序
*
――あなたを見た瞬間、美しいと思った。
その言葉はあなたのためにある。
そう思える魔性の魅力があなたにはあった。
だからみんな、あなたから目が離せなくなる。
私もそう――その目を見た瞬間、心が奪われた。
深い悲しみを宿した、冷たい双眸も。
その瞳の奥で時折光る、激しい怒りも。
そして返り血を浴びた横顔も。
全てが美しいと思った。
だから、あなたが私に声をかけてくれた時、本当に嬉しかった。
だって、それって私を選んでくれたって事でしょう?
私を見つけてくれたって事でしょう?
本当に嬉しかった。これでやっと――
『ねえ、私って、綺麗?』
そう言って巨大なハサミを振り上げたあなたはやはり誰よりも美しくて――
私は心に浮かんだ想いを、そのまま言葉として吐き出した。
「美しいですよ……少なくとも、私達人間よりは……」
あぁ、これでやっと私は――この生き苦しい世界で、息をしないですむ。
*
1
オカルトが好きだからといって幽霊の類を完全に信じているわけではない。
ホラーバラエティの再現ドラマは好きだが、それは創作であるからこその面白さがあり、ホラー映画を見て「ヤラセだ」と騒ぐ人がいないのと同じように、創作物だからこその楽しさというものがある。
そして僕は、そういった創作物のオカルトが好きな方のオカルト好きだ。
だから今時ホラーバラエティでもやらないような都市伝説を真に受ける事はなかった。
今の、今までは。
中性的な名前な上に、全体的に線の細い体だが、これでも少年の方の「レイ」である。
人よりほんのちょっとだけ影が薄いだけの、ごくごく普通の男子高校生――の筈だった。
少なくとも校門を出る寸前までは。
状況報告。校舎の前で鞄を持って尻をつく僕の目の前で今、化け物と化け物が戦っている。
詳細説明。自転車に乗って日本刀を振り回す包帯男と、紫色のパーカーを着た高校生が戦っているのだ。それも傘で。
『トンカラトンと言え!』
「怪異如きが、俺に指図すんじゃねえ!」
そう叫びながらパーカーを着た少年は包帯男から距離を取り、傘を振り上げた。
そして同じように日本刀を構えた包帯男に向かう。とても愉しそうに。
「こんなんじゃ足りねえよ。もっともーっと遊ぼうぜ……そのために、俺はこの街に来たんだからさ!」
*
話は、今から十五分ほど前に遡る。
僕――
図書室でつい興味深い本を見つけて読み漁ってしまったのだ。その結果、下校時刻はとっくに過ぎた――というか見回りの先生にも、用務員のおじさんにも誰にも気付かれなかった。いくら僕の影が薄いからって、この仕打ちは酷い。
時計は夜の十時をとっくに過ぎていて、高校生が出歩いていい時間帯ではない。
特にこの街――『
――どうか出会いませんように!
そう祈りながら校門を飛び越えた時だった。
――トン、トン、トンカラ、トン……
錆びた自転車のブレーキ音と共に聞こえた、野太い歌声。
暗闇から這い出るように、或いは暗闇を背負っているようにソレはいつの間にかすぐ傍まで来ていた。
ギーコギーコと耳障りな音を響かせながら自転車で距離を詰めてくる、全身に包帯を巻いた男。その手には錆光を輝かせる日本刀があり――
「うそ、だろ……」
――自転車に、日本刀を持った包帯男って……トンカラトン!?
【トンカラトン】
ネットを中心に広まっている、都市伝説の一つ。
ターゲットは主に男子学生。
突然「トン、トン、トンカラ、トン」と歌いながら現れ、遭遇した人物に「トンカラトンと言え!」と命令してくる。要望通り「トンカラトン」と言えば助かるが、「トンカラトン」と言わなかった場合は――
『トンカラトンって言え!』
僕の目の前で自転車を止めると、トンカラトンは確かに言った。
『今、言え! さあ言え! そら言え! いいから言え! 間髪入れずに言え! トンカラトンだ。言え言え言うんだ』
「あ、ちょっと! 言いますから、そんな焦らせない……あっ」
しまった!
――トンカラトンに「トンカラトンと言え」と言われて従わなかった者はその場で斬られ、そしてトンカラトンにされる。
つまり最初が「イエス」でも「分かりました」でもなく、第一声が「トンカラトン」でなくてはいけないのだ。
最初からそれが狙いだったように、包帯の隙間から覗く仄暗い眼光が僕を見て嗤った気がした。
『トンカラトンと言わなかったな! 斬る!』
「ひっ! そんな……今のはズルいだろ!」
自転車に乗りながらトンカラトンが怪しく光る日本刀を振り上げた。
「これで、お前も仲間入りだ! トンカラトーン!」
――あぁ、こうも何もできないものなのか……
――こんな事なら、もっと……もっと……なんだっけか?
