「ただ、偽装恋人……岡先生の提案を聞き入れた私が言うのもアレですが、そこまでする必要があったのかなって思っただけです。私と違って血縁ではない間柄ですから、距離を置いてやり過ごすことだってできたはずですよ。そのままの関係を続けているのは、どうしてですか?」
そもそも同じ病院にいるから、岡先生の評判が悪くなるのだ。さらにその原因ともいえる湊さんの肩代わりをさせられているため、他の医者よりも抱えている患者が多い。
それなのに、恋人になったばかりだという理由で、律儀に私のところに来るものだから。いくら偽装でも、やり過ぎなのでは? と思ってしまう。
岡先生が忙しいのは知っているし、ちゃんと休んでほしい。休憩時間に私のところに来るのではなく、岡先生が心から本当に休まる場所で。
これからは姉と湊さんの外出のアリバイ作りで休憩時間が増えると言っていたけれど……どこかでしわ寄せが来るとも限らない。ううん、絶対に。
けれど湊さんがフォローしてくれるわけでもないから、結局のところ、振り回されていることには変わりないのだ。
「……後悔しているのか?」
寂しそうな声で言う岡先生。
もしかして私が嫌がって言っていると思ったのかな。
「まさかっ! ただ、どうしてそうしないのか、疑問に思っただけです」
医者になるために湊さんから借りた分は、すでに十分、返したように見えてならなかったのだ。
「確かに他の病院か、クリニックに移る選択肢はある。幸か不幸か、湊のお陰で実績はかなり積ませてもらったからな」
「だったら……ううん、尚更そっちへ移るべきです」
寄生虫は、自分に都合のいい人間が近くにいれば察知して、擦り寄ってくる。そういう生き物なのだ。私はそれが姉だから逃げられないけれど、岡先生は違う。逃げられる内に逃げてほしい。
「岡先生……」
思わず悲痛な声が出てしまった。すると岡先生は立ち上がり、私の目線に合わせるように跪く。
「どの道、同じ医療の世界にいることに変わりない。学会に顔を出せば嫌でも顔を合わせる。だから俺は、完全にこの悪縁を断ち切りたいと思っている」
「っ!」
姉妹の縁は、法律上、切ることはできない。書面であれば、戸籍を分けることはできるけど……効果は薄い。けれど赤の他人は違う。書類などなくても、簡単に切れるのだ。
「……いいなぁ」
「俺といれば栞の望みを叶えられる。逆に俺じゃないと難しいだろうな」
「……そうやって、いとも簡単に誘惑しないでください。悪魔の囁きに耳を傾けてしまいそうになります」
あの時もここで、私はその囁やきを受け入れた。悔しいけれど、その時にはもう、私の気持ちは傾いていた。岡先生に。
けれど逆に、岡先生はどうだろうか。
姉の前でキスされてから、これ見よがしにしてくるけれど……。
笑う岡先生に手を伸ばすと、それが合図になったかのように近づいてくる。そしていとも簡単に唇が重ねられた。
「んっ」
「この手は悪魔の導きだな。そんな顔で差し出されたら、したくなるだろう?」
「っ!」
あながち間違ってはいなかった。だけどこんな場所で医者と患者がしていい行為ではない。
「岡先生のせいで本当に悪い女になりそうです」
「いいじゃないか。芳口病院一の悪評外科医の女としては」
仮ですよね、という言葉が言えずにいると、岡先生は意地悪そうに「ん?」と顔を傾ける。それを私は可愛いと思ってしまっているのだから、これはもう重症だった。
だから、わざと話題を変えることにした。
「それで、これからはどのような手筈ですか? 当初の予定とは大分、違いますけれど」
「そうだな。当初は俺たちの関係を言い触らしている一ノ瀬姉の悪行を湊に見せて、幻滅。婚約破棄後も諸々、信頼を無くしたところで、院長夫妻に気に入られている栞が助言。という手筈でいたが、栞と一ノ瀬姉のこともあるしな」
そう。あの日、私は院長夫妻、特に園子夫人に「岡先生のような人物を、湊さんの傍に置いてはいけません。姉と同じく悪影響を及ぼすだけです」という役割のために、偽装恋人を持ちかけられたのだ。
しかし姉が私の噂を流しても、湊さんとの仲は相変わらずだった。むしろ湊さんは姉の本性を知っているのでは、と思ってしまうほど、関係を維持していた。
「芳口先生は、お姉ちゃんのそういうところも含めて好きになったのかもしれません」
私が岡先生のそういうところに惹かれたのと一緒で。
「だから、作戦を変更しませんと」
「あぁ。それでなんだが、実行は栞の退院後にしたいと思っている。構わないか?」
「退院、後?」
私は驚きのあまり目を瞬きさせた。
「どうしてですか?」
「病院内でやると、一ノ瀬姉以外の看護師や患者、あとは俺を妬んでいる医者とかが、栞にちょっかいを出しかねない」
「それくらいなら、私だって覚悟の上です。反撃だってできます。むしろ問題を起こして困るのは、向こうの方だと思いますよ。私は入院患者で、院長夫人がバックにいるわけですから」
下手したら芳口病院に迷惑をかけた、という名目で辞めさせられてしまうだろう。その時はもう、退院した後になるだろうから、私には関係ない。姉は……湊さんに同情されて、一気に関係も進みそうだ。園子夫人も協力してくれるだろう。
だから岡先生が心配する必要は、何もないのだ。けれど、岡先生の様子がおかしい。どうしたのだろう。
そう思って首を傾けた途端、逆に岡先生は首を横に振った。
「違う。俺が心配しているのは栞の身だ。これ以上、怪我をしたらとどうする? あと、俺がダメージを受けるからダメだ」
「……岡先生。私たちは偽装恋人……ですよね?」
ずっと躊躇ってきたけれど、岡先生の反応を見て、思わず口から零れてしまった。すると、見るからに嫌な顔をする岡先生。これってもしかして……。
「今も栞はそう思っているのか? それともそれが望みか?」
「……岡先生は、違うと?」
「俺は本気で好きになったから言っている。栞は違うのか?」
「私は……」
岡先生が近づき、私の首からコルセットを外す。
「本当はもう、外しても平気だった。ただ、顔を背けられたくなかったから、そのままにしていただけで……もしも嫌だったら――……」
「避けません! 本当に嫌だったら、キスされた後だってこんな風に話したりしませんよ」
私も岡先生のことが好きになったから。
それを告げる前に、岡先生は感極まったのか、私に長くて深い口付けをした。