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第1話


柚月ゆづきくん、高校特待で入ったんだって? いいわねぇ。優等生で羨ましいわ』

 優等生。

水月みづきと違って、柚月はものわかりが良いから助かるよ』

 ものわかりの良い子。

『さっすが、委員長! 頼れる〜!』

 委員長。

『ねぇ、柚月くんのお兄ちゃんってアイドルなんだって!』

 アイドルの弟。

 ぜんぶ、僕を形容する言葉たち。

 これらの言葉は、僕のなかで呑み込まれることなく喉につまったまま、どんどん蓄積されていく。

 僕は、窒息している。

 こういうとき、いつも考える。

 もし僕が女の子だったら、辛い境遇から救いあげてくれる王子さまのようなひとが現れたのかもしれない。

 でも、僕は男だから。

 助けてくれる王子さまはいない。

 だからずっと、窒息したまま。

 クローゼットに備え付けられた鏡を見る。映っているのは、見慣れた、見飽きた能面のような自分の顔。

 鏡のじぶんから目を逸らして、ブレザーを乱雑にハンガーから引き抜く。

「……おはよう。頑張れ、僕」

 呪文のように呟いて、ドアノブを握る。

 ふう、と息を吐く。

 さて、今日も一日が始まる。

 寮の部屋を出たら、僕はいつものように優等生の皮を被る。

 ふだん、にぎやかな声があふれんばかりに響く教室。しかし、僕が登校するときはいつだって静まり返っている。

 僕は、ひとの気配のない空間が好きだ。

 気を遣わなくて済むから。ひとの視線を気にしなくて済むから。

 初夏の匂いが漂い始めた五月の初め。

 寮生活にも、クラスメイトたちにも少しづつ慣れてきた、今日この頃。

 雨がそぼ降る街を横目に、僕は夏休み前の期末テストに向けて、教科書を開く。

 自習を始めて一時間ほど経つと、ぱらぱらとクラスメイトたちが登校してきた。

藤峰ふじみねおはよー」

「おはよう、石田いしだ

 いちばんに教室に入ってきたのは、石田だった。石田はいつも僕の次に来る。僕と同じく、朝、学校で自習するタイプだ。真面目で、面倒見のいいクラスの兄貴的存在でもある。

 さらにもうひとり、男子が元気よく教室に入ってきた。

「おっす、石田、いいんちょ! 相変わらず今日も早いのな!」

 クラスメイトの圭司けいじだ。

「いいんちょー! いいとこにいた〜!」

 圭司は教室に入ってくるなり、僕の席へ駆けてきた。

 なんとなくいやな予感がする。

「なに。いやだよ」

「まだなにも言ってないじゃん!」

「言われてからだと押し通されそうだから、先に言うの」

「ひでぇ!」

 昨日は、数学の課題が出ていた。

 圭司は数学がとても苦手だ。そしてそれを克服する気もない。だから、テスト前も課題が出たときも、いつも僕に泣きついてくるのだ。

「なぁ頼む! 数学のプリント見せて! 頼むよぉ〜いいんちょ〜!」

 案の定、圭司は俺の前で手を合わせて懇願してくる。

 圭司はこの学校にスポーツ推薦で入った上京組。専攻は競泳だ。既に日本記録を保持しているとか聞いた気がするけど、詳しくは知らない。

 圭司のこと自体はきらいじゃない。

 でも、いくら言っても課題をやろうともしない姿には苛立ちを覚える。もう少し強く言えばいいのかもしれないけれど、そんなことをしたら、空気が凍るのは目に見えて分かる。

 だから僕は、「いい加減にしろよ」という言葉は呑み込んだ。

「仕方ないな……」

 僕は机のなかに手を入れる。プリントを取り出し、圭司に差し出す。

「でも、たまにはちゃんと勉強もしろよ」

「サンキュー、助かった〜!!」

 圭司は競泳はすごいけど、勉強はちょっと……というか、かなり苦手らしい。

 ――私立しりつ明日葉あしたば高等学校。

 学業、部活動ともに全国でも有数の名門校だ。