嘆く事くらいしか出来ず、僕がゆっくり目を閉じた時だった。
カキン――、と一合の音が鳴った。
「え?」
おそるおそる目を開くと、紫色のフードが見えた。
――男の子?
僕より少し背の高い、高校生くらいの男の子。
闇から湧き出たような漆黒の髪に、沈む直前の夕陽のような赤褐色の瞳。
あろうことか少年は振り下ろされた日本刀を傘で受け止めていた。
突然現れた少年に、トンカラトンも驚いたようで、包帯の隙間から覗く仄暗い光が微かに見開いた気がした。
そして少年が再度傘を振り上げると、トンカラトンは咄嗟に刀の先端を傘の先にぶつけて威力を殺し、そのまま傘を受け流した。その勢いに身を任せ、両者共に後ろへ下がる。
「へぇ、考えなしで攻撃してくるかと思ったけど。案外、賢いんだな。これは楽しめそうだ」
そう薄く笑うと、少年は深く被っていたフードをとった。
滑らかな黒髪が月光に反射して光り、その妖艶な美しさに僕とトンカラトンは思わず息を呑んだ。
「いいね、最高だよ! この街! 来た早々、獲物に出会えるなんて……本命の姉ちゃんの方じゃねえのは残念だけど」
少年は左目を抑えながら、愉しそうに笑い声を上げた。
「あー、一応確認だけどさ。あんたはコスプレ野郎じゃなくて、本物の怪異って事でいいんだよな?」
『トントンカラトン!』
「なんじゃ、そりゃ? イエスって事か? まあ、いいや。それなら……」
と、少年はさらに笑みを深め――そして大地を蹴ってトンカラトンに飛びかかった。
「夜遊びしようぜ!」
――そして今に至る。
日本刀と傘でチャンバラを繰り返す、怪異と高校生。
しかも優勢なのは高笑いしながら傘を振り回す人間の高校生の方。
僕も感覚がマヒしてきたのか、この異様な光景を不思議とすら思えなくなってきた。
『ぐっ! この、クソガキが!』
なかなか勝負がつかず痺れを切らしたのか、トンカラトンが自転車のタイヤを地面に擦らせながら一気に後ろに下がった。先程のような間合いを取るための距離ではなく、かなり広範囲だ。そして両手で日本刀を構え直した。右手で柄を握り、そのすぐ真下を左手で添えるように握る――素人の僕の目から見ても綺麗な構えであり、剣道の正式な型なのだろう。もし自転車に跨ったままという格好でなければ、もっと様になっていたと思う。
『トン! カラ! トン!』
それは掛け声なのか。トンカラトンは日本刀を構えたまま、自転車で少年に突進した。
やはり怪異が乗る自転車。意思でもあるかのように、トンカラトンの掛け声に合わせて自転車がひとりでに走り出した。
対する少年は笑いながらトンカラトンが距離を詰めるのを待った。そして――
バン、と乾いた銃声が響いた。
『……え?』
トンカラトンが呆然としながら、声を漏らした。
僕も一瞬何が起きたか分からなかった。硝煙が漂う拳銃を少年が指先で振り回しているのを見るまでは。
――銃? 何で……ここ、日本だよ?
銃弾はトンカラトンの腹部を貫通しており、地面に役目を終えた銃弾が転がっていた。もし相手が人間だったら出血している所だが、相手は怪異。このくらいでは――
『撃った!? 今、トンカラトンの事、撃った!? え!? 普通、撃つ!?』
メチャクチャ動揺していらっしゃる!
そうだよね! 急に銃で撃たれたら、驚くよね! ごめんね!
初めて見た時の得体の知れない威圧感はなく、トンカラトンは面白いくらい顔を歪ませて驚愕していた。顔色は分からないが、包帯の下にもし肌が存在したら、きっと青ざめているに違いない。
「……なるほど。血は流れていないタイプか。痛覚もなさそうだな……河童は血管もあったし、骨もあったけど……古参妖怪とはやっぱり違うか。それとも種類か……」
少年が呟き始めた。何か今、不穏な単語が聞こえた気がしたが。
――そもそも何なんだ、この子は。
最初は助けてくれたと思ったけど、今は違うとはっきり分かる。
だって彼はとても愉しそうだから。
現れてからずっと笑みを絶やさない。本当に愉しそうに嘲笑(わら)うのだ。
虫を殺して遊ぶ、無邪気な子供のように。
「まあ、いいや」
少年は器用にガンスピンしながらさらに邪悪な笑みを深めた。
「人間の骨は大人の場合206本。怪異の骨は何本まで耐えてくれるのかな……包帯の下は骨なのか、皮なのか、どっちなんだろう……まあ、どっちにしても剥げば分かる事か……撃って、剥いで、刺して……今日はどうやって遊ぼうか。くっあはははっ……あぁ楽しみだ」
『ひっ』
トンカラトンは怯えた声を漏らした。気持ちは分かる。普通に怖い。
「おいおい。銃で撃たれたくらいで、そんなビビるなよ。それでも怪異かよ。大入道の旦那は、その程度じゃ怯まなかったぜ」
戦った事あるの!?
