しばらくして泣き止むと、思いのほか心のなかは穏やかになっていた。身体まで軽くなったような気までしてくる。不思議だ。思いを吐き出したからって体重が変わるわけないのに。
僕が落ち着いたことを確認してから、お母さんが言った。
「実はね、さっき、あなたのルームメイトっていう子から、怒られちゃったのよ」
「え?」
ルームメイトって、もしかして三石……?
「な、なんて?」
思わず前のめりになる。
あの野郎。変なこと言ってないだろうな。ひやひやしていると、お母さんが言った。
「柚月が倒れたのは、私たちのせいだって」
「……え」
目を瞠る。
「ごめんね、柚月。私たち、あなたのことを蔑ろにしてるつもりなんてなくて……ただ、柚月は意思がはっきりしているから大丈夫って、勝手に思っちゃってたのかもしれない。本当にごめんなさい」
お母さんは申し訳なさそうに目を伏せる。
「でもね、柚月。これだけは信じて。あなたは私の命より大切な子なのよ」
「……うん。分かってる」
ずっと自信がなかったけれど、今なら分かる。きっと僕たちは、ほんの少し言葉が足りなかっただけ。
「良い友だちができたようで安心したわ。三石くん、仲良いの?」
お母さんとお父さんは、にこにこと嬉しそうに訊ねてくる。
「ち、違うよ。三石はべつに友だちなんかじゃないって」
「あら、そうなの? 三石くんは、柚月のこと大好きだったみたいよ。俺の命の恩人なんだーってすごくお話してくれて」
「はぁ!? 違うよ。三石は……ただの、ルームメイトだよ」
そんなふうには思っていないと、言いながら自覚する。三石は、僕にとっては特別だ。
「……ねぇ柚月。ゴールデンウィークはずっと寮にいたの?」
「……うん、そうだけど」
「勉強を頑張ってくれるのはすごく嬉しいけど、たまには帰ってきて。お兄ちゃんも会いたがってたから」
「……でも、水月は今東京でしょ?」
「あら。水月は休みのたびに帰ってきてるわよ。ゴールデンウィークも、一日だけ休みが取れたから柚月に会いたいって帰ってきてたし。柚月は帰ってないよって言ったら、落ち込んでた」
「……そうだったんだ」
知らなかった。中学に上がったあたりから水月を避けていたから、当然といえば当然なのかもしれない。
「そうだ! ふたりが帰ってきたら、旅行にでも行こうか!」
突然、お父さんが言った。
「えっ、旅行?」
「そう。たまには家族四人で」
「いやいや。水月は無理でしょ。仕事が……」
「なんとかなるわよ。一泊くらい」
「そうだな。それじゃ、ふたりが帰ってくるまでにお父さんとお母さんで計画立てとくからな。柚月、夏休みは絶対帰ってくるんだぞ」
そんな、強引な。
そう思いながらも、ちょっと嬉しく思っているじぶんがいる。
家族旅行なんていつぶりだろう。少なくとも、中学に入ってからは一度も言っていない。
仕方なく、「分かった」と素直に頷いておく。
「お父さんも仕事、休み取らなきゃね」
「そうだな」
ふたりとも、楽しそうに笑い合っている。こんなふうに両親と本音で話したのは、どれくらいぶりだろう……。
ずっと、ひとりぼっちだと思っていた。
お母さんもお父さんも、地味な僕には興味なんてないのだと。
だから、中学生になったあたりから、文句も不満も希望も、なにも言わなくなった。言ったって、面倒な子だと思われるだけだから。
……ふたりがこんなに心配してくれていたなんて、僕はちっとも知らなかった。というより、ちゃんと知ろうとしていなかったのかもしれない。
僕は久しぶりに、両親と一緒に笑い合った。
***
翌日、僕は無事退院した。もう大丈夫だと何度も説得したけれど、両親が寮の前まで送るときかないので、素直に送迎を頼むことにした。
寮の前まで車で送ってもらい、夏休みにはちゃんと帰るという約束をして、別れる。
寮の部屋に戻ると、三石がベッドで寝ていた。
「……いや」
いやいやいや。おかしい。
僕は時計を見た。時刻は午前十時を指している。今日は金曜日。今の時間は、学校のはずだ。
見間違いだろうか。そうだと思いたい。
とりあえず、声をかけてみる。
「……おい、おい三石」
軽く揺するが、起きない。
「おいってば」
「んぁ?」
無理やり枕を引っこ抜くと、ようやく三石は目を開けた。眠そうに眉を寄せて、くあっと大きな欠伸をしている。欠伸を終えると、僕を見て固まった。
「……あれ、柚月じゃん。退院したの?」
「……うん、おかげさまで」
病院を出たときまでは礼のひとつでも言ってやろうと思っていたけれど、やめた。
こいつ、学校はどうした。聞きたいけどどうせろくな返答は返ってこない気がする。
「おめでと。よかったな、大したことなくて。顔色もいいし安心したわ」
「あぁ、うん……」
三石は、それまで眠そうにしていたくせに、しっかりと目を合わせてくる。こいつ、本当に寝ていたのか?
