もし、自分の思う世界になるなら。
もし、自分の妄想が生み出した存在が目の前に現れてくれたら。
誰しも一度は考えたことがあるだろう、妄想は全員に与えられた特権である。
「ありがとうねぇ……忙しいのにこんな手伝ってもらっちゃって……」
「いいんですよ、気にしないでください」
「坊や、名前は?」
「ソウジ、笛吹ソウジです」
「いい名前だねぇ……君は立派な大人になれると思うよ」
腰の曲がった老婆を都内の横断歩道にて助ける好青年もまた妄想が大好きであった。
絶え間なく車の音が響き渡る中、感謝の言葉を述べられた高校生笛吹ソウジは彼女の姿が見えなくなると一つ溜息を吐く。
老婆に向けてではない、行く先で起こるであろう憂鬱に彼は虚ろな目をした。
「はぁ……どうしてこうなっちまったのか」
少しだけ寝癖の立った黒髪を掻き上げるとソウジは歩を進めていく。
これから巻き起こる、生々しい憂鬱を軽く吹き飛ばすような伏線の敷かれない急展開が起きることはつゆ知らずに。
「よぉエロ作家! 調子はどうだ?」
「売り上げは上々なのか? 金稼げてんなら俺達になんか奢ってくれよ」
「おっぱいで得る金は最高だろうな!」
小鳥が囀る雲一つ無い朝空。
登校を完了し、席に着いたソウジに対して囃し立てる声が幾つも早速鳴り響く。
(またこの流れか……)
気怠そうに彼は心の中で憂鬱に呟く。
だが彼は怒ってはいない、いや怒ってはいたがもう慣れてしまったのだ。
エロ作家と言われることも、女子生徒から冷ややかな視線を向けられることも。
「おはよう木崎くん……別にそんな奢れる程に稼いでないよ。あの本だって打ち切りになった訳だし」
笛吹ソウジはライトノベル作家だ。
きっかけは幼少期から投稿し続けていた小説の一つがバズり、編集者の目へと奇跡的に止まったことから始まってしまう。
ソウジはただ嬉しかった、自らの作品が世に認められたのだって、有頂天になってなかったと言えば嘘になる。
「プッ、アッハハハハ! あれ打ち切りになったのかよ!」
「残念だな〜続きが見れなくて、お前の妄想の続きがよ」
それが今の絶妙に嫌な現状を生み出してしまうとは思いもしなかっただろう。
始まりは悪辣な笑みを浮かべ言葉を紡ぐ木崎勇斗に偶然、スマホによる編集者とのやり取りを見られてしまったことからだ。
彼の強気な態度に抗う術などあるはずもなくソウジは自らの隠していた趣味をひけらかす事になってしまう。
完全硬派な作品ならまだ良かった、しかし彼のライトノベルは少しばかり卑猥な要素がある異世界アクションモノ。
オタク高校生と見られてた元の立場もあって標的となるのに時間は要さなかった。
「『神聖賢者の魔法改革』だっけか? プッ……タイトルだけで笑いが込み上げる」
「ちょ、木崎くん!?」
「何恥ずかしがってんだよ、お前が書いた話だろう? あの表紙絵にあったおっぱいの大きい女もお前が作ってよ」
「ッ……それは」
公衆の面前で言うような物じゃない。
あくまでメインは学園アクションだが時折自身の性癖を含めたお色気展開を入れたのが仇となってしまっている。
自分自身で始めた物語ではあるのだが堂々と言われることに羞恥心を覚え始め彼が顔を引き攣り始めた時だった。
「はいストップ!」
加速する弄りに待ったをかける可憐な声。
秀麗な茶髪を靡かせる美少女はこの状況に怪訝な表情を見せ、苦言を呈する。
彼女の背後には更に数人のカースト上位に当たる者達がこちらを凝視していた。
「また意味のない弄りしてるの勇斗、いい加減に止めなさいっての!」
「ゲッ、お前かよ風紀委員!?」
強気と享楽に満たされていた顔は瞬く間に不愉快へと変貌を遂げ、バツが悪そうに風紀委員へと声を荒げる。
裏表のない天真爛漫な外見に見合う性格を持つ彼女の名は朝日ユズ。
彼女を二文字で言い表せと言われれば「正義」以外の言葉は思いつかないソウジの幼馴染に当たる人物。
数少ない安堵の心を抱ける平等な存在は今日も恐れ知らずにこちらへの介入する。
気の強い性格もあってか勇斗ですら支配的な態度をぶつける事が出来ない。
「別に何を書こうがソウジの自由だし誇らしいことよ、バカにするだけの貴方の方がよっぽどダサいわよ!」
「チッ……正義気取りが」
「気取りで結構!」
一切引かないユズの態度に勇斗達は不服そうにその場を離れていく。
もう何度助けられたか指で数えられない程には世話になっている存在。
非常に有り難いが人気者の彼女故に「オタク如きが馴れ馴れしくすんな!」と言うような痛烈な視線にソウジは受難している。
「ソウジ大丈夫? またあの馬鹿達は……なんかあったら私に言いなさい! 人の作品を貶す人なんて一発やってあげるから」
「あ、ありがとう……ユズ」
辺りの視線を気にすることなく昔ながらのよしみであるユズは意志の強い言葉を高らかに宣言していく。
