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第19話 悪魔の書

 翌朝、明け方近く――。


 わたしとヴェルナーはお供も連れず、アラル川の上流から隠形おんぎょうの術をほどこしたボートに乗って、川を下っていた。

 マティアス=ヒューゲルのいる中州なかすまでは約一時間の旅だ。


 ゼフリア軍は朝七時に大規模作戦行動を開始できるよう川岸に陣を張って待機しているが、その目的はあくまで陽動。

 旧友でもあるヴェルナーに単独で接触させればマティアスも油断するはず、という計算の元での配置だ。


 ただし、ヴェルナーが無事マティアスを確保できれば良いが、万が一エイヴィスが邪魔をするなら排除も辞さないという、戦闘覚悟の作戦行動でもある。

 その気配を感じ取ったエイヴィス王国も、対岸に兵を大量に集めている。


 双方、大規模な衝突は望まないにせよ、戦端が開かれれば死者が出ることもありうるだろう。

 大量の人の魂を集められるチャンスを狙っているであろうマティアスは、今や遅しと魔法陣発動のタイミングを待っているはずだ。


 エイヴィスの巡視艇が警戒にあたるすぐ横を、わたしたちの乗ったボートが通り過ぎていく。

 わたし自ら施した隠形の術が見破られるはずはないが、やはり敵のすぐ傍を通るのは緊張する。


「ちょうど一年前。分校の教師に疲れたのか、研究機関の紹介を求めてマティアスが訪ねてきてね。残念ながら王立研究所が満員だったんで断ってしまった。その結果彼ほどの才能をみすみすエイヴィス王国に渡すことになるなんて、悔やんでも悔やみきれない」


 かいを動かしながら、ヴェルナーが述懐じゅっかいする。


「運命ってそういうものよ」

「……歳下の君にそんな風にさとされるとはな。君は幾つだ?」

「五百と十六歳。……信じる?」

「あながち嘘と言い切れない迫力を感じるのが怖いな。おっとそろそろ着くぞ。揺れるから注意したまえ」


 日はもう昇り、ゼフリアとエイヴィスの開戦リミットの七時まではあとわずか。

 ヴェルナーは舟の上に立つと、櫂を操って舟を中洲へと向けた。

 程なく到着しようというそのとき――。


「……どうやらこちらの動きはお見通しだったようだ。マティアス直々じきじきのお出迎えだぞ」


 わたしの予想では、マティアスはエイヴィス兵を大量に伴って待ち構えているはずだったのだが、中州にいたのはいかにも研究者然とした、白衣を着て眼鏡をかけた痩せぎすの男一人だけだった。


 こちらに気づいたようで、男が手を振りつつわたしたちの方に近寄ってきた。

 だが、わたしの視線は少し前から男の左手に釘づけになっていた。

 左手に持った黒い表紙の本。あれは……。


「時間通りだな、ヴェルナー。悪魔の書を使って暗示をかけたからエイヴィス軍はこの中州には来ない。魔法陣発動の準備もバッチリだ。いつでも作戦を始められるぞ」

「マティアスさん? あなた一体何を言って……」

「ご苦労さま、マティアス。そしてさらばだ」


 笑いながらヴェルナーはマティアスに向かって大量に影の矢を放った。

 完全に虚をつかれたマティアスの胸に影の矢が何本も突き立つ。


「え?」


 矢が刺さった胸の辺りを呆然と見たマティアスは、口から大量の血を吐いて仰向けに倒れた。


 舟上で立ちすくむわたしを置いてさっさと上陸したヴェルナーは、嬉々とした表情で倒れたマティアスの手から悪魔の書を取り上げた。


「所有者が亡くなり、私が新たな所有者となる。ハッハッハッハ。アーーッハッハッハッハ!!」


 わたしはヴェルナーの高笑いを聞きながら、右手の指をパチンと弾いた。


 ◇◆◇◆◇  


「やれやれですよ……」


 死んだはずのマティアスがボヤきながら立ち上がり、口に含んでいた血糊ちのりをペっと吐き出した。

 身体の前面に薄っすらと展開していた空気の盾が霧散する。


「おぉ、これがオリジナルの力ですか! 時間に干渉するなんてこの目で見ても信じられない。ちなみに影響があるのはどの辺りまでなんですか?」

「別に時を止めたわけじゃないわ。幻影空間ファンタズマゴリアの中ではわたしたちの意識だけが限りなく加速しているの。結果的に周囲の時間が止まったように見えているだけ」

「なるほどなるほど」


 マティアスがメモを取りながら激しくうなずく。


「どちらにしても悪魔の力はとんでもないですね。いやぁ、それにしても上手くいって良かった。あなたに僕の意図が通じるかは賭けだったから。僕がマティアス=ヒューゲルです。お会いできて光栄です、姫」

