日曜日の昼下がりに突然王太子殿下が公爵家にわざわざ足を運ぶだなんて、なにかしたのかな。
いや、心当たりがないわけではないのだけど……。
殿下をサロンに案内した侍女が慌てて私を呼びに来た時は驚いた。
現在はサロンで、殿下とテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。
殿下の後ろには護衛騎士が二人も立っていた。
その二人のうちの一人がどこかで見た顔なんだけど、思い出せない。
どこで見たんだっけ。
私は侍女が用意してくれた紅茶を飲んでいるけど、いつもは美味しいのに今日はなんの味もしない。
ティーカップを持っている手の震えが止まらなくて、今にも紅茶が零れそうだ。
「急に来てしまってごめんね」
申し訳なさそうに口を開くのは銀色の髪に藍色の瞳。整った顔立ち。とても落ち着いていて、しっかりしているような印象を受けてしまう。
美少年とはこういう人のことを言うのだろう。さすが、乙女ゲームの世界だけある。
「い、いえ」
謝るのはこちらの方だ。そう思った私は、謝罪の言葉を口にしようとしたら、手に持っていたティーカップを落としてしまった。
パリーンという音が響き渡る。割れたティーカップと紅茶が零れた大理石の床と少し紅茶で汚れてしまった自分のドレスを見て、自分が緊張しているというのにようやく気がついた。だから手も震えていたし、何の味もしないわけだ。
「も、申し訳ありません! 殿下」
あたふたしている私を見て、殿下は口に手を添えて、肩が小刻みに揺れていた。
どうしたのだろうか。気分を害したのではないだろうか。
不安げに彼を見ていたら天使のようなほほ笑みをされた。
彼の瞳には怒りを感じられない。
良かった……。
私はホッとして胸をなで下ろした。
天使のような美少年にほほ笑まれたら心を一瞬で奪われるだろうけど、私の前世は高校生だったのよ。そんな子供にときめくほど変態じゃないわ。
彼はアレン・ミットライト王太子殿下。攻略対象者の一人。そして、
この後の未来を知っている者としては恐怖でしかない存在。乙女ゲームの殿下は話しかければいつも優しく笑いかけてきてくれた。
好意を向けられていると勘違いされてもおかしくないのだが、社交辞令でしかないのに気付かなかった。
それだけではなく、ソフィアはヒロインに心を惹かれていく殿下を見て、嫉妬して嫌がらせをするのよね。
嫌がらせをしていると知った殿下は激怒し、悪役令嬢を殺した。その後、殿下はヒロインと結婚した。
悪役令嬢はとても嫉妬深いらしく甘やかされて、溺愛されてるヒロインを見て羨ましいとも思ってしまったんだ。
ストーリーが進むにつれ、殿下の葛藤や苦痛も知る度に……、いつも笑いかけてくれる裏側に苦難があり、辛さを知ってるからこそ、悲しみを笑顔でカバーしていたんだ。
それに引き換え、私はなにをやっているんだろう。
現実から逃げ、苦痛を嘆いて前に進もうとしない。
……情けない。
私も殿下みたいになれたら。辛い時こそ笑えるように出来る人になりたい。そう思ったんだ。
そして、いつの間にか……殿下のことが一番の推しになっていた。
憧れから大好きになったんだ。
もちろん、甘くささやく殿下の声を聞く度に昇天しそうになったり、数々のトキメキ要素があるので胸きゅんをかなりしていたわ。
私は胸きゅん要素をおかずにご飯四杯ぐらいいけてたわ。
けれど、前世での記憶を思い出した今では目の前にいる、純粋そうな笑顔を向けている殿下が怖くて仕方ない。
その笑顔が心からなのか、偽りなのかがわからないから。
侍女が割れたティーカップの掃除をしてくれている。
高そうなティーカップなのに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私が落としたから自分で片付けようとしたらお義父さまに侍女が怒られてしまう。
最悪、クビなんてこともありえる。
貴族ってめんどくさいと養女として迎えられた日から十歳になった今でも思う。