幼馴染という唯一無二の関係が二人を包むが間を挟むように同じく正義を体現したこのクラスのリーダーが割り込む。
「甘やかし過ぎだユズ、もう少し風紀委員としての自覚をだな」
目を惹かれる秀麗な容姿。
金髪が目立つ中性的な美丈夫はキレのある瞳でソウジ達へと苦言を呈する。
神谷壮介、文武両道の道を突き進む常に黄色い声援を浴びる輪の中心。
自他共に厳しくいる同じ風紀委員の壮介は緩やかな空気を許せなかった。
「ソウジ、学生の本分は学を享受することだ。あんな不埒で生産性のないものを作るための場所ではないッ! 休み時間も勉学もせずにその下らない小説を書いて」
「ちょ壮介、流石に言い方を!」
「怠惰を直すためには時に厳しくならなくてはならない! いいかソウジ、君は執筆活動も止め勉学に興じるべきだろう。これは君の未来の為を思っているんだ」
「アッハハ……そうなのかな。ごめん」
ソウジは内心不服な思いを抱く。
言いたいことは分からなくもないが、唯一のアイデンティティを否定されているのだから当然の反応だろう。
ひたすらに怒りを堪えながら場を収めるべく反省と自嘲の言葉を口にする。
「ちょっと〜朝から喧嘩とか止めてくんない? マジで萎えるんですけど〜」
「そうそう、他所でやって〜って感じ? 別にルールないんだしそんな厳しくなくてもいいじゃ〜ん」
「もう少し声量抑えてくれよ風紀委員さん」
「なっ、俺は正しいと思うことを注意しているだけだ! ハズキ、祭華、和人!」
何とも言えない空気に拍車をかけるように声を掛けたのは同じくカースト上位の者達。
金髪のサイドテールが目立つ高峰ハズキと可憐なショートの青髪緩やかな雰囲気が特徴の雨宮祭華。
世間ではギャルと呼ばれる二人は着崩した制服でスマホを弄る横目で正議を執行する壮介へと煽るように声を掛けた。
まさに陽キャと呼ぶべき二人と共にいる黒一点の存在は向井蓮。
サッカー部の部長を務める故の若干色黒の筋肉質な身体が目立つ男。
壮介と同じく幅広い人脈を持つ彼は一見すると関係のなさそうな女友達と共に笑みを浮かべている。
「アッハハ……ごめんね皆、俺も改善していくからさ壮介くん」
「フンッ、その言葉が嘘じゃないことを信じているぞ」
居心地が悪い……その言葉を心で漏らしながらソウジはどうにか場を切り抜ける。
颯爽と去る壮介の後ろ姿を見つめながら彼は小さくため息を吐いた。
イジメとイジリ、どっちにも取れる境界線な言葉を投げ掛けられる日々。
親に迷惑を掛けたくないと蛇足な心でソウジは憂鬱な毎日を過ごしている。
「はぁ……ラノベ作家にならなければ」
良くも悪くも今の自分を作り出さ振り回されるこの肩書きに言葉が漏れた。
無意識に開いた作品が掲載されたページに虚ろな視線をソウジは向ける。
「超展開でも起きねぇかな」
自分で作り出してしまったが故にどうしようもない状況にソウジは浅はかな神頼みを窓越しの青空に向けて言い放つ。
もし運命が変わるのなら変わりたい、無意味だと分かっていても陰鬱な世界に苦しむソウジは願うしかなかった。
(ハハッ……何考えてんだ、トイレ行こ)
「あっソウジ! もし宿題とかで困ってるなら私の参考にしてもらっても!」
不味い、ソウジは顔を歪ませる。
人気者の一人であるユズから宿題を写してもらう、一部生徒からすれば強く願う事でありヘイトの視線が向けられていく。
善意での行いとは分かっている、だが自身の立場と何時までも助けられる不甲斐なさからソウジは拒絶を口にしようとする。
「いいよユズ、自分のことは自分で終わらせる……か……ら」
だが言い終わる前に当たり前に進もうとしていた日常は終わりを迎えた。
「はっ?」
前触れもなく彼の、いやクラス全員の足元には漆黒の円環が顕現する。
暗闇は急速に教室全体へと広がっていき突然の事態は周囲を混乱に包み込む。
「な、何だこれはッ!?」
「ちょなになになになに!?」
「皆、今すぐ教室から避難をッ!」
全員が戸惑う中、いち早く緊急事態へ理性的になった壮介は声を荒げる。
ハッとなる者達は彼の声に扉へと足を進めようとするが時は既に遅かった。
教室を包む黒い円環は吸い込むようにソウジ達を強制的に落下させる。
「キャァッ!?」
「ッ! ユズ!」
思考が停止してきたソウジはユズの悲鳴にようやく意識を取り戻す。
成す術もなく落下する彼女を助けようとへと手を伸ばすが彼もまた奈落へと落とされ救いの手は僅かに届かない。
「何だよ……何なんだよこれはッ!?」
最後に教室へ響いたのはソウジの叫び。
誰も抗うことは叶わず全員が突如現れた暗闇へと呑み込まれていく。
「お前ら〜授業を始め……えっ?」
僅かな時間差で入室した担任教師は物だけしかない神隠しの場に理解が追いつかない腑抜けた声を上げるしかなかった。