「なあ、トンなんとかさん」
『トンカラトンだ!』
「そうそう、それ」
少年はわざとやっているように、挑発するようにトンカラトンに言った。
「お前さぁ、洋画とかって見た事ある?」
『は? よーが?』
いや、あるわけないだろ。
思わず僕は心の中で突っ込むが――
『えっと、その……じ、自転車泥棒なら……』
あんのかよ! いや名作だけど! 今の時代の子には伝わらないよ、それ!
「ふーん」
やはり知らないのか、彼は興味なさそうに言った。
――いや、聞いたの、君だよね? その態度はよくないんじゃないかな。
「俺、結構海外のホラー映画とか好きなんだけど」
――あ、この子……人の話、聞かないタイプだ。
同じ事をトンカラトンも思ったのか、何か言いたそうな目で少年を見ていた。
「日本と海外とのホラーって、ここだけは違うって所があってさ……何だと思う?」
少年は銃を振り回しながら笑いながら言う。
「それは……海外版のホラーは、大抵の事は銃器類で解決するって事!」
『お前、何、言ってんだ?』
ほんとだよ。
「だから、そのままの意味だよ。ジャパニーズホラーって、最終的に呪いとか幽霊が勝って終わりだけど……海外版ホラーだと、ちゃんと倒して終わる展開が多い。しかも日本の幽霊には銃器類が効かないけど、海外版だと銃器類で吹っ飛ぶ。俺、勝負事には白黒つけないと気が済まないタイプだからさ。ああいう結末の方が好きなんだ。だからさ……」
長々と語っていた少年は、呆けていたトンカラトンに近付き――
「殺されてくれない?」
甘く囁くように言うと、上着の中から取り出したナイフでトンカラトンを正面から刺した。それも心臓の部分を、的確に。
あまりの素早さに、一瞬何が起きたか分からなかった。見ているだけの僕だけではなく、おそらくトンカラトンも何をされたか分からなかったようで、数秒遅れてからトンカラトンは悲鳴を上げた。
『ひぎゃあああああああ』
「あっははははは! 面白れえ! こんだけ斬り刻んでも、出血しねえ! 楽しい!」
バキ、バキ――と何かが砕ける音だけが響き、最初は人間らしい悲鳴を上げていたトンカラトンも次第に放心状態になり、今では膝立ちのまま硬直している。
「さて、と」
少年がそう言って手を止めた瞬間、ナイフに僕の姿が映り込んだ。その瞬間、忘れかけていた恐怖が全身を巡った。
「ひぃぃぃぃぃぃ!」
ずっと我慢していた悲鳴が喉から飛び出た。
その瞬間、少年の視線が僕に突き刺さった。
――あ、この人、僕の存在、今の今まで認識してなかったんだ……
――目が言っていた、誰だ? お前と……
「お前……」
ふいに少年が僕を見ると、目を大きく見開いた。
赤褐色の瞳の中に僕は映っていて、その時初めて僕という存在は認知されたのだと分かった。
――でも、この子にその気はなくても、この子がいなかったら、僕は今頃……
『……っ!』
その一瞬を見逃さず、トンカラトンが立ち上がって逃げ出した。ずるい。
すぐ傍の自転車に向かって手を伸ばすが――
『ああああああ! 俺の自転車っ!』
少年は僕の方に視線を向けたままトンカラトンの自転車を撃った。それもタイヤだけを狙って。
――この人、マジで容赦がない。ちょっと可哀想……
銃弾は全て自転車の車輪を貫通しており、空気が抜けたゴムの塊が横たわっていた。
――あの自転車、空気で動いていたんだ。
自転車がパンクしてしまい、トンカラトンは地面に座り込んだ。やっぱりちょっと可哀そう。
「なあ、おっさん」
『ひえっ』
自転車の前で項垂れるように座り込んでいたトンカラトンの顔を覗き込むような形で座り、少年は言った。
「ずっと思っていたんだけど、お前、いい得物持ってんな?」
『え?』
「よこせよ、それ」
『………………………………はい』