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第9話

 ようやくやる気になった三石とともに、机に横並びになって教科書を開く。

 さて、今日はいつまで集中力が続くか。三石の集中が切れないうちに、僕もできるところまで進めよう。

 せっせと問題に取り組んでいると、しばらくして視線を感じた。

 となりを見ると、やはり三石が僕を見ていた。僕を、というよりも僕の手元を、といったほうが正しいだろうか。

「え、な、なに?」

 疑問に思って訊ねると、三石は戸惑うように視線を彷徨わせてから、言った。

「あのさ、そこ違くね?」

「え……」

「そこの問三。答え」

 答案用紙を見る。数学の問題だ。一目見ただけで正答が分かるものじゃない。

 でも……。

 見直して、青ざめる。

「……ほんと、だ」

 三石の言うとおり、答えが間違っていた。

 三石はこれまでにも何度か、僕に間違いを指摘することがあった。べつにいやな言いかたでもないし、僕をばかにして笑うわけでもない。

 でも、こういうとき、僕はどうしたらいいか分からなくなる。羞恥で血が沸騰したように熱くなって、動揺で頭が真っ白になる。

 だって。

 なんで、勉強なんてぜんぜんしていない三石がこんなに勉強できるんだよ。

 僕はこんなに頑張っているのに。

 なんで――。

「……おい、柚月? 聞いてる?」

 黙り込んだ僕に、三石が怪訝そうな顔を向ける。まるで悪気のないその顔に、余計に腹が立つ。

「……るさいな」

 僕と三石は、なにが違うんだろう。

 どうして三石は、こんなに要領がいいんだろう。

 僕はこんなに必死なのに――。

 頭のなかがぐちゃぐちゃになって、爆発しそうになるのをすんでのところでこらえた。

「言われなくたって分かってるし」

「なんだよー。せっかく教えてやったのに」

「頼んでないし」

「なんだそれ。可愛くねー」

「知ってる」

 僕は可愛くない。カッコよくもない。水月みたいにアイドルという肩書きもないし、三石みたいな愛嬌もなければ、本当のことを打ち明ける強さもない。だからこうやって勉強して、なんとか自尊心を保っている。

「柚月」

 ふいに、すぐ間近で名前を呼ばれ、我に返る。ハッとして顔を上げると、三石の出来のいい顔が、驚くほど至近距離から僕を覗き込んでいた。思わず椅子を引いて、三石を睨む。

「……なんだよ」

 これはろくなことを考えていないときの顔だ。ぜったいそうだ。

「……お前ってさ、そうやって優等生やってて楽しいの?」

 ほらな。くだらない質問だ。

 答える必要なんかない。……ない、けれど。

 三石の言葉が、頭のなかを巡り続ける。

 だって。楽しい? そんなこと……。

 丸めたプリントで三石の頭をぽんっと叩く。

「あたっ!」

 いい音がした。

「楽しいってなんだよ。勉強するのは学生の本分だろ」

「ふぅーん」

 三石は後頭部に両手を組み、なんとものんびりとした様子で僕を見上げる。

「でもさぁ、そればっかじゃ飽きるじゃん? もっと自由に生きよーぜ! 眠いときに勉強したって頭に入んないし、だったらきっちり寝てから学校に行けばいーじゃん」

「それで成績が保てたら苦労しないよ……」

 そもそも、僕はこれまで、寝食以外の時間はすべて勉強に使ってきた。その結果今があるのだ。この努力をやめてしまったら、僕は……。

 声を荒らげたくなる衝動を堪えて、僕は必死に息を吐いて誤魔化した。

 けれど、三石はなおも言い返してくる。

「保つってなに? べつに成績下がったって死なねぇし、次頑張りゃよくね? 勉強のためにほかのぜんぶを犠牲にすることねぇだろ」

 三石はまっすぐに僕を見つめていた。一片の曇りもないその眼差しに、嫌気がさす。

 三石は、人生が楽しくてたまらないのだろうな。僕と違って。

「だったら、お前はなんで特待生なんかやってんだよ。特待生は学生の見本だろ。勉強するのが仕事だろ」

「そんなことないよ! だって俺たちは、楽しいことをするために生まれてきたんじゃん! 人生楽しむのに、特待生も劣等生もないだろ!」

 三石がにかっと笑う。なんの屈託もなく。

「俺ね、今めっちゃ楽しいよ!」

「そうだろうな」

 大抵のひとが隠したいと思っていることすら、同室になったというだけの理由で仲良くもない僕に打ち明けてくるぐらいだ。

「大好きなやつといっしょだし!」

 ふと、手が止まる。

「大好き……」

 僕が呟くと、それまで騒がしかった三石が黙った。じっと僕を見つめて、

「……あ、これってもちろん、柚月のことだよ?」

「あのさぁ、そういうの……」

 さらりと三石が僕の手を取る。固まる僕を気にも止めず、三石は僕の指にじぶんの指を絡めた。

 落ち着け、大丈夫。分かってる。言うと思ってた。

「……どうせ、からかってるんだろ? だけどさ、そういうのはやめろよ」

 こういうのはよくないと、本気で思う。三石がそうであるなら、なおさらだ。

 だって、僕がこの手を邪険にしたら、きっと三石は傷付く。僕は異性に対するように、三石に接しなきゃならないというのに、こいつときたら。

「もし僕が勘違いしたらどうするの」

「えっ」

 僕は三石に握られた手から、三石自身へ目を向ける。

「もし僕が三石と同じだったら、こういうことされたらきっと、勘違いするよ」

 三石は目を丸くして、それから眉を寄せた。そのまま考えるように黙り込んでしまう。

 いや、ここ考え込むところじゃないんだけど?

