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第8話


「――ゆーづきー! 一緒に帰ろーぜ!」

 翌日、いつもどおりの授業が終わった放課後のこと。いつもなら脱兎のごとく教室から逃げ出す三石が、カバンを肩にかけて僕の席にやってきた。驚いて顔を上げると、三石は驚く僕に首を傾げる。

「あれ? 今日一緒に帰って課題やるって言ってなかった?」

「そ、それはそうだけど……」

 いつも逃げ回っている奴がなにを言うか。そう言いそうになって、口を噤む。余計なことを言って逃げられたら困る。

「……じゃあ、帰るか」

「おう!」

 ……それにしても。

 並んで歩きながら、そろりととなりを見る。

 三石は呑気に鼻歌を歌いながら歩いていた。

 一体どんな心境の変化なのか。三石の考えはまるっきり分からない。

 三石はふだん、本当に勉強をしない。

 授業はちゃんと受けているみたいだが、本当にそれだけだ。休み時間に自習する素振りもなく、放課後自習室に行くこともない。もちろん寮に帰っても、僕が無理やりやらせなきゃカバンさえ開けない始末。

 しかし、それだけで学年十位以内をキープできるものなのだろうか。

 うちの学校は進学校で、うちのクラスは進学クラスだ。クラスメイトたちもそれなりに学力が高い。首席で入学した僕だって、成績を落とさないように必死で努力している。

 ……でも。彼が特待生であることは変えようのない事実なのだ。

 僕は、三石と一緒に生活すればするほどそのことを身に染みて感じて、自信を失くさざるを得なかった。

「にしてもあちぃな〜」

「わざわざ言うなよ。余計暑くなるだろ」

「暑いから暑いって言ってんの。寒かったら言えないじゃん」

「それはそうだけど……寮の部屋はもっと暑いんじゃない?」

「うわぁ、マジか。なぁ、ゲーセンでも行って涼まない?」

「涼まない。課題やるっつっただろ」

「うわ、そうだった。忘れてた」

 もう忘れてたのかよ。

 実にくだらない言い合いをしながら歩いていると、ぽつ、と頬になにかが当たった。

 空を見上げると、怪しげな雲が頭上に漂っている。

「雨……?」

「おっ! 夕立? 少しは涼しくなるかなぁ」

 三石は雨を疎むどころか、呑気に手を空へ翳している。

「いや、呑気に言ってないで早く走れ! お前どうせ傘持ってないだろ!」

「傘! 持ってない!」

 僕は三石が着ていたパーカーのフードを強引に顔に被せると、そのままの流れで彼の手を掴んだ。その瞬間、わずかに三石が息を呑んだ気がしたが、今はそれどころではない。

「濡れる前に帰るよ!」

「お、おう」

 わぁわぁとやっぱり騒ぎながら、僕は三石と急いで寮の部屋に帰った。

 雨を受けて走りながら、ふと思う。

 そういえば、この道を歩いて登校したのがついさっきのような気がする。もう放課後なのか。三石といると一日があっという間に過ぎていくような気がするのは、気のせいだろうか。

 降り出しこそ小ぶりだった雨は、僕たちが寮へ着く頃には無情にも本降りになっていた。

 僕たちは、走ってきた勢いのまま雪崩込むように部屋に入る。

 男ふたりで立つには狭い玄関で乱れた息を整えていると、足元にみるみる水たまりができていく。

 ふと、その水たまりに三石の姿が写って、僕はすぐ真横に立つヤツに目を向けた。

 柔らかそうな金髪は、雨のおかげでいつもより元気を失くし、いくつかの束になっている。前髪の細い毛先から、ぷっくりとした雫が三石の白い頬にしたたり落ち、そのまま肌の優しい曲線を流れていく。

 なんとなく、見てはいけないものを見てしまったような気分に苛まれた。身体のどこかが疼くような感覚に、僕は焦って視線を外そうとした。

 ……の、だけど。

 それより先に、三石と目が合ってしまった。

 三石の濡れた瞳を見たその瞬間、僕の心臓がどくんと大きく跳ねる。

「……なあ、柚月」

 名前を呼ばれ、肩が揺れる。

「ずっと聞きたかったんだけどさ……柚月って、恋人とかいんの?」

「は? な……なんだよ急に。つーかなんで今?」

 動揺で顔が熱くなるが、三石はそれについて強く追求してくることはなく、ぽりぽりと頬を掻いている。

「……三石?」

 なんだろう。いつも無遠慮な三石らしくない気がする。

「俺さ……その、同室の柚月には言っておきたいことがあって」

 見ると、三石はいつになく真剣な目をして僕を見ていた。

 玄関で、お互いに全身ぐっしょりと濡れた状態の僕たち。三石の視線から逃げるように少し視線を下へ下げると、唇の筋が見えた。そうしてようやく、お互いの距離の近さを自覚する。

 前髪の先から、透明な雫がぽたりと落ちる。それを目で追うと、シャツから透けた三石の身体がすぐ目の前に見えた。視界の端で、三石の手がかすかに揺れている。距離が近いせいか、触れていないのに三石の体温が僕のほうへ流れてくるようだった。

