「……ん?」
ヘリックス・メディカルセンター、その屋上駐機場へ出る自動ドアをくぐるなり、感情を嗅ぎ分けられる己の特殊な嗅覚が、嗅ぎなれた感情の揺らぎを捉えた。
まさかな、と思う反面、決してあり得なくもない推測がマロカの思考をよぎり、つい、足が止まっていた。
「どうしたの、アナタ?」
「いや、少し“鼻がムズムズ”してだな」
「エリーちゃんね」
傍らを浮遊していたルヴリエイトが目敏くそれに勘付き、
(かなわんなあ)
元はと言えば、足を止めた自分が原因なのだが、長く連れ添っているこの
今も、マロカとしてはリエリー本人に任せればいいというスタンスでいたのだが、それもお見通しらしく、相棒がジト目の絵文字を向けてきていた。
「あの子ももう16だ、ルー。そりゃあ、少し喧嘩っ早い気はあるが、愚かではないぞ」
「愚かにならないティーンがこの世にいるのなら、ぜひとも会ってみたいわね。……ねえ、ロカ。エリーちゃん、レンジャーライセンステスト、受けるつもりでしょ」
「それがあの子の目標だったからな。いよいよだって思うと、俺のほうが緊張してくる」
「ふーん。やっぱりアナタには言ったのね」
(……すまん、リエリー)
鎌をかけられた、と察したときには既に時遅く、細目の絵文字をルヴリエイトに向けられ、マロカは思わず顔を手で覆っていた。
「なあ、ルー。俺だって心配なんだ。レジデントテストのときとは訳が違う。今回のは実戦形式なんだからな。あの子が簡単に負けるとは思わないが、それにしたって、危険がない訳じゃない。だけどな、俺たちがあの子の目標を応援してやらないでどうする? あの子の頑張りは、おまえさんだって――」
「――ちょっとアナタやめて。どうして、ワタシがエリーちゃんの受験に反対してる、分からず屋ママみたいに言われないとならないのかしら。ワタシ、反対なんて一言も言ってないんだけれど。ワタシ、随行支援AIだから規則ぐらい、丸暗記してるんだけど。エリーちゃんの努力、たまにボランティアで家にいないアナタより、ワタシのほうが近くで見てるんだけれど?」
「わかった、わかった。俺の早とちりだった。すまん」
「よろしい」
片手を心臓に当て、もう一方を白旗代わりに掲げる。それでようやく機嫌を直してもらえたらしく、浮遊している筐体の揺れが小さくなっていた。ちょうど、傍を顔見知りの威療士仲間がすれ違い、ルヴリエイトには見えない角度で背中を叩いて去っていく。嬉しいような、切ないような、複雑な気分だった。
「ライセンステストを控えているからこそ、だいじな時期よ。どんな些細なことでも、揚げ足を取られないようにしなきゃ。残念だけれど、エリーちゃんを疎んでいるクソどもは、少なくないんだから」
「……。レスカたちはそうじゃないと思うが」
「ええ、あの子はイイ子よ。クルーたちもね。口はアレだけれど、アキラちゃん、根っからの優しさと強さを持ってるわ。あの若さで、その両方を持ち合わせているのは、すごいことだわ。だ・か・ら」
「ああ、わかった。行ってくるよ」
「ありがと、お願いね。夕食つくって待ってるから」
ウインクの絵文字を残し、ルヴリエイトの筐体が救助艇〈ハレーラ〉に向かって宙を漂っていく。
(やはり、かなわんなあ)
相棒への評価を改めて更新すると、マロカは今しがた通ってきた自動ドアを引き返していった。
† † †
「――ガードばっかりじゃねぇか、レジデント!」
フェイントを織り交ぜた、右フックに見せかけての左ストレート。
腹を直撃するコースで飛んできた拳を、両腕で防御し、リエリーは距離を取るべく後方へステップを踏む。