 僕は神奈川かながわの地元中学から特待生として入学し、現在寮生活を送っている。

 プリントを渡すと、圭司は自席につき、自分のプリントに答えを写し始めた。

 僕も自習に戻る、努力をする。

 じぶんのなかで渦巻く感情を、なんとかフラットにする。

 じぶん以外の人間が教室にいる時点で、僕の集中力はなくなったに等しい。

 ホームルームが始まるまでの数十分間。彼らは黙って自習なんてしないし、いやでも会話が聞こえてくる。ほら、こんなふうに。

「なぁ石田〜。今日帰りにマック行かね?」

「またぁ?」

「だって昨日のハンバーガー、めっちゃ美味かったんだもん」

「今日はムリ。部活だし」

「えー、サボればよくね?」

「いや、放課後までサボったら、さすがにレギュラー取られるって」

 それぞれ自席に座ったまま、大きな声で話す石田と圭司。

「ちぇー。じゃあ三石みついしでも誘うかぁ」

 いいなぁ、とふたりの話を聞いていて思う。

 放課後に友だちと遊びに行ったり、買い食いしたり。そんなこと、一度もしたことがない。

 友だちがいないというわけじゃない。

 石田も圭司も、みんな良い奴だ。こんな僕と仲良くしてくれるし、だから僕も彼らが好きだ。

 でも、彼らは僕の手前で一線を引いているし、それだから僕も、彼らに本音を言ったことはない。

 お互い本心を見せ合っていない。

 なんとなく、思う。

 そういう関係は、学校を卒業したらぜったいに交わることはないのだと。

 たぶん、彼らの物語のなかで、僕はそこまで重要な登場人物ではない。さらっと出てきて消えていく。そういう存在。だから遊びにも誘われないし、いじめられることもない。

 一見穏やかに見える毎日だけど、それはただ、僕が何者でもないというだけ。

 ――もし。

 ……もし、僕が今石田たちに向かって、その輪に入れてと言ったら、彼らはどんな顔をするのだろう。

 いいよ、と笑うのか。若しくは、冗談だろ? と笑って牙を剥くのか。

 考えるだけでも足がすくんで、言葉なんてどこかへいってしまう。

 本音を言うなんて恐ろしいこと、僕には到底できそうにない。

 つまらない煩悩は頭の外に追いやって、僕は目の前のルーズリーフに数式を書き込む。

 と、そのとき。

「おはよー!」

 扉をがらりと開け、なだれ込むようにして教室に入ってきたのは、クラスメイトの女子ふたり。

 佐藤さとうさんと丸木まるきさんだ。

 佐藤さんは特に、クラスのなかでは比較的いつも明るく、大きな声で話しているところを見る。たしか、アイドルとか俳優の話をよくしていた気がする。

「あっ!」

 ふたりのうち、佐藤さんが教室のある一点に目を向けて、「いた!」と叫んだ。彼女たちの視線の先にいたのは、僕だ。

 目が合うと、佐藤さんがものすごい勢いで僕のもとへと駆けてきた。

「いたいたっ! ねぇ藤峰くんっ!」

「う、うん?」

 なんだろう、なんか怖い。

 身構えつつ、反応する。

「ねぇ! 藤峰くんって、あの藤峰水月の弟って本当!?」

「――え」

 その瞬間。きぃんと金属が擦れるような、いやな音が頭に響いた。

 こめかみに響いて、思わず一瞬、顔をしかめる。

「なんだよ佐藤。朝からいきなり」

「つか、藤峰水月ってだれ?」

 石田と圭司は、顔を見合わせて首を傾げている。

「あぁ、アイドルじゃなかった?」

「なんか聞いたことあるかも」

「ちょっと男子は黙ってて! ――ねぇ、どうなの!?」

 佐藤さんは窓際から会話に混ざってきた石田たちを一喝して、後半、また僕に訊ねた。

「……あぁ。うん、まぁ」

 そうだけど、と作った笑顔のまま頷く。

「言ってなかったっけ」

「聞いてないよ〜!」


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