クローゼットから制服を取り出しながら、ちらりと三石を見る。三石はベッドに座ったまま、呑気に大きな欠伸を繰り返している。
それを見ていたら、なんだか全身から力が抜けた。
「……あのさ、三石」
「ん〜?」
「……その、ありがとう。いろいろ」
「……いろいろとは?」
三石に訊き返され、僕は言葉につまった。つっこまれるとは思わなかった。三石の澄んだ眼差しに、僕は恥ずかしさをこらえつつ、
「え……いや、その……お母さんが言ってた。三石に叱られたって」
すると三石はようやく納得したように、あぁ、と言った。
「あれね。べつに、俺は思ったこと言っただけだから。つか、叱ってねぇからな」
三石はどこか戸惑ったような声音だった。気まずいのか、瞬きの回数が増えている。
もしかして、気を遣っている?
無鉄砲なやつだと思っていたけれど、三石は三石なりに、ちゃんと考えて行動しているのかもしれない。
いや、ふつうに考えればそんなことは当たり前なのだけど、なんとなく先入観で、三石はなにも考えていないのだろうなと決めつけてしまっていた。
「……三石は、すごいな。だれにでもまっすぐじぶんの意見を言えて。じぶんのことも、ちゃんと見えてて」
「べつに、そんなことないだろ」
「あるよ。僕にはできないから」
「できない?」
白いワイシャツに視線を戻して、僕は続ける。
「……本音を言うと、僕、本当はここじゃなくてもよかったんだ。高校」
三石がちらりと僕へ視線を向ける。
「家を出られればそれでよかったんだ。水月ばっか気にかける両親と、仕事で忙しくしてる水月を間近で見ているのがいやで、寮があるここを受けたんだ。特待生として入学すれば、学費も寮費も免除されるから、親に迷惑もかからないだろうと思って」
少しの間を開けて、三石が訊ねてくる。
「……水月って、アイドルやってる兄貴だっけ?」
「うん」
三石は目尻に溜まった涙をごしっと拭うと、ベッドの上にあぐらをかいてこちらを見た。
「……正直僕、今まで三石のことがきらいだった。三石はさ、なんとなく水月に似てるんだ。自由気ままで、ちょっと問題児で。小さい頃から両親は、水月に手を焼いてた。でも、中学のとき事務所の社長にスカウトされてアイドルになってからは、真面目に仕事に打ち込むようになって、あっという間に人気者になって……ブランドで私服まるごと固めちゃうくらい大金持ちになって。両親はすっごく喜んでてさ。自慢の息子だったんだと思う。でも、忙しくなればなるほど、両親はさらに水月にかかりきりになって」
三石はなにも言わず、黙って僕の話を聞いている。
……意外だった。もっとちゃちゃを入れてくるかと思ったのに。
「……僕だけ取り残されてるみたいで、すごく焦った。でも、僕はお金なんて稼げないし、みんなが振り向くような容姿も持ってない。……だからせめて、迷惑をかけちゃいけない、面倒をかけちゃいけないってずっと思ってて」
でも、いい子のふりをするのは想像以上に窮屈だった。ずっと笑顔で、物分かりのいいふりをして、ため息を呑み込む日々。
「だから、家を出たの?」
こくりと頷く。
「水月のことばかり話すふたりを見ていたくなかったんだ。両親には水月がいればいい。僕は用無しなんだって、言われているような気がして」
だから、当てつけみたいに勉強しまくって、特待生としてこの学校に入学した。
「ただの柚月じゃなくて、『特待生の柚月』になれば、僕にも価値が生まれるかなって」
「価値ってお前な……」
三石が呆れた声で呟く。
「あのさ、価値ってそもそも、ひとに使う言葉じゃねーからな?」
「え?」
「価値ってのは、ものに使う言葉だよ」
三石の言葉は、驚くほどすんなりと僕の胸に落ちた。
僕はずっと、じぶんに価値なんてないと思っていた。
そのとおりだ。『価値』なんてない。僕はものじゃない。人間なのだから。