アキラの一撃一撃は、速いだけでなく、重量がある。全力ではないにしろ、今の一撃だけでも防いだ腕がジンジンとしていた。
(見える。けど)
速度は、問題ではなかった。アキラの速さは、あくまで素人目線で見た速さであって、“風使い”である自分からしてみれば、十二分に見切る自信があった。
問題は、その重さだ。
速度でリエリーには及ばないと察しているのだろう。アキラのパンチには、グローブに重しでも仕込んであるのではないかと考えしまうくらい、ズッシリとした破壊力があった。
なまじ、同僚の威療士だけあって、初めての対戦でも互いの手の内は、ある程度、読むことができていた。
おそらくアキラの作戦は、スタミナ切れを見込んだ上でのKOなのだろう。持久力には自信があるとはいえ、重量級のパンチを防御し続けていれば、疲労の蓄積は速い。そうして動きが緩んだところを、一撃で仕留める。無難だが、確実な策には違いない。
当然、リエリーとて、アキラの策に載せられるつもりはサラサラなく、ただ機を窺っていた。
「つまんねぇなあ! アタシはこれでも、てめぇとのスパーリングを楽しみにしてたんだけどなあ!」
「あっそ」
「見てみろよ。アタシだけじゃねぇみてぇだぜ?」
一瞬、注意を逸らすための手かと思ったが、その恵まれた体格からは想像もできない瞬発力でコーナーまで飛び退くと、アキラが首をクイッとさせて場外を指し示した。
(……なにがおもしろいんだか)
アキラが言った通りだった。到着したときには疎らだったジムのリングコーナーが、いつの間にか、十数人の見物人が出ていた。大半が、トレーニングに来ていたのだろう威療士や威療助手で、中には病院関係者の姿もあった。
「マジで理解できねぇって顔だな? 簡単なことじゃねぇか。てめぇは、ウワサの“最年少レジデント”なんだ。そりゃあ、見に来んだろ」
「……歳はどうでもいい。命を救えるかどうか。レンジャーはそれだけ」
「はっ! そいつは、アタシも同感だぜ。けど、な!」
掛け声に合わせ、アキラが一気に距離を詰めてくる。
ここで決める、とばかりに連撃を繰り出しながら、言葉も続けた。
「
「……っ。媚売りとか?」
十を超す連撃を凌いで、かろうじて軽口を叩き返す。
「仕留めそこなちまったか」と舌打ちしたアキラの口元が、ニヤリと歪み、リエリーは警戒を厳として備えた。
「レジデント・リエリー・セオーク! てめぇ、さっき言ったよな。『いざとなりゃ、養狼院の入り口に突っ込む』ってよ」
「……なんだって?」
「……養狼院がわかってないのよ、あのレジデントは」
「……セオークって、もしかしてあの……?」
アキラの煽りは、効果抜群だった。
見物人から次々と小声が挙がり、複数の好奇の目が向けられてくる。
(このくらい……っ!)
「言ったよ。だったらなに?」
「潔いじゃねぇか! じゃあ、もういっぺん訊くぜ? 養狼院つったら、スペクターがゴロゴロいるとこだ。てめぇはそんなとこに、負傷者をつれて突っ込んでくときた。とーぜん、スペクターは黙っちゃいねぇだろな。ウジャウジャ群がってくるぜ? どーすんだ」
「そんなの、決まってんじゃん」
両腕を広げ、さらに煽り立ててくるアキラ。もはや、スパーリングの呈を成しているとは思えなかったが、売られた喧嘩を放っておくのは、自分のやり方ではなかった。
だからリエリーは、ガードの姿勢を解き、無防備にその場へ突っ立つと、瞼を閉じた。
「降参、かッ――!」
吶喊するアキラの拳は、音で見えている。
それをワンステップで躱し、体を翻すついで、逞しい腕をつかんでやる。
そうして見開かれた双眸へ、リエリーは、得意の鼻に掛けた調子で言ってやった。
「――寝てない“