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希望の昏睡

「……ハァ。アンタって子は、まったく相変わらずね」


 医師である以上、どのような状況であれ、ため息は褒められた行為ではない。

 ため息を吐きたい場面こそ毎日のように出くわすが、そこを堪えるのが、プロフェッショナルとしての矜恃であるとカーラ自身は考えていた。

 たとえ、指しゃぶりをしていた光景が、昨日のことのように思い出せる相手の、予想通りの問いだったとしてもだ。


「で、どうなのさ」

「レジデント・セオーク。レンジャー条約第6条28項には、何と書いてあるんだった?」

「『レンジャーおよびその指導下にあるレジデントは、要救助者を認定医療機関へ搬送した時点をもって、その職務を完了したものとし、要救助者に関する一切の情報を職務上知ることのできた秘密として厳重に保管すると同時に、原則、追加の情報を保持しない』」

「にもかかわらず、アンタは患者の追加情報を、私に教えろって言うわけ?」

「あたしは、ものを覚えるのが苦手なんだってば。だから、聞いてもすぐ忘れる」

「屁理屈ばかり言ってると、損するわよ? これは、小煩い大人の忠告だから」

「うん。わぁったって。どーせ、忘れるけど。で?」

「……アンタねぇ」


 つい、小突いてやりたくなって腕を伸ばしたが、軽々と躱されてしまった。

 医師も体力勝負の仕事である。そのため、救急医として、カーラも毎日のトレーニングを怠らない身だ。だから運動能力には自信があるほうなのだが、こういうとき、鍛え方の違いをまざまざと思い知らされてしまう。

 腕組みをし、真っ直ぐにこちらを見上げているこのポニーテールの少女は、外見こそ、痩せっぽちの小生意気なティーンエイジャーだが、紛れもない威療助手レジデントでもあった。

 平均的な涙幽者スペクターでも、その膂力パワーは、乗用車を軽々と持ち上げ、トップアスリートを容易く追い越す瞬発力を併せ持つ。

 日々、そんな涙幽者を相手にしている彼女に、そもそも敵うはずがなかったのだ。


「……スペクターは、肋骨を3本骨折に腹部の打撲、軽度の感電による火傷。重傷度でなら比較にならないけど、傷の数なら、被害者よりもこっちのほうが多いわね」


 要望通り、患者の容態を伝えたにもかかわらず、威療助手の少女は、なおも鋭い視線を緩めようとしない。

 その意志の頑固さに、文字通り、降参の仕草をしてみせながら、カーラは、


「命は取り留めたって言ったでしょ。


 と答えてやった。

 途端、睨みつけるように向けてきていた目が、わずかに緩み、「オーケー。よかった」と露骨な安堵の吐息が漏れ伝わってきていた。


(ちゃんと昏睡状態、ね……。皮肉なものね)


 自分で言っておきながら、その答えの異質さに、カーラは心中で自嘲するしかなかった。

 どう解釈したところで、患者が昏睡状態で良いはずなどあり得ない。

 昏睡状態とは、有り体に言って目を覚ますか定かでない状態のことを指すのだ。それは目を覚ますという奇跡に、希望の全てを託すようなもので、まかり間違えても喜んでいいはずのものではない。――もし、その相手が涙幽者でさえなければ、の話だが。


「アンタも少しは、スペクターではないほうを気にかけたほうがいいわよ。私が言うまでもないけれど、一応、救命活動のメインは、こっちなんだから」

「それ、“腹ぺこ”専門ドックに言われたかないんだけど」

「私は救急医よ。スペクター化に関係なく、担架で搬送された患者を、歩いて帰らせるのが私の仕事」

「じゃあ、その肩書きは、なに」


 小生意気に顎で指され、カーラは思わず言葉に詰まってしまった。

 目をやらずともわかる、胸元に印字された、己の身元を示す文字の羅列。そこには、『カーラ・ハフナイア医師、涙幽専門医』の文字が躍っている。


「……ええ、そうね。訂正するわ。私は救命医で、スペクター専門医でもある。ついでに自慢するなら、スペクター専門医は、この国に20人もいない。……これで満足かしら、小さなレンジャーさん?」

