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第4話 一つ目の密約

 姉の手を借りながら、折りたたみ車椅子に座る。

 お尻の下は厚い布地があるだけで、とても頼りない。けれど今はそんな不満など口にはできる立場ではなかった。


 なにせ、その車椅子を押しているのが湊さんなのだ。いや、湊さんの前で姉に愚痴ることなんて、できるはずもないのだけれど……それでも!


「次期院長先生に押してもらっているなんて……」


 いいのかな、と思わず心の声が口から漏れ出す。ここがエレベーターの中だったこともあり、私の小さな声は反響して、遠慮なく二人の耳へと届いた。

 けれど後ろにいる湊さんの声は、予想に反して穏やかだった。


「それはまぁ、何というか、未来の妻と義妹への配慮だと思ってもらえると有り難いかな」

「まぁ、湊さんったら」


 嬉しそうな姉の声を聞いて、少しだけ安心した。園子夫人とも仲が良さそうだったから、そっちから攻めたのでは? と疑っていたのだ。

 けれど湊さんとのやり取りを見るに……。


「気を遣えるような男に見えなかったから、琴美は栞さんに僕のことを紹介できなかったのだろう。婚約したというのに」


 どうやら私の勘違いのようだった。


「婚約!? お姉ちゃん、本当なの?」


 彼氏がいたこと。それが次期院長の立場である人物、というだけでも驚いたのに……今度は婚約だなんて……。


 だったら尚更、話してくれなかったのはどうしてなの?


『無事に結婚できるかも不安でしたから』という、病室で聞いた姉の言葉が脳裏を過った。


 あれは……言い訳ではなく、本心だったのかもしれない。


 それが答えだったと言わんばかりに、姉は私の前にやってきて「えぇ」と苦笑いをした。湊さんはそんな姉の代わりに答える。


「両親も、琴美との結婚を喜んでくれている。だから栞さんは、何も心配することはないよ。勿論、入院代も含めてね」

「えっ、それは本当ですか?」


 さっきは姉の戯言だと思ったけれど、今度は湊さんからの提案だ。信憑性の高い話に私は食いついた。

 すると、湊さんも私の目の前にやってきて、頷いて見せる。


「これから家族になるのだから、当然だよ。だから、ちょっと協力してもらえないかな。大丈夫。そんな難しいことではないよ」


 嫌な予感がした。姉ではなく、湊さんの言葉だというのに、どうしてだろう。けれど今の私に用意されている答えは一つしかない。


「……私にできることなら」


 案の定、美味い話には裏がある、とばかりに湊さんと姉は顔を合わせて、ニャッと笑った。

 先ほどまではいい義兄の顔に見えたのに、今は姉と同じ人間にしか感じしかしない。私は間違った返答をしてしまったのではないだろうか。


 冷暖房がしっかりしたエレベーターの中、出ることのない冷や汗が垂れたような感じがした。けれど待ったなど言えるわけもなく、湊さんはサラッとあることを口にした。


「こうして栞さんを外に連れ出している間、僕たちも外に行かせてくれないかな」


 え? 今なんて?


 私は湊さんの言葉に驚きを隠せなかった。けれどお構いなしに、姉によって話は続いていく。


「つまりね。私たちは患者さんの容態次第で、なかなかまとまった時間が作れないのよ。栞なら分かるでしょう?」

「まぁ、私みたいに決まった時間で仕事をしているわけじゃないことくらいは、知っているよ」

「湊さんは特に外科医だから、救急が多くて。だから結婚の準備も、なかなかね〜」


 進まないことは、姉にとって一番困ることだった。それが手に取るように分かるだけに、向こうの言い分も理解できる。


 結婚までの期間が長ければ長いほど、相手の気持ちが余所に向かうのではないかと焦り出し。気持ちが冷めてしまうことに、今度は苛立ちを隠せなくなる。期間が空けば、釣った魚に逃げられる可能性だってあるからだ。


 私だって姉には、このチャンスを無駄にしてほしくはなかった。


「それで、こうして私を外に連れ出している間に、それを済ませたい、と?」

「ダメ?」


 私に肯定以外の選択肢などあるのだろうか。姉の顔を見て、私はすぐに諦めた。


「……いいけど、私が一人でいたら怪しまれない?」

「大丈夫。そこは抜かりないから。ね、湊さん」

「あぁ。協力者を用意したから」

「きょ、協力者!?」


 けれど湊さんは、私のそんな驚きに答えてはくれず、後ろに回って車椅子を押し始めた。チンっという音と共に、エレベーターが一階に着いたのだ。



 ***



 エレベーターを降りた途端、すぐにざわめき声が聞こえてきて、改めて芳口病院の規模の大きさを思い知った。


 おそらく、来院する人たちが多いのだろう。入院患者と一般の患者とで区域が分かれているにもかかわらず、話し声の他に、名前を呼ぶ声も聞こえてきたくらいだ。


 凄いと思ったのも束の間、すぐに消毒液の匂いが鼻を掠めた。それは病室にいた時と変わらないらしい。一階には、出入り口という大きな扉があちらこちらにあり、常に換気している状態である。それにも関わらず匂うところが、大病院らしかった。

 壁にしみ込んだ匂いって、そう易々と取れないものだから。


 しかし今の私は、そんな能天気な気分を送っている暇はなかった。姉と湊さんは会話することをやめて、黙々と移動をし始めたからだ。


 さっきの続きは……さすがにここではできないものね。とはいえ、どこに向かっているのかも分からない、というのは不気味で仕方がない。


 湊さんに押してもらっている以上、主導権を握ることは皆無。さらにいうと、次期院長に車椅子を押してもらっている患者、ということで注目は浴びているけれど、誰も近寄ろうとはしなかった。


 救いの手を求めることもできないなんて……。


 さらに怖いのは、姉と湊さんの表情が見えない、ということだ。一応、他の目もあるから、にこやかな顔をしているのかもしれないが……不気味で仕方がなかった。


 しかし、そんな気分もすぐに晴れるものが目に飛び込んで来た。いくつかある大扉の内の一つが、真正面に見えてきたのだ。

 まるで息の詰まりそうな世界から脱出する扉のように見えてくる。何故ならば、そこを抜けると、一面芝生に覆われた広い中庭が私の目に飛び込んできたからだ。


 しかしそれも束の間、まるで別世界のように見えた途端に、似つかわしくない声が聞こえてきたのだ。


おか先生せんせい! またここでサボっているとは、いい度胸をしていますね」


 私は反射的に声の方へと顔を向ける。すると、白衣を纏った医師と思われる茶髪の男性が、年配の看護師に注意を受けている姿が目に入ってきた。


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