無事に新月の夜が明けた。
今回の討伐は順調だったようで、騎士団と聖女の一行は日が落ちる前に戻って来た。
出発と同じく、使用人と騎士が総出で彼らの帰還を出迎える。無事に魔物討伐を終えた彼らの表情は明るい。出迎える者達も皆笑顔を浮かべている。
騎士団はそのまま教会に入っていく。彼らはまず教会の聖女から、魔物の穢れを祓ってもらう。魔物と戦った騎士達は多少なりとも「穢れ」が付く。本人達は勿論、彼らが使用した剣も同様なので、剣を手入れする前に、まず教会で聖女に穢れを祓ってもらうのだ。
騎士団が館に帰って来た後が、使用人達にとっては本番と言える。まずは彼らの為に風呂を用意し、身体を綺麗にしてもらう。
そして調理場では、彼らの為に食事が用意される。討伐が終わった後は宴になるので、多くのご馳走と沢山の酒が食卓に並ぶ。
当然ながら調理場は戦争である。カレンも下働きとして、沢山の野菜の皮をむいたり切ったり、洗い物に明け暮れたりと目の回る忙しさだった。
それでも使用人達の表情は皆明るい。魔物を討伐し、アウリスを守った騎士団を労うことは使用人にとって誇らしいことだからだ。
宴も終わり、カレンはエマと一緒に食堂の後片づけをしていた。そこへブラッドの従騎士アルドがやって来た。
「カレンさん、ブラッド様が呼んでいます。一緒に来てください」
「……今からですか?」
「はい、お願いします」
怪訝な顔でカレンはアルドに着いていく。着いた先は副団長室だった。アルドは扉をノックしてから中に入る。カレンはアルドの後に続き、おずおずと中に入った。
部屋の中はとても広い。中央に大きな机があり、手前にソファとテーブルがある。壁には本棚が並び、ぎっしりと本が並んでいるのが見えた。
ブラッドは大きな机で、何やら書き物をしていた。アルドとカレンが部屋に入ると、書き物をやめて顔を上げ「来たか」と言った。
「カレンさんをお連れしました」
「ありがとう、アルド。お茶を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
アルドはすぐに部屋を出ていき、部屋の中はカレンとブラッドだけになった。
「そこに座ってくれ」
ブラッドは、机の前に置かれたソファに座るよう言った。カレンは言われた通りに腰かける。するとブラッドがカレンの向かいにどっかりと腰を下ろした。
(出発前に言われた『宿題』のことかな)
ブラッドに「聖女の本」を全て読むように言われている。カレンは時間を見つけては必死に本を読んでいて、なんとか全て読み終えた所である。
ブラッドはソファに腰かけると足を組み、顎に手を当てじっと無言のままカレンを見ている。
(何で何も喋んないの?)
じっと見られることに居心地の悪くなったカレンは、せめて世間話でもと口を開いた。
「あの……魔物討伐、お疲れさまでした」
「ん? ……ああ、ありがとう」
急に話しかけられたことに驚いたのか、ブラッドは顎から手を離した。
(……ひょっとしてこの人、ぼーっとしてた?)
魔物討伐で疲れて帰って来た所に、宴があったのだ。ブラッドにとっては休む間もない。疲れてぼんやりしていたのだろうか。
「すまない、少し酒が回ったようだ」
(やっぱりぼーっとしてた!)
