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第9話 公然の関係へ(?)

 顔を背けたくても、コルセットがそれを許さない。だから代わりに、再び目を瞑った。


「こういう点は神に感謝しないとな」


 信仰心なんてなさそうな性格をしているのに、と思うものの、胸がドキドキして反論できなかった。

 岡先生もそれを承知なのか、さらに接近してくる気配を感じる。


 な、なに?


 前髪を掻き分けられている感触がした途端、額に何かが当たって、私は驚いて目を開けた。

 すると案の定、岡先生の顔が近くにあって……一瞬、偽装恋人だということを忘れそうになった。


 それを岡先生も察したのだろう。上げた口角を戻し、眼差しも真剣なものへと変わっていく。茶髪の奥にある、強い意志が宿る瞳に吸い込まれそうになり、目を閉じようとした時だった。


「ううん!」


 大きな咳払いに、私はハッとなった。しかし岡先生は逆に、ここぞとばかりに距離を詰めてきて、唇を重ねる。それも一瞬だったが、来訪者である姉には十分な効力を発揮していた。


「岡先生! ここをどこだと思っているんですか!」


 姉の怒号が病室内に響いても、岡先生はどこ行く風だった。だから当然、ベッドから降りる様子もない。逆に私は、恥ずかしさでいっぱいになっていた。


「一ノ瀬こそ、ここをどこだと思っている。院内はお静かに、と師長がいつも言っているだろう」

「それをいつも破っているのがご自身だと、自覚してください!」

「俺はいつも、静かにしているが?」


 あぁ、なんとなくだけど、姉の言っている意味が理解できた。


 岡先生はただマイペースに行動しているだけで、姉や師長、といった看護師さんたちが、その行動に反応しているのだ。今だってそう。


「恋人との逢瀬を大っぴらにできないお前らと違ってな」


 相手の神経を逆撫でる発言と行動をしなければ、ね。そう思った瞬間、奥にあった薄黄色のカーテンを真横の位置まで引かれた。


「お、岡先生っ!」


 しかし、この声はそれに対してのものではない。岡先生は私の背中に腕を回し、気がつくとそのままベッドに横たわらせていた。

 そして、先ほどの続きだと言わんばかりに岡先生の顔が近づく。


「まっ……」


 て、という言葉は、そのまま岡先生の唇に塞がれてしまい、発せられなかった。代わりに「んっ」と声が漏れる。


 けれど気にしている暇はなかった。岡先生の舌が私の口内を蹂躙するのは早かったからだ。それなのに今度はゆっくりと、まるで味わうかのように優しいものへと変わり……。


「はぁ〜」


 唇が離れた瞬間、空気を求めてしまい、再び声が出てしまった。病室にはまだ姉がいるというのにもかかわらず。


 咄嗟に口を手で覆っても、後の祭り。それでも羞恥に支配されていた私には、必要不可欠な行為だった。岡先生の顔がまだ、近くにあったから。


 またあんなキスを、周囲に人がいる中でされたら、今度こそ耐えられない!


「それで、まだ俺らの邪魔をする気か? こっちは協力してやっているのに」

「っ! し、失礼しました!」


 姉はやって来た時と同じように、大きな声で言い放ち、病室を出て行った。入口付近にいたから、他の患者や看護師にも聞こえてしまったかもしれない。


「お、岡先生……」

「何だ? まだ物足りないのなら――……」

「ち、違います。というか、起き上がらせてください」


 全身の痛みは薬で和らげられているため、一人で起き上がることはできるのだ。けれど岡先生が私の上に覆いかぶさっているから……それもできなかった。


 私は再び小言を言おうとした瞬間、背中に腕を回されて、岡先生に抱きしめられながら上半身を起こした。

 こういう点は岡先生も、医療従事者なのだと思い知らされる。私の体に負担がないようなやり方を取るところは特に、そう感じざるを得なかった。


「ありがとうございます。けれどさっきのはやり過ぎだったのではありませんか?」

「いいや。これで湊たち以外にも、俺たちの関係が知れ渡るだろうから、あれくらいで十分だ。それよりも、やっぱり足りなかったか?」

「わ、私はやり過ぎだと言いました! それくらいは聞き取ってください!」


 けれど岡先生の言うことには一理あった。確かに病院内は娯楽に飢えている。だから私と岡先生の噂はすぐに広まることだろう。姉の声は大きかったし、あぁ見えて噂好きだから。


 しかし、一つだけ懸念があった。なにせ姉は、自分のいいように広める癖を持っている。

 良からぬ方向にいっていないといいけど、と思ったが、岡先生の顔を見て諦めた。おそらく、これも岡先生の計算の範囲内なのだと思ったからだ。



 ***



 案の定というべきか、姉は私を悪者に仕立てていた。けれど相手が岡先生であったためか、思った以上の効果は得られなかったらしい。


「あの……」

「何だ?」


 芳口病院の庭で、ベンチに座る岡先生に声をかけた。


 私はというと、相変わらず車椅子の上。今日も今日とて、姉と湊さんのアリバイ作りのために、ここでのんびりと過ごしていたのだ。

 それも何時に帰ってくるのか分からない二人を待っている。おそらく、今日も長いのだろう。だからこそ、聞いてみたかった。


「岡先生の評判って、どのくらい悪いのですか?」

「っ! ……それを俺に聞くのか?」

「他に聞く相手がいないので」


 姉が流した噂により、私と世間話をしようとする看護師と医者がいないのだ。だから、噂の詳細も実は分かっていない。とはいえ、姉に聞くなんて……罰ゲームもいいところである。


 聞いたが最後。岡先生の悪口を永遠と聞かされ、別れるように強要してくることだろう。それでは私と岡先生の計画が台無しになってしまう。


 私自身、岡先生と別れたくないし、悪口だって聞きたくはない。

 だからといって、自分から積極的に看護師と医者に岡先生のことを聞く勇気はなかった。おそらく私のことを、入院したてなのに外科医を誑かした不埒な女、だと思っているのだろう。姉が言い触らさなくても、岡先生の行動がそれを裏付ける結果を招いていたからだ。


 こうして二人で外にいることもそうだが、病室でも時々攻められて……!

 そんな妹を持って苦労しているのだと、周りからの同情を買っていることくらい、容易に想像ができた。


 まぁ、これは岡先生から聞いた情報も含まれているから、信憑性は薄いけれど、姉は昔から、自分をよく見せるためなら、妹の私だって利用する質だ。だからあながち間違ってはいないだろう。


 因みに湊さんは論外だ。


「ごめんな。俺のせいで孤立させたみたいだ。だけど栞は、退院すれば奇異な目で見られることもない。だから、ほんの少しだけ我慢してくれ」

「奇異な目で見られることくらい大丈夫です。今の世の中、高校くらいは皆出るのに、中卒で入社した身ですから。そんな視線くらい……なんてことはないですよ」


 最初は怪しまれ、事情を話すと同情される。慣れてくると甘えている、とまで言われる始末。さらには「若いのにもっと働かなくてどうする!」と言われ、精神をすり減らされた。


 今だって、一生懸命働いているのに、もっと、だなんて無理! 無責任なことを言わないで、と何度思ったことだろう。私の事情を知らないのに、好き勝手言って、安易に傷つけてくる人たち。


 だから私のことよりも逆に、岡先生のことが心配になった。これからも、この芳口病院で働くのだから。


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