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タイミングというものは


 徐々にスピードを増してきている重量級の一撃を、上半身を捻って躱し、反動を利用してカウンターを狙う。が、拳にピンポイントで拳を返され、すかさず宙返りから距離を取った。

 追撃はなく、ただ楽しげな目が、隙なくこちらを狙っていた。


(意外に動けるんだ、アキラって)


 ジンジンと痺れが伝わる手を急いで振りながらも、リエリーは心のどこかで楽しんでいる自分自身に少し驚いていた。

 思えば普段、マロカをスパーリングパートナーにしているために、他の威療士レンジャーとこうして対戦するのは、初めてだった。救命活動の現場で一時的に共闘した経験はあるが、純粋な力比べをしたことはない。当然だが、命がけの救命現場とリング上では、緊張感がまるで違う。

 退屈するに違いないという予想を裏切り、意外にも、躍っている自分の胸があって、リエリーは新鮮な驚きを得ていた。

 悔しいが、これもアキラのおかげには違いなかった。てっきり、文句を言うために人の目がない場所へ誘き出し、痛め付けるのが目的だと思っていた。

 それならそれで、やりようというものがあり、むしろ本気を出せる分、少し期待する自分もいた。

 が、蓋を開けてみれば、こうして一対一、リング上で対峙している。直感が、アキラには別の目的があると警告を発していたが、今のリエリーにはどうでもいいことだった。

 もっとこうしていたい。

 力加減をせず、本気で闘ってみたい。

 そんなワクワクするような想いが、胸に渦巻いていた。


「キレイごと言ってんじゃねぇ! てめぇだって〈ドレスコード〉がどんだけシンドイか、わかんだろ! 簡単に言うんじゃねぇよ」

「〈ドレスコード〉が辛いんならさ、レンジャーなんて辞めれば?」

「てめぇえ、言わせてれば……っ!」


 どうやら、この一言は本当にアキラの逆鱗へ触れたらしく、一瞬にして表情が変わっていた。

 鍛錬のそれでなく、目の奥に『標的を仕留める』という確かな殺意を滲ませた、無表情。

 それは、幾多の涙幽者と対峙し、死線をくぐり抜けてきた猛者だけが持つ、本気の目だった。


(来た)


 一秒が、無限に等しく引き延ばされ、待ち望んでいた対戦相手の本気の一撃が繰り出される。

 さらに五感を研ぎ澄ましたからこそ、聞こえたのかもしれない。――唐突に耳朶を打ったその声は、ザラリとした気色悪さをカタチにしたような声だった。


 ――忌々しい“半黒”の小娘め。


「――ッ!!」


 それは、もっとも強い侮蔑の言葉だった。

 辞書に載っているような蔑称でもなければ、誰が使い始めたかも知れない俗語スラングでもない。

 ただ一人、特定の相手を指し示す、陰口で言うような蔑みの単語。

 が、リエリーにとってその単語は、理性を吹き飛ばす一言トリガーには充分すぎる語句だった。

 視界に、これまでとは比にならない鋭さを伴った、アキラの拳が映る。擦っただけでもリエリーの体を軽々、舞い上げるだろう。

 その拳さえ、今のリエリーには緩慢な一撃にしか見えなかった。

 事実、加速した視界を、渾身の一撃を躱され、ポカンと口が開くアキラの顔が通り過ぎていく。

 リエリーの焦点は、ただの一点しか捉えていない。

 あの言葉が発せられた張本人、リングの周囲に出来た人だかりの、その中に溶け込んでいるように見せているつもりなのだろう、面長な色白の相貌。

 その体躯が、蒼の制服ユニフォームを纏っていることに、リエリーの激情はさらにギアが跳ね上がる。

 そうして、全く勘付いてもいないその顔めがけ、リエリーは、一切の加減なしに全力の個有能力ユニーカを纏わせた拳を叩きつける。

 涙幽者相手にさえ、繰り出したことのない、文字通り、の一撃。

 相手がどうなろうと、知ったことではなかった。

 今はただ、あの言葉を発した張本人を、完全に消し去ってしまいたかった。


「――っと」


 この場にいる者はおろか、この街カシーゴ・シティ威療士レンジャーにも見切れる相手はいない自信があった、圧縮した風による疾風の一撃。

 が、と示すように、紫電が視界の端を駆けると、茶黒い肉球が、易々とその拳を受け止めていた。


「え――」

「速いが、ちと動線が真っ直ぐすぎじゃないか?」


 呆けて上げた視線の先、そこに片眉を困ったように吊り上げた、養父ちちの姿があった。

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