藤峰水月は、僕の兄だ。
今年高三になる水月は、男性アイドルをやっている。結構人気があって、同年代で水月を知らない女子はまずいないだろう。最近は、同性人気も高くなっているらしい。……どうでもいいけど。
「マジで!? すごっ!!」
「いいなぁ。お兄ちゃんがアイドルとか憧れる!」
「ねっ!! だって家に帰ったら水月がいるってことでしょ!?」
女子たちは僕の席を取り囲んだまま、兄の話でキャッキャと盛り上がっている。
ふと、興奮気味な佐藤さんの一歩うしろにいた丸木さんと、目が合う。
丸木さんは僕と目が合うとなぜかふっと俯いた。まるで僕を拒絶するような視線の流れに、心が暗くなる。
彼女は女子の委員長だから、女子のなかでは比較的話す機会が多い。水月の件を黙っていたことを、不快に思ったのかもしれない。
「ねぇ、もしかして、藤峰くんちに行ったら水月くんに会える!?」
丸木さんが視界から消える。彼女の前に身を乗り出した佐藤さんが、僕に訊ねた。
「あー……」
いや、ふつうに考えて、たいして仲良くないクラスメイトを家族に紹介する奴なんていないだろう、と言いたくなるけれど、なんとか呑み込む。
「……いや。水月は今、東京でひとり暮らししてるから」
「えーそうなんだ。どこに住んでるの!?」
言うわけないだろ。顔が引き攣りそうになるのをなんとか堪えて、僕はただ笑う。
いつまで続くんだろう、この話。
「ねぇ、水月くんって家だとどんな感じなの!?」
「そうそう! 藤峰くんに対してとか!」
「……べつに、ふつうの兄貴だと思うけど」
「ふつうって、そんなわけないじゃん!」
「ねぇ?」
「はは……」
なにが、『そんなわけない』んだろう。
僕にとって水月は、アイドルの前にただの兄だ。
ぶっちゃけ、家ではぐーたらなふつうの兄貴だった。
成績は下の下で、九九すら言えない。
ただ、センスだけは良くて性格も明るいから、アイドルになる前から女子にはよくモテていた。
……まぁ、今は離れて暮らしているし、どうかは分からないけれど。
「水月くんとメッセージ交換とかするの!?」
「きゃー見たい!!」
面倒だな、と心のなかで思いながらも、当たり障りのないように答える。
「まぁ、家族だからね。ふつうにするけど、大した内容じゃないよ」
「えぇ〜いいなぁ。家族がアイドルとかめっちゃ憧れるよねーっ!」
佐藤さんは丸木さんに同意を求めるように顔を向けた。丸木さんは困ったように、曖昧に笑う。
「そういうものかな?」
いつも思う。女子って、男の顔しか興味ないのだろうか。
「ねぇもしできたら、サイン欲しいんだけど!」
あぁ、また。
僕は、この状況を安全に回避するための正答を持っていない。
中学のとき、クラスメイトにいい顔をしたくて水月にサインを頼んだことがあった。だけど、水月はぴしゃりと僕の頼みを断って、そのせいで僕は、学校での居場所を失った。
水月はいつもそうだ。
僕のことなんてどうだっていい。僕がいつもどんな思いで
きっと、僕がなにを言ったとしても、教室の空気は凍るんだろうな。
怖いけれど、無視することはできない。
僕はぎゅっと目を瞑る。
「……ごめん。そういうのはできないって、水月から言われてるんだ」
沈黙が恐ろしくて、目を開けられない。
「なぁんだ、そっか」
佐藤さんは、ため息をつきながらも納得してくれた。
「ま、そうだよね。仕方ないね」
あからさまに落胆した声で、佐藤さんが言う。
「……ごめん」
サインがもらえないと分かると、女子たちはあっさり僕から興味を失くし、じぶんたちの席へと戻っていく。
それらの背中に気付かれないように、僕は小さく息を吐く。
