僕たちは再び肩を並べて歩き出す。
しばらくお互い無言で歩き、赤信号の横断歩道で足を止める。横断歩道の先に、大学生くらいのカップルがいた。仲睦まじそうに話すカップルをぼんやりと眺めていると、不意に三石が話しかけてきた。
「……なぁ、柚月」
「なに」
「俺のこと、どう思う?」
思わず三石を見やる。
「なに? 急に」
「なんとなく……ほら、俺といるのいやじゃないのかなって。あんな話したし……」
見ると、三石は不安げに瞳を揺らしていた。普段見せない彼の葛藤が、垣間見えた気がした。
「……たしかに、聞いたときは驚いたよ。でも、すごいなとは思ったけど、いやだとは思わなかった」
「どゆこと?」
「だって、僕なんてまだぜんぜんどういうひとが好きとかよく分かってないから」
こんなこと、言うつもりなかったのだけど。三石の顔を見ていたら、つい口が滑ってしまった。
空を見上げる。
僕はまだ、恋を知らない。
これまで女子はみんな兄貴にしか興味がないと思って遠ざけてきたし、かといって親密になった男子もいなかった。これまで僕は、だれとも向き合ったことがなかったのだ。
「三石はさ、既にそういう自覚があるってことは、三石にはそれだけたくさんのひととちゃんと向き合ってきたってこと。だれかを大切に思えるって、すごいことだよな」
「…………」
それから三石は黙り込んでしまった。俯いたまま、信号が青になっても動かない。
「……おい、三石?」
さすがに心配になって、僕は三石の顔を覗き込むと、三石は目から大粒の涙をぽろぽろと落として泣いていた。目が合うと、三石がばっと両腕で顔を覆いながら、僕に背中を向ける。
「……え、ご、ごめっ」
泣かせた!?
「ごめん、三石! 僕、なんか気に障ること……」
「違う! これは、違くて! 本当に悲しいとかじゃなくて、めちゃくちゃ嬉しいんだよ」
「……えっ……そう、なの?」
三石は小さく頷く。
「……うん。だって、そんなこと言われると思わなかったからさ」
「……これは、本心だよ」
最後にそう言うと、三石は泣きながらはにかんだ。
再び赤になっていた信号が、青に切り替わる。今度こそ歩き出そうと足を踏み出したとき、三石が僕に飛びついてきた。
「柚月ーっ!」
「わっ!?」
反射的に三石の背中に手を回し、受け止める。
今は真夏で、クソ暑い真昼間。おまけに僕たちは男子高校生。
それでも、なんとなく、三石の身体を引き剥がす気にはなれない。鬱陶しいのに離したくないなんて、僕はいったい、どうしてしまったんだろう。
そんな僕の気を知ってか知らずか、三石はくるりと身体の向きを変え、あっさり僕から離れていく。
えっ。
離れていった三石を、思わず目で追いかける。名残惜し……くなんてない。
まったく、懐いたと思ったらこれだ。
……犬じゃなくて猫だったのか、こいつは。
すっかりご機嫌になった三石は、ヘタクソな鼻歌を歌いながら、呑気に僕の前を歩いている。
「なぁ、その歌、なんてタイトル?」
なんとなく、水月の曲に似たメロディがあったような気がして、僕は何気なく三石の背中に問いかけた。すると、三石がぴたりと足を止めた。
油を差し忘れたブリキの人形のようにギコギコとぎこちない仕草で振り返ると、三石はなぜか明後日の方向へ目を向ける。
「……わ、忘れた」
「え、そうなの?」
「う、うん」
怪しいような気もするけど、まぁいいか。べつにどうでも。
再び歩き始めると、三石が僕の元へ駆け寄ってきながら、叫んだ。
「なぁなぁ柚月!」
「……なに?」
聞き返すと、三石は嬉しそうに笑って、
「夏っていいよな!」と言った。
「またお前は突然だな」
相変わらずその笑顔はきらきらとアイドルのように眩しくて、僕は目を細める。ムカつく顔だけど、きらいじゃない顔。いや、むしろ……。
「……まぁ、否定はしないけど」
三石に肩を小突かれる。
「なんだよぉ、素直じゃねーなぁ! なぁ、夏休みはどーすんの?」
「お盆前半の家族旅行が終わったら僕もこっちに戻ってくるかな」
「えっ、兄貴と遊び行ったりしないの?」
ないな、それは。
僕は苦笑しつつ、三石を見る。