「いえ、早く休んだ方がいいですよ」
「気にするな。今日の酒は美味くてな、少し飲み過ぎた」
「へえ、ここのお酒は飲んだことがないんですよね」
「それなら、後でお前に酒を贈ろう。アウリスのワインは王都産にも負けない味なんだ」
「いいんですか? あ……ありがとうございます」
カレンは特にワインを飲みたいとも言ってないが、くれると言うので有難くお礼を言っておく。
少し話して眠気が覚めたのか、ブラッドは組んでいた脚を下ろして身を乗り出した。
「お前に渡した本だが、中を見たか?」
「? はい、読みました」
「読んだ?」
何故かブラッドはキョトンとしている。
「はい、全部読みました」
「全部読んだのか? あれを!?」
ブラッドは驚いたように叫んだ。
「……あの、ブラッド様が全部読むようにって、アルド様にそう言われたんですけど……」
ブラッドは少しの間固まった後、ソファの背もたれに背中を預けた。
「……アルドの奴め。あいつに試されたな」
「試された?」
今度はカレンがポカンとする。
「アルドはお前を試したんだ。お前がどういう人間なのか、確かめたんだろうな。俺から本を渡されてきちんと読む女か、読まない女か」
(あのクソガキィィィィ!!)
「……つまり、私はアルド様にどんな人間か疑われてた、ってことですか」
ムッとしているカレンとは対照的に、ブラッドは笑いをこらえられず、吹き出した。
「ハハ……いや、すまない。あいつは俺に近づく連中を警戒する癖があるんだ。初対面の奴には試すようなことを言ったりすることが……ハハハ」
(この人、こんなに笑うんだ)
カレンはブラッドの笑顔を不思議そうに見ていた。ブラッドは何故か楽しそうだ。何がツボに嵌まったのか、ずっと笑っている。無邪気に笑っている顔は、ごく普通の青年のようだ。
そこへアルドがお茶を持って戻って来た。
「お待たせしました」
「アルド、まずはカレンに謝れ。彼女に本を全て読めと言ったな?」
ブラッドは笑いながらアルドに言う。
「そうですよ、酷いじゃないですか。あの本を全部読むの大変だったんですよ?」
「……申し訳ありません。全て読むことがカレンさんの為になると思いましたので、そう言いました」
アルドはすました顔で答える。
(顔が全然謝ってないな!)
「アルド。彼女は教会から保護するよう頼まれたんだ。試すようなことをするな」
「……はい」
ブラッドがピシャリと言うと、さすがのアルドもシュンとなった。
アルドが淹れたお茶は普通の紅茶とは少し違っていた。ブラッド曰く、カモミールやセージなどのハーブを加えたもので、疲れに効くお茶なのだと言う。
「すまなかったな、カレン。アルドには後で俺がきちんと話しておく。あの本はこの土地の聖女について書かれてある。聖女がどういう存在なのか、外から来たお前に理解して欲しくて渡したんだ。まさかもう全部読むとは思わなかったが……」
「読んだことは読んだんですけど、もう半分くらい忘れました」
ブラッドはカレンをじっと見つめると、再び大きな声で笑った。
「急いで読んだらそうなるな。その本はお前にあげるよ。時間がある時に何度も読み直すことだな」
「ありがとうございます、ブラッド様」
二人の話を聞いていたアルドは、驚いた顔でブラッドに話しかけた。
「その本を差し上げてよろしいのですか?」
「構わないだろう? この本に書いてある知識は当然、ここにいる騎士ならば全員知っていることだからな」
「……確かに、そうですが……」
そう言いながら、ちらりとアルドはカレンを見る。どうやらこの本は貴重なもののようだ。本を枕にしてうたた寝をしたことは黙っておこうとカレンは思った。
「セリーナ様が一度お前と会いたいと言っている。その前に聖女について学んでもらおうと思ったんだが、本を読んだのなら平気そうだな」
「平気かどうか分からないですけど……」
「聖女というのがどんな存在か、それだけ分かっていればいい。セリーナ様は優しい方だ、怯える必要はないよ」
セリーナのことを話すブラッドの表情は優しかった。
話は終わり、カレンは副団長室を出た。
(……怖そうに見えたけど、結構優しい人なんだな……)
笑みを浮かべるブラッドの顔を思い出したカレンは、慌てて首をぶんぶん振った。
(……いや、キュンとしたら駄目駄目駄目! あの人はセリーナ様に恋してるんだから!)
ブラッドの顔を心から消し去るように、カレンは早足でその場を離れた。