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第15話

 下駄箱からスニーカーを取り出して履き替えていると、ふと三石の下駄箱が目に入り、動きを止める。

 ――病院じゃなかった?

 佐藤さんの声が蘇る。

 病院って、なんの病院だろう。

 そういえば、この前も熱を出していたし、もしかしたら、どこか悪いのかもしれない。

 同部屋なのに、僕はこれまで、あいつのなにを見てきたんだろう。佐藤さんや圭司なんかよりもずっと長い時間、いっしょにいたのに……。

 虚しさのような不甲斐なさが波のように押し寄せてきて、僕はその場に立ちつくす。

 そのときだった。

「あっ、いた! おーい、藤峰くん!」

 ぐるぐると考えごとをしていると、突然どこかから名前を呼ばれた。声がしたほうを見ると、パタパタと階段からだれかが駆け下りてくる姿が見える。丸木さんだ。

「丸木さん? どうしたの、そんなに慌てて」

 丸木さんは僕のもとへやって来ると、呼吸を整えながら言った。

「どうしたのって……今日の放課後、委員長は視聴覚室で球技大会のトーナメント決めの会議だって言われてたでしょ!?」

「え……」

 今朝、ホームルーム後に雨谷先生に言われていたことを思い出し、血の気が引く。

「そ、そうだった!」

 慌ててスニーカーをしまい、サンダルを履き直す。

「ごめん! すっかり忘れてた! どうしよう……もう始まってる!?」

 昇降口にある時計を見ながら、駆け足で階段を昇る。視聴覚室は、一棟の三階。僕たちが今いるのは、二棟の一階だ。とりあえず二棟の二階まで上がって、渡り廊下で一棟に行く。

「ううん。まだ先生来てなかったから、急げば大丈夫だよ」

「ごめん、本当に……」

 視聴覚室へ向かいながら、じわじわと申し訳なさがふくらんでいく。振り返りながら謝ると、丸木さんは首を振って笑った。

「大丈夫だって! このくらいよくあることだよ」

「でも……ほんと、ごめん」

 駆け込むようにして、丸木さんとともに教室へ入る。息を切らしながら教室内を見渡すと、既に一年の各クラス委員長たちがそれぞれ席に座っていた。

 先生の姿はまだない。助かった。

 僕たちも窓際の席に並んで座る。カバンからペンケースとノートを取り出しておく。ひと息ついて、あらためて僕はとなりに座った丸木さんに礼を言う。

「丸木さん、呼びに来てくれて、本当にありがとう」

「う、ううん。いいって」

 あらたまって言うと、丸木さんは恥ずかしそうに首を振る。白い頬に滲んだ赤みが増したような気がした。

 丸木さんとは、委員長としていっしょに仕事を任されることが多いから、比較的女子のなかでは仲がいいほうだ。話すようになって知ったことだが、彼女は引っ込み思案気味なところがあるものの、とても優しくて穏やかな性格をしている。

 だから、委員長にみずから立候補したと聞いたときは驚いた。大人しそうな印象を抱いていたから、意外だったのだ。

「ねぇ、藤峰くん」

 シャーペンの芯を出しては戻して、を何気なく繰り返して先生を待っていると、丸木さんが不意に僕に話しかけてきた。

「ん?」

 丸木さんのほうを向くと、彼女はなぜか早口で僕に質問を投げてくる。

「あ、あの……藤峰くんってさ、彼女とかいるの?」

 唐突な質問だった。一瞬、なにを言われたのか分からなくて、動きが止まる。

 なにも答えずにいると、丸木さんはハッとしたように慌て始める。

「やっ、ごめん。いきなり」

「……いや、いいけど、なんで?」

 困惑気味に聞き返すと、丸木さんは誤魔化すように笑った。

「いや! べつに深い意味はないんだけどねっ!? でもほら、藤峰くんってお兄さんがアイドルだから、その……そういう繋がりで女優さんとかモデルさんとかの知り合いもいたりするのかなーって、ちょっと思ったりして」

 冷水を顔面にかけられたような心地になる。もしや、とわずかに期待で膨らんでいた気持ちが、しゅうっとしぼんでいくのが分かった。

 また、水月だ。

「……なにそれ」

 低い声が出た。それに気付いたらしい丸木さんの肩が、わずかに揺れる。

「あ……」

 丸木さんの顔が強ばっていく。

 僕の反応に、怯えている。それが分かっていながらも、僕はいつものような笑みを作ってやれない。僕は丸木さんから目を逸らし、前を向いた。

「べつに、アイドルの知り合いなんていないし、彼女とかも興味ない」

「……そ、そうなんだ」

 それ以降、僕たちのあいだに会話はなくなった。

 彼女自身は、僕と兄を比べるつもりで言ったつもりではないのかもしれない。

 だからきっと、過敏に反応してしまう僕が悪いだけ。

 ……でも、聞きたくなかった。

 丸木さんだけは、佐藤さんやほかの女子と違うと思っていた。彼女自身は水月の話をあまりしなかったし、佐藤さんたちが盛り上がっているアイドルの話の最中も、そこまで興味がなさそうだった。

