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第21話 出発前日

 ノクティアに出発するまでの数日間、カレンはなんとなくブラッドを避けるように暮らしていた。

 ブラッドの方も、カレンに話しかけてくることはなかった。用がなければブラッドから接触してくることはないので、会わずにすむのは幸いだった。屋根裏部屋での一件以降、カレンはブラッドと話していない。


 カレンはあの出来事を、ブラッドが自分を励ましたかったのだと思うことにした。この後一緒にノクティアに行くことになっているのだから、ブラッドのことを変に意識してぎくしゃくするのは避けたかった。




 いよいよノクティアに出発する前日、仕事中食糧庫に向かったカレンは、建物の前で猫のライリーが寝そべっているのを見つけた。

「こんにちは、ライリー」

 声をかけると、ライリーは面倒臭そうに顔を上げ、再び寝た。


(今なら触れるかも……)


 うずうずしながら、カレンはそーっとライリーに近づく。彼は気位が高いので、簡単には撫でさせてもらえない。


 今日のライリーは逃げなかった。カレンはそっと彼の額のあたりを撫でる。ライリーは寝たままでじっとしている。


(やった……!)


 そのまま撫でていると、エマがやってきた。

「あら? ようやくライリーを撫でることができたの? カレン」

「エマ。やっと撫でさせてくれたよ」

 カレンは嬉しそうにライリーを撫でる。だがカレンは少し調子に乗り過ぎた。お腹の辺りを撫でた時に急にライリーは機嫌を損ね、カレンに猫パンチをお見舞いしたのだ。


「わっ」

 素早い動きでカレンに攻撃をお見舞いした後、ライリーは逃げていった。

「カレン! 大丈夫!?」

 エマが慌てて駆け寄って来た。


「さすが猫騎士。目にも止まらぬ三連攻撃」

「冗談言ってる場合じゃないでしょ。血が出てるじゃない! 早く手当てしないと」

 エマはカレンの手の甲を見て悲鳴のような声を上げた。


「平気だよ、これくらい。すぐ治るよ」

 カレンは平然としていた。

「駄目よ、手当てしてあげるから一緒に来て」

 エマはカレンの手を引き、館の中へ戻る。使用人用の食堂には傷の手当てをする為に薬や包帯などが常備されていた。エマはカレンを椅子に座らせ、慣れた様子でカレンの傷の手当てをした。

 エマはカレンの手にベタベタな薬を塗り、包帯で手をぐるぐる巻きにする。

「……大げさじゃない?」

「しっかり手当てしないと、酷くなっちゃうかもしれないでしょ」

「ごめんね、手当てしてくれてありがとう」

 カレンは綺麗に巻かれた包帯を見ながら、エマにお礼を言った。




 今日は水仕事ができないので、カレンは館中の蝋燭を交換する仕事のお手伝いをしていた。蝋燭交換は専門の蝋燭職人がやっているのだが、蝋燭職人は年老いた男で、よく腰が痛いと言うので時々カレンが手伝っている。


 廊下の壁掛けランプを外し、床に並べていた所にエリック王子が笑みを浮かべながら近寄って来た。

「カレン、今日もよく働くね」

「こんにちは、エリック様」

 慌ててカレンはエリックに挨拶をする。


「もうすぐノクティアに出発だね。初めて外に出るから、不安でしょ?」

 エリックは笑みを浮かべたまま、カレンの顔を覗き込むように見た。

「不安ですけど、エマも一緒ですから」

「僕も一緒だから、忘れないでね」

「……そうですね」

 カレンは愛想笑いを返した。


「あれ? カレン、怪我をしたの?」

 エリックはカレンの手の甲に巻かれた包帯に気づいた。

「あ、これですか? ライリーにやられたんです。大したことないんですけど、エマが手当てしてくれて」

「大丈夫? 僕が聖女に頼んで治してもらおうか」

 心配そうな顔をしているエリックに、カレンは笑顔で首を振った。

「かすり傷ですよ。このくらいの傷で聖女様に頼むわけには……」


「でもこんなに綺麗な手なのに、傷が残ったら大変だよ?」

 エリックはカレンの包帯を巻いた手を取った。

「本当に大丈夫ですよ。私、傷の治りが早い方なんで」

 カレンは笑いながら、さりげなくエリックから手をそっと引く。

「そう……? ならいいけど……あ、そう言えばカレン、アルドから聞いたよ。この前ブラッドに泥水を飲ませたんだってね」


(クソガキィィィィ)


「泥水じゃありません。大麦コーヒーです」

「大麦こーひー? 何? それ」

 エリックは首を傾げた。

「コーヒーは、本当はコーヒー豆を焙煎して作るんですけどここにはないので、代用で大麦を使ったんです。おかしな飲み物じゃないですよ」

「コーヒーね。真っ黒な泥水みたいな……うん?」

 エリックは何かを思い出しているのか、天井を見つめている。


「あ、僕コーヒーを飲んだことがあるかもしれない」

「え! コーヒーを!? どこでですか!? いつ!?」

 カレンは驚いてエリックに詰め寄った。

「ええと……いつだったかな……一年くらい前だったかな……? 王都に帰った時、王城で飲んだんだ」

「どんな味でした? どういう飲み方でした? 色は? 黒っぽかったですか?」

 エリックは困ったような顔で、うーんと唸った。

「黒だったのは覚えてるよ。砂糖をたっぷり入れてたかな……僕はあまり好みの味じゃなくて殆ど残したんだ。客人がコーヒー好きだっていうから、用意したんだよね」


「コーヒー、あったんだ……!」

 カレンは目を輝かせた。ここアウリス領は王都から離れた場所にある為、コーヒーがあまり知られていないだけでコーヒーそのものは存在しているのだ。恐らく高価なものなので、庶民が気軽に飲める物ではないのだろう。


 エリックはカレンの顔をニヤニヤしながら見つめていた。

「僕と結婚すれば、コーヒーも好きなだけ飲めるかもね」

 カレンはため息をつきながらエリックを睨む。

「何言ってるんですか。どこから来たかも分からない女と王子様が結婚なんかできるわけないでしょ? 私にだってそれくらい分かります」

「確かに、今の君とは難しいかもしれないね。でも、もしも君が聖女だったらどうかな?」

 エリックは笑いながら、カレンの肩を軽く叩いて去って行った。




 その日の仕事を終えたカレンは、風呂に入る時に手の甲に巻かれた包帯を外した。

「あれ?」

 カレンは手の甲をじっと見る。昼間ライリーにつけられた傷痕が、殆ど分からないほど回復していたのだ。


「凄い、こっちの世界の薬ってよく効くんだな……」

 手の甲を見つめながら、カレンは感心したように呟いた。

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