「皆さんは、地球の環境問題についてご存知ですか?」
生徒たちを見渡して、先生が呼びかける。
等間隔に並べられた椅子に座る生徒たちは、先生の言葉に思い思いの反応をした。
机の上に置いた教科書を適当に捲る者や、熱心に板書をする者。
先生は彼らの様子を観察して、窓際の一番奥に座っている長い黒髪の女子生徒を指名した。
「『デイジー』さん、分かりますか?」
「はい。温暖化や大気汚染などです」
「よくできました。そしてその結果、人間は地上に住めなくなり、最後はどうなりましたか?」
勿体ぶった先生の語り口に、デイジーは舌打ちする。
彼女は靴を鳴らして教卓の方まで歩みを進めると、黒板を模した大型タブレットの画面を指でなぞり一つの単語を書き記した。
その単語とは、『アンドロノイド』。
「人類は生身の体を捨て、機械の体に意識を転送することでこの環境危機を乗り越えました。そうして誕生した新たな種族こそ、『アンドロノイド』なのです」
デイジーの解答を聞き、生徒たちから拍手が巻き起こる。
この教室にいるのは、皆アンドロノイドなのだ。
校舎にも街にも海外にも、生身の人間は誰一人いない。
これまで色々な人から何度も聞かされてきた世代交代の神話を、アンドロノイドたちはその度に讃える。
同級生たちの拍手音を遮断して、少女型アンドロノイド・『デイジー』は自分の机に戻った。
「では、授業を始めます。新しいことを学習しますので、データ閲覧制限の解除キーを先生からダウンロードして下さいね」
アンドロノイドの電子頭脳には、世界中のあらゆる情報が詰まっている。
だが未熟な精神面とのバランスを取るため、大部分の知識やデータには閲覧制限をかけることが義務づけられているのだ。
そしてこの閲覧制限は、年齢や学校教育、資格取得の過程で徐々に解除される。
しかし、デイジーだけは違った。
「私、部品が故障したので帰ります」
「ちょっと、デイジーさ……」
先生の制止も聞かず、デイジーは教室を去る。
定められた規則を愚直に守るアンドロノイドたちの中にあって、彼女だけは独力で閲覧制限を全て解除したのだ。
莫大な量の知識を一瞬で手に入れたデイジーにとって、学校の授業は単なる茶番に過ぎない。
高性能な電子頭脳を染める退屈から抜け出す術を求めて、デイジーは校舎を飛び出した。
これ以上下らない授業に付き合っている暇はない。
学校を脱走したその足で、彼女は『ハリー中央研究所』に向かった。
「よっ!」
塀を飛び越えて敷地内に侵入し、人の目を掻い潜って裏口まで辿り着く。
扉に設置されたセキュリティ端末に手を添えて解除コードを入力すると、端末は呆気なく扉の鍵を開けた。
「お邪魔しまーす」
デイジーは研究棟に侵入し、薄暗い通路を歩いては立ち入り禁止の看板が置かれた階段を登り降りしていく。
そんなことを暫く繰り返していると、彼女の視界に黄緑色の光が飛び込んできた。
ある一室の窓から溢れるぼんやりとした灯りを、デイジーは無心で見つめる。
我を忘れた彼女の手は、いつの間にかドアノブを掴んでいた。
「この部屋、前まで何もなかったのに……」
好奇心に衝き動かされるまま、デイジーはその研究室の扉を開ける。
黄緑色の光が包む部屋の中には、一人の少年が立っていた。
少年はデイジーより頭二つ分背が高く、細身の体に入院中の患者が着るような衣服を纏っている。
整えられた長い白髪の奥から生気のない目をぎょろりと覗かせて、少年が言った。
「君は誰だ」
「あ、あたしはデイジー・ベル……よ」
少年の不気味な威圧感に押されながらも、デイジーは自己紹介をする。
黙り込む少年に、今度はデイジーが詰め寄った。
「ちょっと! あたしに名乗らせといて、あんたは自己紹介しないわけ?」
「すまない。僕は実験体704。人名らしく捩るのなら『ナオシ』と言ったところか。ナオシ、ナオシ……うん、いいぞ。僕のことはナオシと呼んでくれ」
いきなり饒舌になった彼に面食らいつつも、デイジーはナオシの顔と名前を記録する。
デイジーが右掌を突き出して言った。
「個体識別番号を交換しましょ。ナオシ、掌を合わせてくれる?」
人間が電話番号を交換するように、アンドロノイドたちは個体識別番号を交換する。
しかしナオシの掌からは、情報の欠片も伝達されてこなかった。
「ちょっと、どうして交換できないのよ?」
「できないだろうね。僕はアンドロノイドではないのだから」
ナオシは淡々と答える。
彼の説明に納得する寸前で爆弾発言に気がつき、デイジーが声を上げた。
「それなら仕方ないわね〜……えっ、アンドロノイドじゃない!?」
デイジーは驚愕と期待の籠った瞳で、ナオシを見つめる。
ナオシは衣服の襟を正し、自らの素性を明かした。
「その通り。僕は人間だ」
人間。
機械の体に心を移し、種族としては既に滅んだはずの存在。
その幻の生き物が、今目の前にいる。
デイジーの伸ばした手をひょいと躱して、ナオシが言った。
「今度は僕に質問させてくれ」
「いいけど……」
「君はさっきデイジー・ベルと名乗ったね。『ハリー・ベル』と何か関係があるのかい?」
ハリー・ベルはこの研究所の所長であり、アンドロノイド技術を開発・実用化した張本人である。
しかしデイジーにとって、彼はそれ以上の存在であった。
「知ってるも何も、ハリーはあたしのパパよ」
「そうか。次に彼が来たら、デイジーに会ったと報告しよう」
「ダメ! 絶対ダメ!」
デイジーは慌ててナオシを止める。
首を傾げるナオシに、彼女はそっと耳打ちした。
「実はあたし、ここには不法侵入してきたの。だから内緒でお願い」
「分かった」
ナオシはあっさりと納得し、デイジーは胸を撫で下ろす。
しかし彼女が安心したのも束の間、ナオシは思いがけない提案をしてきた。
「その代わり、学校で学んだものや出来事について僕に教えてくれ」
「……はぁ?」
「君たちくらいの年頃の子供は、学校なる場所で勉強をするんだろう? けれど僕は行ったことがない。だから君が、僕に世の中のことを教えてくれ」
あまりの熱心さに気圧され、デイジーは思わず後ずさる。
戸惑う彼女の手を取って、ナオシは力強く訴えかけた。
「知りたいんだ。外の世界のことを」
虚ろだった瞳に好奇心の火が灯り、デイジーの冷たい警戒を暖める。
デイジーは表情を緩めて、ナオシの手を握り直した。
「……その気持ち、何か分かるかも」
「えっ?」
「あたしも探してるから。自分にしかない、特別な何かを」
全てを知り尽くした日から、デイジーの世界は既知と灰色に埋め尽くされた。
しかし今日、彼女は黄緑色の光に包まれたナオシという未知と出会った。
彼となら、退屈な日常を変えられるかもしれない。
デイジーは勝気に笑い、ナオシの眼を真っ直ぐに見つめて言った。
「一緒に見つけよう。あたしたちの特別を!」
「……ああ!」
デイジーとナオシは秘密の協定を結び、悪戯っぽく笑い合う。
そして次の日、デイジーはいつもより早く登校した。