「――――」
閑静な住宅街に、その物悲しい遠吠えが、木霊する。
それは紛れもなく野太い野獣の咆哮でありながら、尾を引く余韻がどこか、聞く者の心を締め付ける哀愁があった。
愛し、求め、されど与えられない。
そんな自虐的な苛立ちさえ感じさせる、長い長い遠吠えだった。
そんな遠吠えを、真正面から叩き返す、少女の強い声が続いた。
「――独り善がりな想いなんか、嫌われるだけだ、てのッ!」
住宅街に建つ、この国では平均的な二階建ての家屋。
その芝生の庭に面したキッチンの壁が、まるで映画の大道具さながらに砕け散った。
手入れされ、月光に湿った艶を放つ芝生が大規模に抉られ、その巨躯が、ほとんど車道の中央まで吹き飛ばされる。
もんどり打ちつつ、巨躯は、アスファルトの地面に刃渡り15cm以上もあると思しい、湾曲したカギ爪を突き立て、体勢を立て直した。
月光の元に照らし出されたその異形は、典型的な
2mを優に超す身の丈と対照的に、漆黒灰の獣毛に覆われた体躯は枯木のように筋張り、見る者に本能的な嫌悪感を植え付ける傍ら、激しい飢えに苛まれていると一目でわかる。そのことを裏付けるように、過剰な呼吸を繰り返す胸に浮き出た肋骨が痛々しい。
力なくだらりと垂れ下がった異様に長い腕が、さらに生き物としてのアンバランスさに拍車をかけ、脚の長さに比肩する長い両腕の先、例のカギ爪からは血が滴っていた。
そして涙幽者に特徴的な突き出た鼻面の上で、白く濁りきった双眸が束の間さまよい、ピタリと一方向を見据えた。
その眼から流れ落ちて止まらない滂沱の涙で、毛深い
「――――」
再びの咆哮は、視覚可能な音の波を空間に乗せて発せられる。
文字通り、物理エネルギーの塊となった涙幽者の音波攻撃が、 アスファルトもろとも粉砕しながら弾き飛ばされた半壊の家屋へ迫った。
「だぁから、しつこい男は嫌われるんだってば! ――
その音の重圧を割って、さらに苛立たしげな感想の言葉が、屋内から発せられた。
声変わり前の、その少女の声音に、波長を合わせた温かな緑色の光が加わり、蛍光グリーンの波となって涙幽者の音波攻撃を霧散させる。
「
と同時に、辺りへ散った建材が独りでに浮遊し、次の瞬間、涙幽者の元へと高速で吶喊した。
『――ちょっとエリーちゃん! お願いだから要救助者の家財を道具に使うの、やめて! 保険が利かないの、知ってるでしょ!』
「モノなんかより、命が最優先だってば!」
涙幽者が動かないことを確認し、通信機の抗議にそう応えて、小柄な人影は駆け足で、今や屋外とつながった屋内のキッチンへ向かっていた。
剥き出しになった家の内部、キッチンのフローリングに横たわる要救助者の体の下からは、赤黒い血溜まりが静々と広がっていた。
少女は、「負傷者みっけ」と報告の言葉に続けて、「死んだら、モノだってカネだって、あっちの世界に持ってけないし」と言葉を継ぐ。
『それはそれ。これはこれでしょ』
「はいはい。〈グラシスギア〉、ファストチェック開始」
微動だにしない要救助者の傍にしゃがみ込み、少女は、童顔に不釣り合いなサイズのアビエイターグラスに指示を飛ばす。
数秒と置かず、サングラスに内蔵されたヘッドマウントディスプレイが、要救助者の容態を少女に返した。
「骨折なし。けど、出血が多すぎ。……止血するよ、ロカ?」
『許可する。出血箇所と動脈の位置に注意するんだ』
「わぁってるって」
言いながら、既にその手には腰のポーチから取り出していた止血帯が握られている。
そうして動き始めた少女の手さばきは、驚くほど迷いがなかった。
極力、要救助者の体を動かさず、必要最小限の動作で止血帯を患部に巻き付けていく。
その体に纏うのは、暗闇を照らす蒼い光――ホープブルーの〈レンジャー・ユニフォーム〉。
そのユニフォームの華奢な背の中央では、