「あたしはまだ、レンジャーじゃないけどね、“スペドク”」

(変わらないわね。それじゃあ、息が詰まるでしょうに)


 カーラを、独特な命名法で呼ぶと、少女はひょいっと肩をすくめてみせた。

 その在り方は、あまりに特異と言うほかないものだった。

 

 そして必ず、『昏睡状態かどうか』を確かめるのだ。その張り詰めようは、まるで、彼女自身の救命活動によって命が失われていないか、確信するための儀式のようにさえ、カーラは思えてならない。

 だからなのだろう。

 その小さな体から、自信という光が失せたところを、カーラは一度も目にしたことがない。

 首を覆う臙脂色のスヌードは、刻印された二対の翼が光沢を返しているが、そのうちの片方が、雛鳥さながら閉じている。威療士ライセンスを持たない、威療助手の左証だ。

 世界威士会のエンブレムであり、威療士の証でもある、通称〈ダブル・ウィング〉。

 その翼は白と黒の2色に染められ、巨大な翼が地球ルカリシアを守護するように包んでいる。リエリーが着けていると、たとえ、翼が一枚しかなくとも、命を護ってみせると、そう主張しているようにも見えた。

「今月末、だったわよね、ライセンステスト。16歳以上とか、馬鹿げた規則がなかったら、アンタはとっくになれたんだから、ようやく、って感触かしら?」

 威療士は、命がけの危険な職業だ。それゆえに、単独で威療行為が実施できる威療士のライセンスは、16歳以上でなければ受験すら許可されない。その16歳ですら、大概の場合は威療助手から始めるのが一般的だ。

 数年間の経験を積み、ようやくライセンス受験に臨む。20代で威療士ライセンスに合格できれば優秀、とされる業界で、目の前のこの少女は、その威療助手を既に5年近くも務めていた。


(あの彼が相棒だからって、11歳で救命活動を完璧にこなすとか……。上には上がいたものね)


 これが、“戦錠バトルロック”の異名で知られる威療士であり、リエリーの養父であり、カーラの患者でもある彼の強制だったなら、医師として躊躇わず児童福祉局へ通報するところなのだが、あいにく事情が全く異なることを知っている。

 この少女は、救命活動のために生まれたと言っても過言ではない、才覚の持ち主だった。


「あー、まあ、そんな感じ?」


 だから、念願の受験が間近に迫って嬉しいはずの本人の反応が芳しくなかったことに、カーラは自然と整った眉をひそめていた。


「ずいぶん塩な返答ね。長いことこの日を待っていたんじゃなかったの?」

「うん、待ってたよ。ずーっと、待ってた。レンジャーになるって決めた、あのときからずっと」

「なのに、浮かない顔の理由は、パパと喧嘩でもした?」

「ぱ、パパじゃないってばっ! ロカは、ロカ! てか、ケンカしてないし」

「そう。なら、またあの機母に小言でも言われたとか?」

「その呼び方、キライ」

「本人――本機と言うべきかしら。“マーテル・マキナ”って呼んでって言ってるけど?」

「とにかく! ルーは関係ない。ルーの指摘、正しかったし」

(小言は言われたのね)


 ひとしきり、からかって満足したところで、カーラは一度、端末に目を落とし、担当患者たちの容態を確かめる。予断を許さない状態だが、できる処置は全て施した。ここから先は、本人の回復力が物を言う場面だ。


「ということは、ライセンステストを受けるって、あの二人に言っていないのね」

「んぐっ……」

「なら、レジデントのままでいいじゃない。アンタたち親子、コンビネーション抜群じゃないの。何も問題ないでしょう――」

「――大アリだよ」


 キリリと言い返された声に、思わず顔を上げる。

 いつからか、アビエイター型の〈ギア〉を外していた黒瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめ返していた。


「あたしは、レンジャーになる。レンジャーになって、いまよりもっと、“腹ぺこレベネス”の命を救う。ロカのようにね」

「ええ、知ってるわ」

「それでいつか、あたしが――ロカを〈ドレスコード〉するんだ」

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