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第7話 二つ目の密約

 岡先生に車椅子を押されて辿り着いたのは、大きな木の傍だった。


 今は春先だというのに、初夏のような暑さを感じる今日。日差しが強いわけではなかったが、ちゃんとそういうところを選ぶのは、なんともお医者さんらしいと思えた。


 口を開くと、そう見えないのに……。


「さっきの話だけどな、湊の尻拭い、というか肩代わりをしていると、色々と俺にとっても都合が良くてな」

「やっぱり美味しい思いを……それなのに、どうして否定をするのですか?」

「いや、そっちの美味しいとは違う、と言いたいところだが……まぁ似たようなものか」


 岡先生はそう言いながら、近くのベンチに腰かけた。


「湊の尻拭いをしているとな、自分の実力と人望だと到底、到達できない経験を、何度も味合わせてもらった」

「確かに、さっきの師長さんとの話っぷりでも、人望なさそうでしたからね」

「一応、聞くが、俺たち初対面だよな」

「はい」


 さっき自己紹介をしたのに、何を今更。


「何でそう、ズバズバ言うかな」

「それは……相手が岡先生だからだと思いますよ。丁寧な相手には丁寧に。ガサツな人にはガサツに対応しているだけですから」


 そうしないと、相手に舐められるか呑まれるか、二つに一つである。早々に社会に出た、私なりの処世術だった。


 すると、何故かここでも岡先生に笑われてしまった。そんなにおかしなことを言っただろうか。


「すまない。一ノ瀬の妹、というから、どんな奴なのかと思えば……姉に似て肝が据わっているな」

「やめてください。あんな姉と一緒にされたくはないです」

「二人だけの姉妹って聞いていたが、仲良くないのか?」

「アレとどうやって?」


 思わず敬語が取れてしまったけれど、岡先生は気にも留めていなかった。


「それもそうか。だったら余計に、素直に引き受けた理由はなんだ? 俺が言うのもおかしい気もするが」

「別に素直に、というわけではありません。利害が一致した、というか。芳口先生との結婚が上手くいけば、姉がもう、私を利用することはないと思っただけです……」

「あの手のタイプが、結婚で手を引くと思うのか?」


 私は首を横に振った。


「少なくとも、その頻度は減ると思いませんか?」

「減ったとしても、次にやって来る問題は、その倍になっている可能性の方が高い。立場が変われば、背負っている問題も変わる。加えて院長夫人になれば、想像していなかった問題を栞に擦りつけてくるだろう」

「……まるで経験者のような言い方ですね」

「現に、湊がそうだからな。友達の振りをして、俺のことは使い勝手がいい駒か何かだと思い込んでいる。今回の件がまさにそうだ。だけど今は俺にもメリットがあるからいい。でも結婚したらどうなる。さらに無理難題を押し付けられる可能性が、限りなく高いと思っている」

「だったら、引き受けなければいいのに……」


 岡先生と湊さんは別に、血縁関係でもなんでもない。わざわざ背負うことはないのだ。


 しかし、そういう問題ではなかったらしい。岡先生は深いため息を吐いた。


「それでも今の俺があるのは湊のお陰だからな。体のいい駒を傍に置くのに、湊は金を惜しまなかった」

「まさか、学費とか?」

「そうだ。まぁ俺も、医者になりたかったから湊に近づいた口だからな。お互いさまってところだろう」


 岡先生が『悪友』と言い続ける理由が何となく分かった。友と呼べないくらい、相手を利用し合っている関係だったからだ。


「だが、もういい頃合いだと思っている」

「頃合い?」

「栞も言っていただろう? 利用することはないって。つまり栞も、自由になりたいってことだろう? 一ノ瀬姉から」


 ずっと願っていたことだ。けれど両親を失い、二人だけになった姉を切り離せなかった。


「二人で自由にならないか? あいつらは結婚しても、俺らを利用し続けるぞ」

「……でも、どうやって?」


 それができたら、できなかったから、私も岡先生も利用され続けていた。だから今更そんなことを言われても、ピンとこないし、すぐに頷くこともできなかった。

 何より、自由になった私自身を、思い浮かべることができなかったのだ。


「簡単だよ。お灸を添えてやればいい。もう利用させたくない、と思わせるほどのな」

「だから、どうやって?」

「それはな……」


 岡先生は立ち上がり、私の耳元で囁いた。

 それがどのくらいだったかは覚えていない。私の事故は突発的で、岡先生に会ったのも、今日が初めてだというのに、その内容はとても緻密なものだった。


 まるで、ずっと計画していたような。そしてそれを実行できる相手を待っていたような。

 偶然か、必然か。


 私は岡先生の顔が離れていくまで、言葉を発せられなかった。


「どうだ。面白いだろう?」

「……一つだけ、難しい点があります」

「何だ?」


 これは分かっていて聞いているらしい。岡先生の顔がニヤついていた。


「……私たちが特別な関係でないと、成し遂げられない、と思います」

「特別な関係ね~。お互い子どもじゃないことくらい分かるだろう。言葉を濁さずに言ったらどうだ」


 どうしてそんな強気な、いや恥ずかしことを平気な顔で言うのだろう。だから私は、目を逸らしながら言うしかなかった。


「恋人同士でなければ、できない話だと思いました! これでいいですか?」

「そうだ。だからずっと、偽装恋人ができる相手を探していた。相手が女で、しかも俺と同じく、湊に近しい存在。でも近過ぎると裏切られる可能性もある」

「だから、私がちょうど良かった、と」


 私もまた、姉と離れたがっていたから。


「あぁ。それに恋人といっても、期間限定の恋人だ。上手くいってもいかなくても、湊たちが結婚するまでの間柄。しかも解消の条件は、アイツらから離れられることだ。悪くない報酬だろう?」

「……そうですね」


 成功報酬を得たと同時に解消する偽りの恋人関係。確かに悪くない話だった。


 かくして私は岡先生の偽装恋人になることを承諾し、姉と湊さんが戻って来るまで、念密な打ち合わせをした。

 これが、警察が来るまでのんびりとしていられなかった、二つ目の理由である。


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