対して、まるで挑発するように、少女の左肩には、三重のチョコドーナツを貫く紫電の、如何にも手描きらしいエンブレムが、この危機的な状況にそぐわないポップな蛍光色を発していた。
と、小さい舌打ちが続き、一本に結ばれたその短いポニーテールが跳ねた。
「大動脈まで裂傷がとどいてる。ここじゃ、止血できない……」
そばかすが目立つ童顔を固くさせ、ユニフォーム姿の少女――リエリーの口から堅い声音が紡がれる。
自分たち――
ズバ抜けた嗅覚を誇る“ロカ”こと、養父マロカの「重傷者がいるな」という言葉を聞いて、飛行中だった救助艇〈ハレーラ〉からリエリーが飛び降り、上空から屋根を突き破って屋内へ突入したときには、既に惨状が広がったあとだった。
横たわる負傷者は腹部を噛み切られ、威療士の標準装備では手の施しようがない。〈ギア〉が伝えてくるその容態は刻々と悪化し、生命の瀬戸際に追い込まれていることを物語っていた。このままでは、間違いなく命を落とす。――加えて。
「――――」
リエリーの機転で拘束されていた、涙幽者。
その痩身の巨体が、一時凌ぎの拘束具を振り払い、再度の突進を仕掛けてくる。負傷者の手当てで、背を向けていたリエリーには、反応する刹那は与えられない。
「――眠れ」
突如、宵闇から響いた静謐なその低い声色。
それは、さながら死を宣告する大鎌のようだった。
事実、涙幽者は自身に何が起こったのか、理解することもままならなかったに違いない。
彼が理解できたことと言えば、手を伸ばせば届いたはずの負傷者に触れることは叶わず、代わりに、胸部へ強烈に過ぎる一撃を受けたということくらいかもしれない。その一撃は、強固に変異した皮膚を持つ涙幽者でなければ、容易に骨を砕き、心臓を破裂させるほどの威力を持つ。そのうえ、拳に纏わり付いた紫電が、全身の筋をも硬直させて、身動きを封じていた。
アッパー気味に胸郭中央へめり込んだ拳から伝わった一撃を受け、さしもの涙幽者も息が詰まり、膝から崩れ落ちるほかなかった。
そうして、胸郭中央、まさに心臓が封じられているその箇所に、キラリと銀の光沢を返す特大の“針”が突き立てられていた。
「
同時に、涙幽者の首元へと宛がわれる、白銀の
小気味よい装着音に続き、中央部に嵌め込まれた無色のクリスタルが、ほの蒼い光を夜の闇に投じる。同時に、チョーカーの内側、涙幽者の肌に接する面から、肉眼では捉えられないナノサイズの針が、涙幽者の硬い皮膚細胞を縫って突き立てられた。針先からは、少量だが、装置に内蔵された極めて即時性の高い
首のみならず、腕と脚にも環状のパーツが瞬く間に当てられていくと、各パーツから、蒼い燐光を放つ紐状のものが伸長していた。それらが自動的に“縫製”され、みるみるうちに涙幽者の体躯を覆う生地を形成した。
やがて、「ドレスコード、完了」の宣言がなされる頃には、巨躯を黒いタキシードが包んでいた。
「ナイス、ロカ」
「おう!」
ぬっと、傍らへ迫った大きな気配へ、リエリーは目を向ける代わりに拳を突き出して、グータッチを交わす。
血まみれのそのグローブに返されたのは、同じ威療士のグローブ――には見えない、白銀の鎖が巻き付けられた茶黒い拳だった。
リエリーの頭ほどもある巨大なその拳は、ダークブラウンの獣毛に包まれ、ソフトなタッチを返したのは、器用に掌へ曲げられた、長大なカギ爪だった。
「降下地点を見つけるのに手間取った、すまん。負傷者の容態はどうだ?」
「深部大動脈が傷ついてる。マイクロターニケットでクランプしてるけど……」
「長くはもたんな。少しでも動けば、大出血だ。次は助からん」
互いの意見を共有させ、リエリーは傍らに立つ巨体を見上げた。
「そっちは? ずいぶんキョーレツだったじゃん」