「男同士だし、仲直りしたからってそんな関係じゃないよ。お盆の後半は水月、ライブがあるって言ってたし」
夏休みだからって、勉強の手を抜くわけにもいかない。夏休み明けには実力テストがあるからだ。特待生として対策をしなければならない。
特待生でいなければならないというプレッシャーからは少し解放されたものの、それでも特待生から除名されるわけにはいかない。できるかぎりの努力はしたい。
「なら、夏休みのうちにさ、肝試ししよーぜ!」
三石は目をこれでもかというくらいに目をきらきらさせている。
「この前さ、怖〜いドラマがやってて! 姉ちゃんと見たんだけどさ、肝試しした奴らがひとりひとり謎の死を遂げていくの!」
「へぇー。なんて番組? ほん怖?」
「あーっと……タイトル忘れた。えっと、ちょいまち。スマホスマホ……」
三石はバッグを漁り出す。スマホを探しているようだ。僕はかまわず三石に話しかける。
「でも、怖いなら肝試しはしないほうがいいんじゃないの」
「えー夏といえば肝試しじゃん。あっ、あと川かプールも行こ!? それからかき氷! 天然氷のふわふわのやつも食べよーな!」
相変わらずの三石に、思わずため息を漏らす。
「……お前、ひとの話聞いてた? 僕は実家から戻ったら勉強を……」
「あーっ!!」
すると突然、バッグを漁っていた三石が叫び声を上げた。
「どっ、どうした?」
「ペンケース忘れた!」
「…………」
……呆れた。
「……お前って、なにしに学校来てるの?」
「遊びに来てる!」
爽やかなキメ顔が返ってきた。つか、即答かよ。
「学校は勉強をするところで、曲がりなりにも僕たちは特待生……」
説教を始めようとしたところ、三石の視線がふらっと背後に逸れた。
「?」
直後、パッと腕を掴まれた。
「柚月! 俺いいこと思いついた。ちょっとこっち来て!」
「はっ? おい、どこに……」
三石は、僕の手を取って軽やかに駆け出した。
夏休み直前の学校は、静かなものだった。
三石が向かったのは、屋外プールだった。
蝉の声が響く、鋭い太陽の光を反射させた水面が目に眩しいプールサイドには、塩素の匂いが充満している。
「おい……プールなんか来てどうすんだよ」
「夏といえばプール! 夏休みにやりたいことのひとつ、ここでできるじゃん! って思って」
言いながら、三石は歯を見せて笑う。
「はぁ? なにそれ、どういう……」
「よっと!」
三石が飛び込み台に乗る。
「ちょ、落ちたら危ないぞ」
陽射しが強くて、思わず手を翳しながら三石を咎める。
――と、翳したその手を掴まれた。
「おい、なにを……」
驚いて顔を上げるが、太陽の光が眩しくてうまく目を開けられない。
目を細めていると、不意に強く腕を引かれた。かまえていなかった僕は、呆気なくバランスを崩し、
「うわっ!」
引かれた勢いのまま僕は飛び込み台に乗りあがって、そして、三石に抱きつくようなかたちのまま、水面に向かって落ちる。
――ドボンッ!
どろんと急に鈍く、遠くなった蝉の声。一瞬、ときが止まったかと錯覚した。
水のなかで目を開くと、視界が青一色に染まっている。
三石と目が合った。三石は笑っていた。口から透明な泡を吐きながら。
三石が水面を指さす。泡がくるくると水面に向かって昇ってゆく。
その光景は、今まで見たどんなひとやものや景色よりも美しく見えて、僕は呼吸を忘れて魅入った。
「…………」
三石がなにかを言う。けれど、分からない。
首を傾げると、三石はまたにかっと歯を見せて笑った。そして、僕の手を掴んで、勢いよく水面へ向かって泳ぎ始める。
そうだ。息を忘れていた。
……苦しい。苦しい。
「ぷはっ!」
ふたりそろって勢いよく水面に顔を出す。
水飛沫が舞い、細かい水の粒が太陽の光を透かして輝く。
「あぁ〜気持ちい〜!!」
三石が叫ぶ。そのとなりで、僕は必死に息をした。
はー、はー。
口から取り込んだ酸素は、途中で引っかかることなくすっと肺に入ってくる。
「柚月!」
「……っ、なんだよ」
若干苛立ちを露わにして三石を見る。
「めっちゃ楽しいな!」
「…………」
三石が濡れた髪をかきあげる。
うっかり、うん、と言いそうになった。