「あのさ、それってもう、ほぼ俺のこと好きって言ってるようなもんだよね?」

「はぁ!? ちがっ……!」

 なんでそーなる!? 衝撃すぎて、軽く目眩がした。

「ははっ! じょーだんだよっ!」

「なっ……」

 三石はといえば、コロッと表情を変えて笑っていやがる。

「三石おまえ」

「そんな怒んなって。マジでじょーだんじゃん!」

 もはやため息しか出ない。

「……お前ってほんと、自由度半端ねぇな……」

「ははっ! だろ!」

 悪びれもせずにかっと笑う三石に、心の底から腸が煮えくり返る。

「いや、褒めてないから」

 あっけらかんと笑う三石が憎たらしくて、同時にめちゃくちゃ眩しくて、僕は目を細めた。

「つーわけでおやす〜」

「あっ、おい!」

 うっかりした。

 隙を見せた瞬間に、三石は椅子から立ち上がり、ころんとベッドに転がる。寝る体勢に入った。

「おいっ……お前、課題!」

「おおっと、その線から入っちゃダメなんだろ?」

 三石がドヤ顔で指摘する。

「ぐっ……」

 そういえばそうだった。三石に宣言しておいて、言い出しっぺの僕が破ることはできない。僕は、テープの前で、金縛りにあったように動けなくなる。

「三石!」

 一メートルも離れていない相手に話しかける声量じゃないが、このくらいの声量で呼ばないとこいつは起きない。

 が、無情にも寝息が聞こえてきた。

 うそだろ。

 愕然とする。

「寝付き良すぎだろ……」

 ため息をつきながら、ぐーすか眠る三石の間抜けな寝顔を見つめる。

 手を伸ばしたくなるが、すんでのところでこらえる。

 どうしても、その線を越えて三石に触れるのが躊躇われた。

 だってこれは、僕が引いた線だ。それなのに、僕が破ったら……。なんか、ヤバい気がする。いろいろと。

 そもそもルールは守るべきもの。破るためにあるものではない。

 三石へ伸ばしかけた手が、だらりと垂れた。

「……ったく」

 ふと、いつかの先生の話を思い出した。

 入学した頃のことだ。

 自習室に籠って勉強していたとき、消灯の確認に来た雨谷先生がぽろりと零した言葉。

『――藤峰はさすが特待生だなぁ。三石とは大違いだ』

『――三石?』

 その当時、まだクラスメイトの名前を覚え切れていなかった僕は、咄嗟に三石がだれのことか分からなかった。

『――同じクラスにいるだろ? 三石コウ。あいつも藤峰と同じ特待生なんだけどさ、まぁ〜自由奔放でまいったよ』

 僕と同じ特待生が、同じクラスにいる。そのことを、僕はそのとき初めて知った。

 三石コウ。

 僕のライバル。

 いったいどんなひとなのだろう。

 それから僕は、三石のことを気にするようになった。

 それでも当時はまだ、焦りという感情は特になかった気がする。

 三石に対する先生の評価もさんざんだったから。果たしてどんな問題児特待生なのかと期待していたくらいだった。

 でも、三石のすごさは、すぐに分かった。

 三石は生活態度はすこぶる悪いけれど、とにかく頭の回転が早かった。

 授業で指されたときも小テストでも、なんでも涼しい顔でこなす。

 独特な感性と自由過ぎる価値観のせいでみんなには〝頭のいい特待生〟ではなく、ただの親しみやすい〝問題児〟として認識されているけれど。

『藤峰と同部屋になれば、多少は三石の生活態度も改善されるだろう』

『いつもお前にばかり三石を頼んで悪いな』

『頼りにしてるよ、藤峰。これからも三石を助けてやってくれ』

 雨谷先生は、問題児である三石に手を焼いている。

 雨谷先生が三石に手を焼くのは、彼には見放すにはもったいないくらいの価値があるからだ。

 だから、見放さないのだ。

 三石は、たしかに問題児だと思う。

 ……だけど、一緒に過ごしてみて、いやでも分かってしまった。

 三石は、ばかじゃない。

『べつに成績下がったって死なねぇし、次頑張りゃよくね?』

 そのとおりだ。

『勉強のためにぜんぶ犠牲にすることねぇだろ』

 お前の言うとおりだよ。

 だけど、それじゃだめなんだよ。

 僕は、三石とは違う。

 僕には、三石のように天才じゃない。器用じゃない。価値もない。だから、努力しないとだれにも見てもらえない。

 だれにも相手にされない、認知すらされない、透明人間になってしまう。

 なんでも持っている三石にはきっと、死んでも分からないだろうけれど。

『ばかじゃねえの』

 そんな言葉が返ってきそうだな、と心のなかで思った。だから、僕は口を開きかけたものの、ぐっと言葉を呑み込んだ。

 三石はただじぶんに素直に生きているだけ。

 三石は僕なんかより、ずっと利口な奴だった。

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