「変異開始から時間が経っていたからな。鎮静に手間取れば、餓死しかねん。一発で“落とせた”のはいいが、急いで〈ポッド〉に入れる必要がある」
リエリーの身幅の二倍はあるマロカの肩の片側に、ぐったりした件の涙幽者が担がれていた。
タキシードをモデルにした保護着を纏っているせいか、
「じゃあ、ロカが〈ハレーラ〉で行って。あたしがこの人を運んで走るから――」
「――違うな。リエリー、深刻度が高いのはどっちだ? おまえさんの主観じゃなく、客観的評価でだ」
「……こっち。“
「正しい判断だ、レジデント・リエリー。それで次は?」
「〈ハレーラ〉に運ぶのも、ホイストするのも危ない。たとえ、〈ハレーラ〉で飛んだって間にあうかどうか、ビミョー」
「だったら今すぐ決断しないとな、うん?」
暗闇に輪郭を浮かび上がらせた茶黒い巨躯の、その
涙幽者とは似て非なる、その知性に富んだ瞳に、少年のような悪戯っぽい色が浮かんだのを見て取ったリエリーは、すぐさま養父の意図を察した。
「よし。命がかかってるんだ、仕方ないよね。――ルー。あたし“飛ぶ”から、
『ちょっとエリーちゃん?! それは危険だからよっぽどのとき以外はダメって言ったでしょ――』
「――いまが、そのよっぽどのときだってば」
通信機へ言葉を返しながら、リエリーは深海色の目に向かってウインクする。
が、通信の相手にはそれがお見通しだったようで、今度は追及の矛先が入れ替わった。
『……ねえ、アナタ? エリーちゃんをそそのかしたわね』
「はは……。いやいや、なにを言ってるんだ、ルー。これは、われらがレジデントの提案だぞ」
『ふーん、ああそう。はい、わかりました。連絡は、しておきます。――ただし! ケースレポートは、文字数上限いっぱいまで書いてもらいますからね?』
「げーっ」
「ははっ。さすがルー。理解が早くて助かる」
『言っておきますけど、アナタもですからね、レンジャー・マロカ』
素早く斬り返され、「ごふっ」と咽せたことを咳払いでごまかす。
そうしてマロカは、意識のない涙幽者を利き腕ではないほうへ抱え直すと、片膝を突いた。
「俺から提案しといてなんだが、リエリー。無理はするな。近いとはいえだ、メディカルセンターまで直線で2kmはある。おまけに夜だ。上空で何かあっても助けられん――」
「――ロカ。あたしを信じてる?」
「そうだな……。ルーとレイモンドと同じくらいには、ってとこでどうだ?」
敢えて明言を避けた巨体の腕を殴りつけ、リエリーは、「ふー」と短く息を吐く。そうして全身を駆け巡る高揚感を制御し、具現化させるイメージを思い描いた。
瞬刻、負傷者の体を不可視の風が包み込み、一切の揺れなく宙空へと持ち上げる。
続けてその“風の繭”を水平移動させ、リエリー自身の胸の前に密着させた。
「頼んだぞ」
短い一言と共に、茶黒い掌が差し出され、リエリーは躊躇わずにそこへ飛び乗った。
15歳の少女の体重を片手に乗せているとは思えない安定感を保ったまま、マロカが立ち上がり、リエリーを乗せた腕を後方へ引き絞る。
直後、手入れの行き届いた獣毛が、一斉に逆立つと同時に、その腕を紫電が駆け巡った。
「オーケー。いつでもいけるよ」
〈ギア〉に飛行ルートを計算させ、〈ユニフォーム〉を軽量モードへ切り替える。同時進行で自身の体にも風を纏わせたリエリーは、腰を低くさせ、準備が整ったことを
「よし。じゃ、センターで会おう。――ライトニングゥ・マッスゥッ!」
ジョークのような掛け声を発すると共に、刹那、マロカの茶黒い巨躯を雷電が駆け抜けた。
強力な踏み込みによって地面が陥没するのをものともせず、マロカは己の片腕に全てのパワーを注ぎ込んだ。
砲丸投げさながら、その絶大な瞬発力と、リエリーの
(ぜったい、死なせないから)
己の矜恃を心に唱え、紫電の尾を引きながら、