 唯一、僕を見てくれているクラスメイトだと思っていたのに……。それは僕の都合のいい思い違いで、結局彼女も僕を通して水月を見ていたのだ。

 ため息が漏れる。僕がため息をついた瞬間、彼女の肩がびくりと揺れた。

 ごめん、と心のなかで丸木さんに謝る。でも、どうしても感情が邪魔をして、それを口にすることはできなかった。

 ……こういうとき、三石なら素直に謝れるのだろう。言われたことを引きずりもしないで、笑ってみせるのだろう。

 でも、僕にはできない。

 僕は今、わがままを通してここにいる。それだというのに、なんの実績も出せていない。特待生すら危うい立場にいる。その事実が、僕をどんどん腐らせていく。

 ようやくやってきた先生が、トーナメントのくじの説明を始める。先生の声をぼんやり聞きながら、僕は窓の向こうにある体育館を眺めた。


 その後も、僕と三石の溝は埋まらず、石田や丸木さんとも気まずいまま数日が過ぎていた。

 朝、騒がしい教室のなかで黙々と自習をしていると、本鈴が鳴った。それと同時に、三石が雪崩込むように教室へ入ってくる。

「おっ、三石おはよー」

「おはよー! ギリセーフ!」

「いや、ふつうにアウトだろ」

「えー! セーフだよ」

 相変わらず騒がしい三石。近頃三石は、かなり努力して、自力で登校できるようになっていた。

 ふと、三石が石田や圭司たちと会話をしながら、ちらりと僕を見る。

「あっ、ゆづ……」

 目が合い、三石の顔がパッと華やぐように笑顔になる。それがまるでシャッターに切り取られたかのようにスローモーションで視界に飛び込んできて、僕は反射的にさっと俯いた。

「なぁ三石は夏休みどーすんの?」

 圭司が三石に話しかける。

「え?」

 その瞬間、僕へ向いていた視線が外されるのが分かった。でも、三石のつま先はまだ僕のほうへ向いている。

「あー……」

 そのまま自習に戻ったふりをしていると、三石は僕に声をかけることなく、自席に座った。三石はすぐに圭司と会話を始める。

「なぁ、夏休み海行かね?」

「えっ、海!? 行くいく!」

「あれ? でも圭司、夏休みは実家に帰るって言ってなかった?」

 石田が自然と会話に混ざっていく。

「帰るのはお盆だけ。あとはずっと部活だし」

「じゃあふつうに無理じゃん!」

 こういう瞬間を目の当たりにするたび、いつも思う。どうして僕には、こういうことができないんだろう、と。羨ましく思いながらも、僕は結局勇気を出せずに、ただその様子を、指をくわえて見ていることしかできない。

「サボればいいって。一日くらい! あ、それか夜行くとか?」

「無理だろ。どーやって寮監の目誤魔化すんだよ」

「あーそっかぁ」

 期末考査が終わったせいか、みんな夏休みのスケジュールを決めるのに精を出していた。

 僕はもちろん、だれにも夏休みの予定を聞かれることはない。

 それに比べて、三石は相変わらず人気者だ。

 ……べつに、寂しくなんかない。どうでもいい。青春もイベントも、僕には関係ない。僕には遊んでいる暇なんてないのだから。

 うちの高校は、夏休みが明けたらすぐに実力テストがある。それに向けて対策していたら、きっと夏休みなんてあっという間だ。

 三石は相変わらず寮でも勉強している気配はないし、今こそ差をつけるチャンスだ。

 ――でも。

 勉強してはいるけれど……三石がとなりにいるせいか、ぜんぜん集中できている気がしない。

 このままじゃまずい。

 頑張らないとと焦ると、余計に集中が切れて悪循環に陥る。その繰り返しの日々。

 そのせいか、頭痛が止まない。

 ため息をついた矢先、ずきんと頭部に鋭い痛みが走った。

「おい、藤峰」

 目頭を押さえていると、肩をぽんと叩かれる。顔を上げると、脇に体育着を抱えた石田がいた。

「ん……?」

「次体育だって。早く着替えねーと遅れるぞ」

 石田の声にハッとする。

「――あ、あぁ、うん」

 あれ、でも体育って、三限目じゃなかったっけ?

 いつの間に二限終わってた?

 そういえば僕、ちゃんとノート取ってたっけ。一、二限は数学と古典。どっちも小テストがあったはず……。

 手元を見ると、とりあえず古典のノートはきっちりまとめられている。

 ちゃんと取っていた。よかった。次は体育か……。早く着替えて向かわないと。

 体育着を持って、席を立つ。立った瞬間、さっきとは比べものにならないほどの痛みが頭に響き、踏ん張った足の力が抜けた。

 視界がぐらりと歪み、かくんと膝から崩れ落ちる。声すら出せないまま、倒れ込む。

「おいっ! 柚月!」

 遠くから、珍しく三石の慌てた声が聴こえた気がした。


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