僕は現在、校長室に居る。
「よく来てくれたよ、
「なんというか、不思議な感覚ですね。なんかこう、誰もいない時間帯を一人で歩くというのは罪悪感というか、どこかむず痒かったです」
目の前に座るのは学長こと
しっかりと切り揃えられ毛先がストンと落ちるボブヘアーは、陽の光を反射するほど艶のある黒髪。髪のケアをしっかりと行っているのだろう、男の僕はワックス程度しか知らないため、どれほどの労力が掛かっているのかは計り知れないのだが。
細く上縁のみの眼鏡はキリッとした印象を抱く。釣り目に若干低い声とクイッと眼鏡を持ち上げる仕草は、クールビューティーな大人の女性という位置付けになるのだろう。
部屋の角にあるアロマディフューザーから香るものなのか、学長からなのか。薔薇の甘ったるい匂いは、平静を崩し、脳が錯覚を起こしてしまいそうになる。
「そういえば、妹達は先ほど短い挨拶を交わした後、副学長が別室にて対応している。キミとは違って、ちょこちょこ動く様はとても可愛かったよ」
二枚の書類に目を通しながら、
「冗談は辞めてください。僕にあんな可愛い真似はできませんよ。もしも強制というのならば、これぐらいのことならできますよ」
僕はどこかの広告用ポスターで観たことのある、両手を顔の前に目を潤わせ上目遣いの媚びるポーズをした。
「ほう? それは私のペットにでもなりたいということかね?」
「いいえすみません、冗談です」
「堅物そうなのに、バラエティな一面も兼ね備えているのだな」
「そんなことはありませんよ。僕はいつだって真面目です」
学長の悪戯に笑みを浮かべる様は、本当にお持ち帰りされそうな雰囲気を感じ、スッと元に戻り澄ました顔をする。
もしかしたら、不自由のない紐ライフという将来が約束された生活というのも若干ありなのではないかと可能性を感じる。でも、残念ながら僕に熟女好きという趣味はない。
だがしかし、もしかしたら新たな扉が開かれてしまうのでは? いや、冷静さを欠いてはいけない。これはきっとこの甘ったるい香りのせいだ。
そんな客がいないコントを続けていると、既に十分程度の時が流れてしまっていた。
ただ時間を浪費していたようにしかみえないが、そうではならしい。
後方、入り口戸から規則正しいノックが三回。
「お、来たようだな。いいぞ、入ってくれ」
扉が開かれ、一人の女生徒が入室。
「失礼します。園辺学園長、ご用件というのは……? あ、お話し中に大変申し訳ございません。また後ほど――」
「いや、構わない。用件というのはそこに居る少年のことだ」
僕は綺麗な姿勢で一礼を終えた女生徒と目が合う。
彼女の第一印象は、大和撫子。
定番の挨拶ではあるが、礼儀正しく落ち着いた口調はどことなく年上の雰囲気を醸し出している。
腰まで伸びた黒髪は学園長に負けず劣らずの艶具合。黒い髪だというのに陽の光が反射して目を細めてしまいそうだ。まるで物語に出てくるヒロインのような、華奢で無駄がない体系。男の身としてはどうしても、お節介ながらもう少し食べた方が良いのではと心配してしまう。
「こちらの方ですか?」
「ああそうだ。たぶん初めて見る顔だろうが、同じ制服を着ているだろう? 今日からこの学校に転入してきたんだ」
「なるほど、そういうことですか。校内の案内ということですね」
「さすがは
「わかりました」
「そうそう、そいつの名前は
そんなの当たり前じゃないか。
強制的に依頼されているからといって、時間を割いてまで校内の案内役をしてくれる恩人に、自己紹介をしないほど僕だって礼儀知らずではない。
「これからクラスメイトになるのだから」
部屋を出た僕達は歩き出す。
第一印象で抱いていたものがあの一言によって壊れた。
他人にとってはかなりどうでもいいことかもしれないが、僕の中では淡い期待というものが芽吹いていたのだ。
ふと思う。
いけない。あの部屋にたった少しの間だけ居たせいで、まるで魔法に掛けられてしまったかのような、新たな性癖でもぶちこまれたかのようだ。
「改めまして、私は
「僕は瓶戸天空だ。こんな頼りがいのある人が同じクラスだなんて光栄だよ」
「ふふっ、まだ出会ったばかりなのに可笑しなことを言うんだね」
「ごめん、クラス委員長という役柄から勝手な憶測で話しをしてしまった」
「たしかにね。私が逆だったら同じことを思ってたかも。まあでも、みんなの憧れであると同時に苦労の絶えないものだよ。クラス委員長って」
そう彼女は目線を遠くに送る。
