岡先生に車椅子を押されて辿り着いたのは、大きな木の傍だった。
今は春先だというのに、初夏のような暑さを感じる今日。日差しが強いわけではなかったが、ちゃんとそういうところを選ぶのは、なんともお医者さんらしいと思えた。
口を開くと、そう見えないのに……。
「さっきの話だけどな、湊の尻拭い、というか肩代わりをしていると、色々と俺にとっても都合が良くてな」
「やっぱり美味しい思いを……それなのに、どうして否定をするのですか?」
「いや、そっちの美味しいとは違う、と言いたいところだが……まぁ似たようなものか」
岡先生はそう言いながら、近くのベンチに腰かけた。
「湊の尻拭いをしているとな、自分の実力と人望だと到底、到達できない経験を、何度も味合わせてもらった」
「確かに、さっきの師長さんとの話っぷりでも、人望なさそうでしたからね」
「一応、聞くが、俺たち初対面だよな」
「はい」
さっき自己紹介をしたのに、何を今更。
「何でそう、ズバズバ言うかな」
「それは……相手が岡先生だからだと思いますよ。丁寧な相手には丁寧に。ガサツな人にはガサツに対応しているだけですから」
そうしないと、相手に舐められるか呑まれるか、二つに一つである。早々に社会に出た、私なりの処世術だった。
すると、何故かここでも岡先生に笑われてしまった。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「すまない。一ノ瀬の妹、というから、どんな奴なのかと思えば……姉に似て肝が据わっているな」
「やめてください。あんな姉と一緒にされたくはないです」
「二人だけの姉妹って聞いていたが、仲良くないのか?」
「アレとどうやって?」
思わず敬語が取れてしまったけれど、岡先生は気にも留めていなかった。
「それもそうか。だったら余計に、素直に引き受けた理由はなんだ? 俺が言うのもおかしい気もするが」
「別に素直に、というわけではありません。利害が一致した、というか。芳口先生との結婚が上手くいけば、姉がもう、私を利用することはないと思っただけです……」
「あの手のタイプが、結婚で手を引くと思うのか?」
私は首を横に振った。
「少なくとも、その頻度は減ると思いませんか?」
「減ったとしても、次にやって来る問題は、その倍になっている可能性の方が高い。立場が変われば、背負っている問題も変わる。加えて院長夫人になれば、想像していなかった問題を栞に擦りつけてくるだろう」
「……まるで経験者のような言い方ですね」
「現に、湊がそうだからな。友達の振りをして、俺のことは使い勝手がいい駒か何かだと思い込んでいる。今回の件がまさにそうだ。だけど今は俺にもメリットがあるからいい。でも結婚したらどうなる。さらに無理難題を押し付けられる可能性が、限りなく高いと思っている」
「だったら、引き受けなければいいのに……」
岡先生と湊さんは別に、血縁関係でもなんでもない。わざわざ背負うことはないのだ。
しかし、そういう問題ではなかったらしい。岡先生は深いため息を吐いた。
「それでも今の俺があるのは湊のお陰だからな。体のいい駒を傍に置くのに、湊は金を惜しまなかった」
「まさか、学費とか?」
「そうだ。まぁ俺も、医者になりたかったから湊に近づいた口だからな。お互いさまってところだろう」
岡先生が『悪友』と言い続ける理由が何となく分かった。友と呼べないくらい、相手を利用し合っている関係だったからだ。
「だが、もういい頃合いだと思っている」
「頃合い?」
「栞も言っていただろう? 利用することはないって。つまり栞も、自由になりたいってことだろう? 一ノ瀬姉から」
ずっと願っていたことだ。けれど両親を失い、二人だけになった姉を切り離せなかった。
「二人で自由にならないか? あいつらは結婚しても、俺らを利用し続けるぞ」
「……でも、どうやって?」
それができたら、できなかったから、私も岡先生も利用され続けていた。だから今更そんなことを言われても、ピンとこないし、すぐに頷くこともできなかった。
何より、自由になった私自身を、思い浮かべることができなかったのだ。
「簡単だよ。お灸を添えてやればいい。もう利用させたくない、と思わせるほどのな」
「だから、どうやって?」
「それはな……」
岡先生は立ち上がり、私の耳元で囁いた。
それがどのくらいだったかは覚えていない。私の事故は突発的で、岡先生に会ったのも、今日が初めてだというのに、その内容はとても緻密なものだった。
まるで、ずっと計画していたような。そしてそれを実行できる相手を待っていたような。
偶然か、必然か。
私は岡先生の顔が離れていくまで、言葉を発せられなかった。
「どうだ。面白いだろう?」
「……一つだけ、難しい点があります」
「何だ?」
これは分かっていて聞いているらしい。岡先生の顔がニヤついていた。
「……私たちが特別な関係でないと、成し遂げられない、と思います」
「特別な関係ね~。お互い子どもじゃないことくらい分かるだろう。言葉を濁さずに言ったらどうだ」
どうしてそんな強気な、いや恥ずかしことを平気な顔で言うのだろう。だから私は、目を逸らしながら言うしかなかった。
「恋人同士でなければ、できない話だと思いました! これでいいですか?」
「そうだ。だからずっと、偽装恋人ができる相手を探していた。相手が女で、しかも俺と同じく、湊に近しい存在。でも近過ぎると裏切られる可能性もある」
「だから、私がちょうど良かった、と」
私もまた、姉と離れたがっていたから。
「あぁ。それに恋人といっても、期間限定の恋人だ。上手くいってもいかなくても、湊たちが結婚するまでの間柄。しかも解消の条件は、アイツらから離れられることだ。悪くない報酬だろう?」
「……そうですね」
成功報酬を得たと同時に解消する偽りの恋人関係。確かに悪くない話だった。
かくして私は岡先生の偽装恋人になることを承諾し、姉と湊さんが戻って来るまで、念密な打ち合わせをした。
これが、警察が来るまでのんびりとしていられなかった、二つ目の理由である。