翌日から聖女としての生活が始まった。
聖女の朝は早い。エマが部屋に持ってきたパンとスープだけの簡単な朝食を食べた後、早速聖女の服に着替える。カレンはもう使用人ではないので、髪の毛を一つにまとめる必要がなくなったが、そのまま下ろしているのはこの世界ではちょっとだらしないというか、何のオシャレもしていない印象を与えるようだ。エマにハーフアップの髪型にしてもらい、カレンは教会へ向かう。
部屋を出ると既に若い騎士が一人待っていて、カレンを教会へ送り届ける。これから毎日、カレンが外に出る時は誰か騎士が護衛につく。教会に行くだけなのに大げさではないかとカレンは思うが、これが騎士団の館で暮らす条件の一つなので仕方がない。
教会の中に入ると、司祭の女に引き継がれる。最初に連れていかれたのは礼拝堂だ。ここへ入るのはノクティアの魔物討伐の時以来だ。聖女は毎朝、礼拝堂で祈りを捧げるのだという。
司祭に倣ってカレンも祭壇の前に立ち、胸に手を当てて祈る。次に「聖なる青い炎」に両手をかざし、青い炎から力をもらう儀式を行う。
カレンが手を青い炎にかざした時、青い炎はまるで生き物のように動いてカレンの手の下に集まって来た。慌てて手をパッと引くと、青い炎は元通りの静かな炎に戻る。自分が持つ炎と共鳴しているのだろうかと、カレンは不思議に思った。
終わって礼拝堂を出ようとすると、他の聖女が入ってくるのとすれ違った。カレンの顔が見慣れないからか、不思議そうにカレンの顔を見ながら聖女は祭壇へと向かっていった。
礼拝堂を出た後、司祭は大階段を上って二階にカレンを連れて行き、小さな部屋に彼女を通した。ここからは聖女としての心得を学ぶ。ブラッドからもらった「聖女の本」で基本的なことは知っているが、ここでは更に詳しいことを学ぶ。力の使い方、傷の癒し方、大地の穢れの祓い方……学ぶことは多く、これからしばらくここに通うことになりそうだ。
教会での勉強会は昼には終わるので、後は騎士団の館に戻って自由に過ごす。使用人の仕事は当然ながらさせてもらえないので、カレンはとても退屈である。
「暇だなー。筋トレでもしようかな……あ、そうだ!」
カレンは以前ブラッドから「屋根裏部屋を自由に使っていい」と言われていたことを思い出した。あの部屋はしばらく使われてないようで、埃だらけなので掃除が必要だった。
エマを探して調理場を覗くと、エマは調理場でなにやらつまみ食いをしていた。
「エマ、ちょっといい?」
エマは慌てて口に入れたものを飲み込み、カレンに駆け寄って来た。
「カレン! どうしたの?」
「うん、ちょっと掃除用具貸してくれないかなと思って……」
エマは怪訝な顔をした。
「掃除? 掃除なら私がやるわよ」
「ううん、私が自分でやりたいんだよ。運動不足だから体を動かしたいんだよね」
「そう言われても、聖女様に掃除させるなんて……」
「大丈夫だって、ばれないようにこっそりやるから」
二人が押し問答しているところへ「エマ!」と血相を変えて一人の男が裏口から調理場に飛び込んできた。
「どうしたの?」
「早く来てくれ、レオンが火傷したんだ!」
エマはその言葉にさっと顔色を変え、勢いよく外に飛び出していった。
「あ、待って!」
カレンは慌ててエマの後を追った。
♢♢♢
レオンは鍛冶職人で、エマの恋人である。エマは驚くほどのスピードで走り、カレンを置いて行ってしまった。カレンがようやく鍛冶場に到着した時、その場の空気にカレンは息を飲む。
「早く水を持ってきて!」
エマはレオンに寄り添いながら、周囲に怒鳴っている。他の職人は大慌てで走り回ったり、心配そうにレオンを見守ったりしていた。
「治癒師はまだなの?」
エマは苛立った声で鍛冶場の入り口に目をやる。そこへ遅れてやってきたカレンと目が合った。
「カレン、ここに来ちゃ駄目!」
エマは厳しい表情でカレンに怒る。そう言われても、エマの恋人が怪我をしたのだから心配だ。カレンはエマの言葉を無視してレオンに近づく。
「レオン……」
レオンは膝をつき、右腕をだらりとさせていた。腕は真っ赤に爛れ、かなりひどい火傷を負っていることが分かる。
「治癒師は何やってんだよ、もう一度呼んで来いよ!」