「ささっ、まずはどこからがいいかなぁ~。ご希望とかは?」
「あの様子だと急なお願いだったのに、気を遣わせてしまってごめん」
「ん? そんなこと全然気にしなくて大丈夫だよ。こればっかりは転校生の特権なんだし、どーんと私にお任せあれっ」
「ありがとう。……ここで希望の場所を言えれば気が利くんだろうけど、残念ながら思い浮かばない。美勝さんの回りやすい順序に従うよ」
「まあそうだよね。学校によって構造がまるで違うだろうし仕方ないよ。あっ、どうせこれからクラスメイトになるんだし、森夏って呼んじゃっていいよ」
「たしかに。なら、僕のことも天空って呼んでくれて構わない」
「あ~、ごめんね。身勝手だってわかってはいるんだけど、私からは敬称を外すのは恥ずかしいっていうか、むず痒いっていうか」
「了解、誰にだってそういうのはあるからそればかりは仕方がない」
「理解してくれてありがとうね」
歩く廊下は視界が届く端から端まで、生徒はたった一人の姿もない。ここら辺一帯は生徒の生活範囲外なのであろう。
窓の数々から射す陽の光は心地良く、スポットを見つければ絶好の昼寝日和。校舎へ入る前に吸い込んだ空気も澄んでいて、車が行き交うような雑音も聞こえない。学校の立地が良いということがわかった。
それに、こうして歩いていると感心する。窓の縁、床、天井――と、埃や蜘蛛の巣などの汚れが何一つ見つからない。破損個所も見当たらないことから、清掃や整備の徹底具合も伺えるからだ。
「この学校、校門からでも薄々わかったと思うんだけどかなり広いからね。今からじゃ全部回ることはできないから。まずは生活範囲だけの案内にして、また時間を設けよう。それに、一回じゃ覚えられないと思うし」
「ありがとう、助かるよ」
「困った時はお互い様だよ。もしも、私が助けて欲しそうにしてたらお願いね」
「もちろん。困ったときはお互い様だからね、その時はしっかりとお任せあれ」
「ふふっ、その時はどーんと胸をお借りしまーす」
桜が散り終えた五月の一週目。
まだまだ長袖を手放すことはできないが、時折吹く風は生暖かく心地良い。悲しいが、この季節は短く、すぐに梅雨に入ってしまう。
それでも、菖蒲の節句があるこの月は何かと忙しいが、僕はこの季節が好きだ。
「最初はどこがいいかな~。自販機の場所は必須だし、食堂なんかもあるんだよ。それにそれに――」
「どれも魅力的なんだけど、この後もあることだし時間内で回れるようにだけお願いしようかな」
「あっ、確かにそうだね。合理的に考えて、職員室と昇降口は絶対に回らないとだね。よし、出発進行~」
森夏は拳を突き上げ、意気揚々と歩き始める。
彼女と会話を重ねるにつれて、第一印象がどんどん変わっていく。新しい一面が見られたというのが正しいのだろうが。
当然、悪い方向に傾いたわけではない。
少し無邪気に振舞う様は年相応の少女で、どちらかというと魅かれてまっている。
――一言、可愛い。
『はっはっは。なんだ、
前方から、背後から、左右から、頭上から、足下から少女の声がする。
そんな声は僕にしか聞こえていない。
悪戯な言葉を掛けてくる彼女は、空論上の人物でも中二病な何かでも頭にチップの類を埋め込まれているわけでもなく。
そんな彼女に対して僕も同じく声を発さずに会話ができる。
『なんだなんだ、僕が目の前を歩く清楚系超絶美少女に鼻の下を伸ばしているからといって妬いているのか。可愛いかよ』
『ぬかすではない。誰があんな小娘相手に嫉妬などするものか。主様やい、少しばかり自分の顔を鏡でじっくりと見てみるとよい』
『何を言っているんだ。僕は最初から自分がイケメンの部類に含まれていないって自認してるさ。僕がイケメンなのは心なんだぜ』
『…………』
『今こそツッコミどころだと思うのだけれど。何も返されないと恥ずかしくて仕方がない。その沈黙はあまりにもダメージが大きすぎる』
『心も覗ける鏡があるといいのにのぉ』
『ツッコミとしては辛辣すぎるものをどうもありがとう。まあいいさ、少しばかり静かにしていてくれ。僕は森夏という美少女との戯れを愉しみたいんだから』
返事はなかった。自分でそう言ったのだから当たり前なのだが。
森夏は頼られるのが好きなのか、得意気に、しかしわかりやすく実に色々な説明をしてくれた。
楽しそうに話す彼女を見ていると、自然とこちらの表情も明るくなる。
今日から始まる高校生活に対する期待値はかなり上がっていく。
そう、隠す必要はない。僕はみんなが通るような普通の学校生活は初めてなのだから。