みんなの声が遠くへと流されていく。いや、流されているのは、僕だけなのか。
思わず握っていたシャーペンをぎゅっと握って、額を押さえた。
……いつもこうだ。
みんな、僕を通して僕じゃないだれかを見る。
いつになったら、僕はだれかの目に止まるんだろう……。
窓の外を見る。
街は雨のせいで、薄い灰色にけぶっていた。
息を吐く。吐いて、吐いて、それから吸おうとして、喉に空気がひっかかる。
この世界は、なんでこんなに息苦しいんだろう。
***
朝礼の時間になると、担任教師の
僕のクラスの担任教師だ。歳はたしか、三十半ばくらい、と入学当初の自己紹介で言っていた。ひょろりと背が高くて、目力がある男性だ。
「はい、おまえら席につけー。ホームルーム始めるぞー」
教材を机のなかにしまい、教卓に立つ先生を見る。
雨谷先生は黒いファイルを開いて、出欠確認を始めるところだった。が、その勢いは出鼻でくじかれた。
「さて、出席取るぞ……と、言いたいところだが、
雨谷先生は窓際のいちばん前、空白の席を見てため息をつく。
「おい、寮組。三石はどうした」
「さぁ〜。寝坊じゃないっすか」
三石のとなりの席である圭司が答える。
その返答に、雨谷先生がため息をついた。
「まったく、あいつは……」
雨谷先生は苛立ちを露わにしながら、ちらりと僕を見た。
……いやな予感がする。
「委員長。悪いんだが、三石を連れてきてくれないか」
……言われると思った。
「……はい」
椅子を引き、立ち上がると、クラス中の視線が僕に向いていた。
こんなときばかり。
教室を出ようと教卓に背を向けたとき、「いつも悪いなー」という雨谷先生の、少しも申し訳なくなさそうな声が聞こえた。
学校を出て、徒歩十分ほどかかる寮に戻る。
三度ノックをして、声をかける。
「おーい、三石。いるかー?」
返事はない。ため息をつく。
「おい、三石ってばー。もう学校始まってるんだけど」
ドアに耳を当ててじっとしてみる。反応はない。
絶対寝てるな、これは。
とんとん。とんとん。
少し乱暴に扉を叩くと、ようやくなかから物音が聞こえた。
しばらくして扉が開き、パジャマ姿の男子生徒が顔を出した。
「――あ〜、柚月。なに?」
今起きました、という間延びした声にいらっとする。
なに、じゃねえよ。もう登校時間とっくに過ぎてるんだよ。
心のなかで毒づく。
明るい金髪。切れ長の瞳はとろんとしていて、ほとんど開いていない。完全に寝起きの顔だ。あぁ、もう。
「時間、見ろ。もうホームルーム始まってるよ」
「時間? んー……」
大きな欠伸をしながら、三石はパジャマのなかに手を入れて腹をぽりぽりとかいている。
「とにかく、顔洗って制服着ろ。学校行くぞ」
「あーダルいなぁ」
「ダルくても行くんだよ。学生なんだから。ほら、早く着替えろ」
「えー」
僕は三石の肩を掴んでくるりと回転させ、部屋に押し入る。
三石の部屋に入るのは、今日に限ったことではない。三石は三日に一回は遅刻するから、そのたびに僕がここへ派遣される。
ベッドの下に放り投げられていたカバンをとり、なかに今日のカリキュラムの教材を突っ込む。
カバンのなかには、昨日授業があった教材が入ったまま。こいつ、もしや昨日も自習していないのか。察して呆れる。
「朝起きられないなら、せめて今日使う教科書ぐらい、夜のうちに用意しておけよ」
「だなー」
呑気な返事が返ってきて、さらにため息が漏れる。
なんで雨谷先生は、こんな奴を気にかけるんだろう。高校生にもなって朝起きられない奴なんて、放っておけばいいのに。
心のなかで、何度目か分からない毒を吐く。すると、喉元がさらに締め付けられるような気がした。