「わ……分かった!」
男達が怒鳴り合い、一人の男が鍛冶場を飛び出していく。治癒師は聖女とは違い、薬で使用人の怪我や病気を治す仕事である。カレンが以前、猫のライリーに引っかかれた時に塗った薬も治癒師が作ったものだ。軽い怪我や病気程度ならば治癒師の治療で十分なのだが、それでは足りない時は町の教会にも聖女がいるので、そちらに運んで治療してもらう決まりになっている。
(それじゃ間に合わない。火傷は時間との勝負だ)
カレンは反射的に体が動いていた。鍛冶職人が腕を怪我するということは、仕事ができなくなることを意味する。
「カレン! 何をするの!?」
エマの怒鳴り声を無視し、カレンはレオンの腕を持った。レオンは痛みをこらえながら「カレン、駄目だ」と呟く。
「任せて」
カレンはレオンの腕に手をかざした。カレンの手のひらが青白く光り出し、その光はレオンの腕を包み込んだ。
「おお……!」
周囲のどよめく声も、カレンの耳には入らなかった。カレンは無我夢中だった。ただ、目の前の怪我人を治したいというその気持ちだけだった。
レオンの火傷の傷はみるみるなくなり、レオンの腕はすっかり元通りになった。
「凄い……こんな一瞬であんな火傷を治しちまった」
職人達はカレンを見ながらざわざわしている。
「カレン……あ、ありがとう」
レオンは元通りの腕を見つめながら、カレンに礼を言った。
「これくらい、何でもないよ」
カレンは治療が上手くいったことにホッと胸を撫で下ろした。だがエマはずっと厳しい顔をしていた。
「カレン、勝手にこんな治療をしては駄目よ」
「でも、この火傷は時間が経つと治らなくなるんだよ? 腕が上手く動かせなくなるかもしれない。すぐに治さないと……」
「あなたはアウリス教会の聖女様なの! あなたが治療してくれるのは嬉しいけど、私達にあんな高い治療費は出せないのよ」
「え?」
カレンはエマの思わぬ言葉に、頭を殴られたようなショックを受けた。
「気にするなよ、エマ。金ならなんとかなるからさ」
「でも……」
レオンはエマを気遣い、微笑んでいる。
「治療費ってどういうこと? ここで働いている人達から、教会はお金を取るの?」
「カレン、知らなかったの?」
エマは目を丸くした後、ため息をついた。
「騎士ではない者が、アウリス教会の聖女から治療を受ける為には、治療費として高額の寄付をしなければならないの。平民の私達に払えるものではないわ」
「そんな……じゃあ、大怪我をしたらどうするの? 今回みたいに……」
「その時は、町の教会に運んで向こうの聖女様に治してもらうのよ。カレンも知ってるでしょ?」
町の教会にいる聖女は、アウリス教会を結婚や出産などの理由で出た者が殆どで、年齢層が高い。子供、特に娘を生んだ聖女は次第にその力が衰えると言われている。町の教会の聖女達は、魔物討伐から退いた者達だ。アウリス教会を出た後も彼女達は町の教会で治療をしたり、町に魔物が入り込まないよう祈りを捧げたりと、聖女としての役割を続けている。
「でも、それじゃ間に合わないことも……」
「カレン、ここではそういう決まりなんだよ。アウリス教会の聖女様は俺達を治療しちゃいけないんだ」
レオンが優しい口調でカレンをなだめるように言った。
「じゃあ、ここだけの話にすればいいじゃない。みんなにも黙っててもらえば……皆さん、お願いできます?」
カレンがその場にいた職人達に声をかける。職人達はそれぞれ顔を見合わせ「……まあ、別にあちこち言いふらす気はねえけど……」「レオンを助けてくれたんだし、いいんじゃねえか?」などと言いあっている。
「ね? 今回だけ特別ってことで。レオンが元気になったんだから」
エマはぐっと唇を噛みしめた。
「……分かった。カレン、レオンを助けてくれて……ありがとう」
「気にしないで」
カレンはようやくホッとしたが、この世界のルールに反したことをしてしまったことに、一抹の不安を覚えていた。
その後はエマから掃除用具を借り、カレンはようやく屋根裏部屋の掃除に向かった。長年降り積もった埃の掃除は思ったよりやっかいだった。カレンは床の掃除だけなんとか終わらせ、残りは後日やることにした。