「……俺さ」

 三石が口を開く。僕は静かに顔を上げた。もう一度、三石の濡れた瞳と視線が絡み合う。

「男が好き……なんだよね」

 世界中の音が、一瞬にして鳴り止んだような気がした。

 男が好き。それってつまり……、

「つまり三石は……その、ゲイってこと?」

「あー……はは」

 三石が濡れた前髪をかき上げる。髪で隠れていた額が露わになった。

「ひとの口から聞くと、語彙の破壊力ヤベェー……」

 三石が乾いた笑みを浮かべながら俯く。

「あ……」

 三石の長いまつ毛は、かすかに震えていた。

「ご、ごめん!」

 ヤバい。聞きかた間違えた。

「その、今のは変な意味じゃなくて」

「分かってるって。いいから、べつに。同室だから言っておきたかったってだけだしさ。もうこの話は終わりにしよーぜ」

 って、俺から始めたんだったか、と三石が笑う。どこか無理しているように見えるのは、きっと気のせいじゃない。

 僕は拳を握り込む。

 どうしよう、三石を傷つけた。

 だって、いきなりこんなこと言われるなんて思わない。どうしたらいいのか、どんな言葉をかけたらよかったのかなんて、分かるはずがない。

 なにか言わなきゃいけない。でも、なにを言ったらいいのか分からない。

「制服、かなり濡れちゃったな」

 と、三石がからりとした声で言う。ハッとして顔を上げ、僕はもう一度三石を見る。

 三石の笑顔は、既にいつもとなにも変わらないあのくしゃっとしたそれだった。

「……うん」

「それにしてもさあ、雨に濡れるのってこんな感じなんだなー。なんかおもしれーな!」

「はぁ?」

 たった今重い話をしたあとだというのに、こいつは。

 まったく意味が分からない。いや、ほんとに。

「なにが面白いんだよ。雨に濡れたら冷たいし生臭くなるだけじゃん」

「そりゃそーかもしんないけど、なんかおもしれーじゃん」

「初めて雪を見た犬か、お前は」

 真面目に話聞いて損した気分になる。

「……とりあえず、風邪引くから早く着替えよ」

「おう! あっ、柚月、こんなところにホクロあんだ」

 つん、と三石が僕の脇腹をつついた。突然の感触に、僕は猫のように飛び跳ねる。

「わっ!? なんだよ、いきなり触んな!」

 反射的に三石の手を弾いてから、ハッとする。

「あ、いや、今の触んな、ってのは、べつに三石に触られたくないとかじゃなくて、ただいきなりだったからびっくりして……」

 三石はほんの一瞬目を丸くして固まったあと、堪えきれなくなったようにぷくくっと笑った。

「分かってるよ。つーか柚月意識しすぎ。良いやつすぎてこっちがやりにくいわ」

「はっ、はぁっ!? たった今あんな話されたら、だれだって意識するだろ!? これでも僕は真面目におまえの話を」

「分かってる! ごめんって。……マジ、今の柚月の態度、泣きそうなくらいに嬉しかったから。だから誤魔化したの」

 と、三石は手で目元を覆った。

「あ、そ……」

 僕は頭のうしろを掻く。正直、なんと返すのが正解なのか、分からなかった。僕は早口で「じゃあ、着替えるから」と、逃げるように脱衣所へ飛び込んだ。

 そのまま扉に背を預け、天井を仰ぐ。

 あぁ、もう。なんなんだよ。

 深呼吸をする。

 落ち着け。大丈夫。三石はふつうだ。

 最近、こういうことを隠すひとは少なくなってきたって聞くし、なんならこれは三石の問題なのであって僕にはべつに関係のないことだ。僕が気にすることじゃない。

 そもそも三石が僕に打ち明けてくれたのは、きっと同日になった僕への三石なりの配慮だ。なのだから、僕が過剰に反応することはないのだ。

 なるべく、ふつうに。

 しばらく深呼吸を繰り返すと、やがて動悸は落ち着いた。

 脱衣所を出ると、ベッドに座る三石の背中が見えた。するとまた、なぜだか心臓が騒ぎ出す。おさまったと思ったのに。

 なんとなく気まずさを感じて、僕はあまり三石を見ないようにしながら横を通り過ぎた。

 じぶんのクローゼットを開け、着替えを済ませながらふと、疑問が湧いた。

 そういえば、ずっと脱衣所を占領してしまっていたが、三石は着替えたのだろうか。

「三石、濡れた制服はちゃんと脱衣所に――」

 振り返った僕は、悲鳴を上げかけた。三石は制服のまま、ベッドで寝ていた。

「お、お、おい、なに濡れたまま寝てんの!?」

「ん?」

 三石のなんとも気の抜けた返事に、先程まで感じていた気まずさなどどこかへ飛んでいく。

「正気!? ふとんが! 濡れるでしょ! 早く起きろ!」

 三石の腕を引っ掴む。

「起きて! 早く!」

「え〜」

 三石はわざと全身の力を抜いて、くたっとしている。たとえるなら、しなびた葉物野菜のようだ。

「起きて着替えろ!」

「えーダルい。柚月が着替えさせて」

「ふっ……ふざけんな!」

「じゃ、着替えたら寝ていい?」

「いいわけないだろ! 着替えたら課題やるんだってば!」

 腕を掴んで無理やり起こすけれど、全身の力を抜いた三石を僕ひとりで起こすのはなかなか困難だ。

「くっそ、重い……おい、起きろって。明日は小テストがあるんだってば!」

「いやぁ、さっきまでそのつもりだったんだけどさぁー、雨だからダルいじゃん? ひとやすみしてからにしよー?」

 自由にも程がある。

「つーか『雨だから』の意味が分からないんだけど!?」

 三石は前髪をかきあげながら、渋々起き上がった。

「はいはい。分からなくていいですよーっと。……はぁー仕方ない。着替えるかぁ」

「早くしろ」

「んー……」

 着替えを済ませた三石を監視していると、さすがに視線を感じたのか、サボる気は失せたようだ。

「やるかぁ」と、素直に勉強机に向き合った。


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