「エリン=イーシュファルトよ。よろしくね」


 わたしとマティアスは笑顔で握手を交わした。

 次の瞬間、わたしたちは良く晴れた雪原に立っていた。

 大の字で雪にダイブして遊んでいる白猫を横目に見ながら会話を続ける。


「わたしを知っているってことは、悪魔の書の記憶を読んだってことよね? それにしてはあまり汚染された形跡がないけど」

「精神汚染が怖かったから、僕は浅い層にしか潜っていません。その代わり、その辺りは丹念にチェックさせてもらいました。お陰で追跡者あなたの存在を知ることができました。書の能力でわずかながら未来も見えましたし」 


 幻影空間に探求心を刺激されたか、マティアスは興味津々といった表情で足元の雪をすくって観察している。

 わたしは苦笑しつつ、話を続けた。


「で? 何がどうなっているのかあなたの口からちゃんと説明してくれる?」

「あぁ、失礼しました。……そもそもの始まりは一年前です。魔法研究の最中さなか、偶然悪魔の書を召喚してしまった僕は、この事態が僕の手に負えるものではないと悟り、旧友のヴェルナーに連絡を取りました」

「彼はそこで初めて悪魔の書の存在を知ったのね? でも、資格を持たない彼には白紙にしか見えないでしょうに、よくそんな話を信じたわね」


 そこでパっと風景が変わった。

 中央に小さいながらも噴水が設置された、立派な公園だ。 

 好奇心が抑えきれないのか、マティアスが白猫を連れ立って噴水に駆け寄った。

 わたしはそれを尻目にベンチに向かう。


「おそらくヴェルナーは、その時から悪魔の書の精神汚染を受けていたのでしょう。現に僕は封印方法を求めて彼に連絡を取ったつもりだったのに、彼はコントロールすることを強硬に主張した。そして、書を強化する為に、悪魔を降ろすことを提案してきました」


 わたしはベンチに座りながら、水遊びをするマティアスと白猫とを眺めた。

 白猫が噴水の水にしっぽを垂らす。

 いやいや、そこに魚はいない。 


「だからアルを召喚したのね?」

「ええ。要は悪魔の書に悪魔が入っていればいいわけです。なら、悪魔王ヴァル=アールに入ってもらうのが一番じゃないですか。元々彼の本をコピーしたわけだし」

「でも失敗した」

「そうです。そこでヴェルナーは次なる計画――人造悪魔製造計画を提案してきました」


 なるほど、そういうことだったか……。

 この感じだと、ヴェルナーさんは完全に悪魔の書の言いなりになってたっぽいなぁ。


 わたしは軽くため息をつきながらブランコに移動した。

 揺れるブランコを見た白猫が、目を輝かせてブランコに飛び乗った。

 それを見ていたマティアスも、遅れまいとブランコに座る。


「僕にはひと目で、ヴェルナーが悪魔の書に操られていることが分かりました。悪魔の書は研究一辺倒な僕を早々に身限り、彼を次の宿主やどぬしにと狙いを定めたのでしょう。でも、所有権を移すには僕が死ぬ必要がある。僕は書を出し抜く方法を考えつつ、彼からの指示通りエィヴィス王国に潜り込みました」

「利用されたエィヴィスも災難だったわね。で? 悪魔の書はヴェルナーさんに何をさせたいんだと思う?」


 深刻そうな表情でブランコに座る人間二人と対照的に、右端に座る白猫が実に楽しそうにブランコを漕いでいる。


「そりゃ決まっています。頼りにならない僕の代わりにあなたの相手をさせたいんですよ」

「でしょうねぇ……」

「あなたを迎え打つためには人造悪魔は必須です。それには多くの人の魂が必要だ。王子という立場の彼であれば、大量殺戮たいりょうさつりく容易たやすいと思ったんでしょう」


 幻想空間維持の時間切れが迫りつつあることを感じ取ったわたしは、ブランコから降りた。


「あなたと彼はずっと繋がっていた。だから彼は、わたしがヒューゲル家を訪れようとするドンピシャのタイミングであそこに現れたのね? 空中庭園での戦闘もそう。その目的は追手たるわたしの実力を見る為だったと」

「その通りです。っと、そろそろ時間ですか。では……」


 マティアスはブランコから降りると、時の止まったヴェルナーに向かって叫んだ。


「僕はお前の所有権を放棄する! あとは好きにするがいい!」


 それだけ言って、マティアスはその場で仰向けになって死んだふりをした。

 マティアスの宣言を受け入れたのか、悪魔の書が薄っすらと光る。


 ガッシャアァァァァン!!


 その途端、ガラスが割れるような派手な音を立てて世界が砕け散った。

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