翌日になり、いよいよ今夜は「新月の夜」である。今夜は使用人も全員、一晩中起きていなければならないという。
館に残った騎士達の顔にも緊張が見える。館の警備をする者と教会側の警備をする者に別れ、今夜はずっと彼らも起きているのだ。
夕食が終わった後は、少し暇になる。調理場では騎士の為に夜食を用意したりするが、仕込みは既に終わっている。やることもないので後はひたすら時間が過ぎるのを待つだけだ。騎士団の館も、教会も、今夜は一晩中明かりを絶やさない。庭はもちろん、館の中も使用人棟も全て明かりをつけている。
カレンは使用人棟に戻り、談話室でブラッドから読むように言われた「聖女の本」を読んでいた。
本にはこの土地のことも書いてあった。ここは「アウリス領」という所のようで、教会と騎士団の館だけでなく、なんと市街地全体が塀で囲われているらしい。そうして魔物から町を守り、町の中は聖女の祈りの力で満たされているのだという。
魔物は町の近くに現れることが多い。奴らの狙いは聖女だ。祈りの力で魔物を退ける聖女は、魔物にとっては目障りな存在だ。その為教会を塀で囲い、聖女を騎士団が守っている。
しばらく本を読み進めていると、何て書いてあるのか読めない箇所があったので、カレンは管理人のマリーを探した。アルドに「読めなければマリーに聞け」と言われていたからだ。
マリーはキッチンにいて、他の使用人と世間話をしていた。
「すみません、マリーさん。少し聞きたいことがあるんですが……」
恐る恐る声をかけると、マリーは笑顔で「あら、カレン。ご用は何かしら?」と言いながらカレンに近寄って来た。
「この本なんですけど、ちょっと読めない所があって」
「あら! 凄く分厚い本ね。どれどれ……聖女の本ね?」
マリーはカレンが持っている本に興味津々だ。早速近くにある椅子に座り、テーブルの上に本を広げる。
「ここなんですけど……」
「どれ……ええと、これは『聖女の矜持』と読むのよ」
「聖女の矜持? どういう意味ですか?」
カレンは首を傾げる。
「そうね……聖女は誇りを持ち、自分に課せられた使命を果たさなければならない、という意味かしら。聖女は特別な力を持つけれど、その力はこの王国を守る為に使わなければならないの」
マリーは本に目を落としながら話した。
「なるほど……」
カレンも本を見つめながら呟く。
「だからこそ尊い人達なのよ、聖女様は。私達の為に、日々力を尽くしてくださるの。あなたも感謝を忘れないようにね」
「はい、マリーさん」
「あら、マリーさん! こんばんは」
甲高い女の声がして顔を上げると、そこには以前カレンを無視した隣の部屋の女が立っていた。
「こんばんは、アメリア。仕事は終わったの?」
「ええ。針子の仕事は夜は何もないもの。少しお腹がすいたから、何か食べるものがないかと思って来たの」
「沢山用意してあるわよ。今夜は長くなるものね」
「少し館に持って行ってもいいかしら? 騎士様に差し入れをしようかと思って」
「ええ、構わないわよ。でもこちらの食事より、館で用意したものの方がいいんじゃないかしら?」
「さっき調理場に寄ったんだけど、私が持って行くのは駄目だって言うのよ……」
(凄いなこの女、私がまるで見えていないかのようにずっと話してる!)
アメリアと言うこの女、挨拶どころか一度もカレンを見ていない。ずっと笑顔でマリーとだけ話をしている。
「じゃあ少しもらっていくわね」
「ええ、どうぞ」
アメリアは笑顔を浮かべたまま、最後までカレンを無視した。
♢♢♢
「あそこまで感じ悪いと、いっそすがすがしいわ! あのアメリアとか言う女!」
調理場の隣にある食堂に戻ったカレンは、エマに怒りをぶつけていた。
「災難だったわね、カレン」
「確か針子だとか言ってたけど……あんな女が隣の部屋だなんて」
「アメリアは最近ここに来た針子ね。針子は騎士の服を作ったり繕ったりする職人だから、他の使用人よりも待遇がいいのよね。騎士とも関係が近いし……針子の中には、彼らと仲がいいからって私達のことを見下す人もいるのよ。まああまり気にしない方がいいわよ。殆どはいい針子だから」
エマは苦笑いしながらカレンを慰めた。
(だからあの女は個室なのか。ひょっとして、ただの下働きの私が個室をもらっているのが気に入らないのかな?)
「……そうだね、気にしないようにする。ちょっと本でも読んで頭を冷やすよ」
「そうした方がいいわ」
カレンはため息をつきながら、テーブルに座って「聖女の本」を開いた。
その後ずっと本を真剣な顔で読んでいたカレンは、突然ガタガタと地面が揺れ始めたことに驚いて顔を上げた。
「何これ……? 地震?」
それほど大きい揺れではなさそうだが、それは少しの間続いた。
エマは厳しい表情で、窓を見つめた。
「始まったわね。魔物がやってくる時、地面が割れて大地が揺れるのよ」
「これが……そうなの?」
カレンはオロオロした顔で、落ち着きなく窓の外を見たりしている。
「大丈夫よ、カレン。私達には騎士団の無事を祈ることしかできないわ」
普段は明るく朗らかな彼女が、真剣な表情でカレンに言う。穏やかな暮らしに見えても、彼らは魔物の脅威と日々向き合っているのだ。
(みんな、無事に帰れますように)
祈りのやり方など分からなかったが、カレンは心の中で祈るのだった。