「――二人とも、一命は取り留めたわ」
観音開きのドアが押し開かれ、スクラブキャップに手を当ててオペ室から出てきた人物が、単刀直入にそう告げる。椀の形に似た布製の丸帽から、輝く金髪がハラハラとこぼれ落ち、夜間の廊下を静々と照らすコーブライトの下で踊った。
「そいつは何よりだ。いつものこととはいえ、感謝するよ、先生」
「もうちょっとはやく、駐機スペースを空けといてくれたらワタシ、着陸に集中できたんですけれどねえ、ドクター」
ミルク色を基調とした木目の廊下、その壁際に背を預けていた茶黒い巨躯が、逞しい背筋を正して目礼してくる。対照的に、巨躯と並んでふわふわ宙に浮かんでいたサッカーボール大の正十二面体は、その独特の感情表現である、皮肉交じりの絵文字を筐体に浮かび上がらせながら、皮肉を言ってきた。
「ルー……。先生はよくやってくれただろう? 無理を頼んだのは、俺たちのほうなんだ」
「ふーん。アナタ、ドクターの味方をするのね、そう」
(相変わらずの惚気っぷりね)
口には出さず、ドクター・カーラ・ハフナイアは、手元の端末でカルテを参照しつつ、心中に吐露した。
この二人――マロカとルヴリエイトの関係を説明するのは、少し複雑だ。
形式上、両者は威療士と、それに随行する支援機体という間柄だ。
刻々と状況が変化するのが常の救命活動において、威療士は、涙幽者の無力化と負傷者のケアに集中しなければならない。が、救命活動に必要なプロセスは無数に存在し、その全てを威療士が行うには無理がある。
マロカとルヴリエイトが特別なのは、そういう仕事上の関係性を越えたところにある。端的に言い表すなら、この二人は夫婦だ。というより、それ以外の表現をカーラの思考は拒んでいる。ちょうど、マロカとルヴリエイトが、夫婦であるという指摘を頑なに拒否するように。
(娘がいて、3人で一つ屋根の下に住んでる。これのどこが家族じゃないってのよ)
現に今も、
「ねえ、アナタ。夕食はハンバーグでどうかしら」
「そいつはいいな。な? リエリー」
「やったっ。あたし、バーベキューソースがいい」
「グレイビーソースなら、この前ミセス・マチルダに頂いたのがあったわね。バーベキューもたしか、冷蔵庫に余りがあったはずだけれど」
などという、どこにでもある家族談義が繰り広げられている真っ最中である。
ちなみに、カーラ自身は華の独身生活を大いに満喫しており、これから先も鞘に収まる予定は毛頭、なかった。
「はい、ここにサインをお願い」
所定の電子書類を端末ごと差し出すと、研がれたカギ爪を器用に使い、マロカが実に達筆な署名を素早く走らせていく。手慣れたものだ、という感心が湧き上がると同時に、チクリと痛む胸もあった。
「じき、ここに『リエリー・セオーク』の名前が刻まれることになるなあ。そうしたら、俺たちは隠居生活だ。今のうちにルー、行きたい場所をリストアップしておいたらどうだ」
「あら。行き損なったハネムーンの候補地なら、毎年増えてるわよ? 参考までにきのう時点で、249箇所ね」
「うわ、ロカ、地雷ふんだし」
「ん? そんなことたあ、ないぞ? その249地点、全部回ればいいんだからな。時間ならたっぷりある。はい、先生」
「ええ、お疲れ様。そういえばRK《レジデントキッド》、あんたのライセンステスト、今年だったわね。意気込みは?」
「だぁから! その呼び方は、キライなんだってば、“スペドク”」
「こーら、エリーちゃん。いくら相手が、ロカに〈ビーコン〉を埋め込んだ上にミニボムまで装着させて起爆装置を握っている鼻持ちならないドクター・ハフナイアだからって、それは失礼よ」
「はあ、ルー……。先生、いつもすまん」
「いいえ、レンジャー・セオーク。随行支援知性・ルヴリエイトの指摘は、極めて正当なものよ。私はそのことを悔いてもいなければ、正当化しようとも思わない。非難は甘んじて受けます。だから、あなたが謝る必要もないわ」
受け取った端末には目を通さず、カーラは、真っ直ぐ正面に巨躯を見据える。
コーヒーと紅茶を混ぜたような、茶黒い体毛が覆う巨体。その体は、これもまた特大サイズの〈ユニフォーム〉が羽織われ、全身が仄か蒼白い光を発していた。それだけであれば、威療士の標準装備であり、何ら変わった部分はない。
そして、ヒクヒクと絶えず動く三角耳の間隙下、額にあたる部分に、
(たとえ上の指示でも、施術したのは私よ。すべての責は、私が負う。それが、私なりのケジメだから……)
「……その、なんだ。あまりジッと見んでくれないか、先生。俺も男だからなあ。先生ぐらいの美人に見つめられると、ドキマギしてしまう。ほら、先生も知ってるだろう? 後でうちのが、な」
「マロカさ~ん? 聞こえてますけれど~?」
「うん、あたしにも聞こえた。帰ったら、2時間はグチグチの刑だね」
「言っておきますけれどね、リエリーさん、アナタもそこに入ってますからね?」
「げっ。あたし、テスト勉強しないとだからさ……」
「噓おっしゃい。模試で毎回満点のアナタが、何が今さらテスト勉強よ。その暇があったら、ワタシとお料理よ。レンジャーは体力勝負。独り立ちしたいなら、料理と栄養学を学んでもっと体力つけなさい。ねえ、ドクター?」
「……そうね。医学的には健康そのものだけど、あんたの場合、ユニーカに頼る癖があるから、そこは気に掛けたほうがいいわね。いざというときは、体が物を言うから」
(情けないわね。患者に気遣われるなんて)
この一家は、いつだってこうだ。どんなときだろうと、まずは相手のほうを気遣う。それがたとえ、命懸けの状況でも、真っ先に相手を慮る。
それはカーラが一家と出会った、11年前から変わっていない。
そしてそんな一家に、自分にはないものを感じてきたことも事実だった。
「ちぇ。だってあたし、風使いなんだし。ユニーカ得意だし」
「知ってる。だから頼り過ぎないようにって言っているの。ユニーカについては、未だにほとんど解明が進んでない領域よ。でも、これだけはハッキリしてる。ユニーカも体をベースに発動する。機母の言うことは一理あるから、ちゃんと聞きなさい。……はい、書類はこれでオッケー。チーム〈チョコレート・ライトニング〉の皆さん、救命活動、ご苦労様でした」
「「
カーラの報告を受け、病院という場を意識した静謐な、だが明瞭な
目の前のマロカとリエリーの二名が、直立不動の姿勢を取り、その右の拳を己の左胸――心臓がある位置へと、叩き付ける仕草をしてみせる。その隣では、ルヴリエイトがその筐体へ威療士のシンボル〈ダブルウィング〉を浮かび上がらせていた。
(何度みても、背筋が伸びるわね)
自分たち医師同様、威療士の出番など少ないに越したことはない。そうと理解していても、この敬礼には胸を高鳴らせる、不思議な高揚感があった。
「ふたりはさきに行ってて。あたし、ちょっとドクと話が」
「わかってるだろうが、リエリー。あまり先生を困らせるんじゃないぞ」
「わぁってるって。すぐ行くから」
そう話す声が聞こえて、すぐに自分を呼ぶ声があった。
「あのさ、ドク」
「5分だけよ。他の患者が待ってるから」
「うん。ロカが搬送してきた“腹ぺこ”、いま、どっちで、眠ってるの?」