! だから、そーゆうの知るために学校に通ってる!」
学校とは本来、勉強する場所だ。だけど、三石の言うことも間違ってはいない。
三石は、以前にも同じようなことを言っていた。そんな彼を、僕は甘ったれだと、思っていた。
でも。今は。
ぜんぜん、そうは思わない。そうは思えない。
三石は本気でそういう青春をしようとしている。なんなら、命懸けで。
そんな甘い世界じゃない、と思っていたけれど。三石はこれまで、ここよりもっとずっと厳しい世界で生きていたのだ……。
考えてみれば、これまでの三石の言動や行動は、学校で集団行動を学んできたとは思えないものだった。
けれど、ずっと入院生活を送ってきた三石にとっては、すべてが学びだったのだ。
朝、ちゃんと起きて学校へ行くことも、体調によってはつらいこともあっただろう。
だけど僕は、三石の事情なんて知ろうともせずに、ただ怠け者だと決めつけて呆れていた。なんでこんなこともできないのかと……三石の体調なんて、気にかけたこともなかった。
「……ごめん。僕、三石のことずっと呆れてた。まともに集団行動すら送れない、どうしようもないやつだって……」
声に後悔の色が滲む。三石はそんな僕を見て、からっと笑った。
「はは。べつにその認識は間違ってないし! それに、事情を言わなかったのは俺だからな! 柚月が気にすることはないよ」
そうかもしれない。でも、はじめから先入観を抱いていたのは、よくない。特に、僕はそれでさんざんいやな思いをしてきたから。
余計にじぶんが許せなかった。
気付かないうちにじぶんもだれかを傷付けている可能性があるということを自覚しなければ、いつか取り返しがつかないことをしてしまうかもしれない。
「今はもう、体調は大丈夫なのか?」
「うん。ぜんっぜん元気だから! ……あ、だからさ、みんなには言うなよ? 身体弱いとか思われんの、なんか恥ずいし」
「……それはもちろん、言わないけど。……いや、けどさぁ……」
僕はぽりぽりと頭を搔く。
「……ったく、なんだよそれ。学校行ったことなくて特待って、おかしくないか」
余計に、三石のスペックの高さに困惑する。
「ははっ。病院で暇過ぎて死ぬほど勉強してたら、まぐれで特待生受かっちゃったってやつ。だから俺、べつに特待生であることにこだわりないんだよね。親は、俺が学校に行けてるってだけで喜んでくれてるし。俺は俺で、初めての学校生活は遊びまくるつもりだったし!」
……なんだ、そうだったのか。
これまでも三石は、特待生には興味がないと言っていた。それは、必死に勉強する僕をからかっての言葉だと思っていたけれど、三石はただ本当に、素直な想いを言っていただけだったのだ。あの言葉には、悪意なんてなかったのだ。
まったく、全身から力が抜けていく。
「……お前らしいな」
「えーそう?」
そっか、そうだったのか。へなへなと座り込みそうになる。
なにより自由だと思っていた三石も、これまでは病院のベッドで制限ばかりの人生を送っていたなんて。
「……今まで黙っててごめんな?」
三石が僕の顔を覗き込んでくる。僕は首を横に振った。
「……べつに、謝ることじゃないと思う。ひとによって、言いたいことも言いたくないこともあると思うから。……でも、聞けてよかった。話してくれて、ありがとう」
礼を言うと、三石はからりと笑った。
「おう!」
水のなかは、きらいだった。息ができなくて、いくらもがいても水面はずっと遠くて、僕は暗い水底に沈むばかりで。
でも、さっきは違った。見上げた水面はきらきらしていて、手を伸ばしたら、その手を掴んでくれる手があった。
沈んでいく僕を、明るい境界線の向こう側へ連れていってくれる三石がいた。
だけど、三石もまた、僕と同じで、溺れていたのかもしれない。だれかの手を、待っていたのかも。
心のなかは、見えない。言葉にしなきゃ伝わらないのだ。だから、伝えたいことは呑み込んじゃダメだ。
「……なぁ、三石」
「んー?」
「さっき……」
一度言葉を切って、唾を飲んだ。
「さっき?」
三石が僕の顔を覗き込みながら、首を傾げる。
「プールんなかで、なんて言ったの?」
「あー……」
三石が曖昧に笑う。
「……なんでもねぇよ」
少し照れくさそうに、三石がはにかむ。
「なんだ、それ」
不服なような、ちょっと安心したような、よく分からない気持ちになった。
でも、今はまぁ、これでいいかと思い直す。
「あのさあ、三石」
僕は僕自身曖昧な感情のまま、なんとか言葉を絞り出す。
「僕も、三石と同じ部屋になれて良かったと思ってるよ」
言ってから恥ずかしくなって顔を逸らす。逸らしてから、チラッと三石を見ると、ヤツは瞳をうるうるとさせて感動していた。
「……あ、だからってこれから態度が甘くなるとかはないけどな」
「えっ」
「それでなくても僕は成績落ちてるし。あと、圭司からバレーが下手くそ過ぎて詰んでるって聞いてるから、今日から昼休みは毎日自主練な」
「自主練!?」
「やるからにはスパルタでいくつもりだから、そこんところよろしく」
「えぇーっ!?」
そんないじわる言うなよぉ、と三石はびちょぬれの身体で抱きついてくる。
「うわっ! ちょ、くっつくな気持ち悪い!」
なんとなく恥ずかしくて引き剥がすが、三石は懲りずにくっついてくる。
「ぎゃん、叩くのはひどい!!」
「だったら離れろ!」
「そんなこと言うなって〜! 柚月〜!」
三石の相変わらずな態度に呆れながらも、僕はその笑顔を邪険にできずに付き合ってやるのだった。