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6 幼い頃から~源一星~

 毎朝、五時にアラームが鳴る。一星は、そのアラームでベッドから起き出し、階段を下りて、顔を洗い、寝ぐせのついた髪を整える。いったい誰に似たのか知らないが、柔らかい直毛の髪は、クセがつきやすい。


 それから、リビングへ行って、エプロンを身に着け、ルーチンワークのように弁当の準備をする。ついでに朝食も用意して、風太を起こしに行く。たいていの場合、彼はけたたましいアラームが鳴り響く部屋の中で、よだれをらして爆睡している。


 そんな彼を揺らして起こし、起きたことを確認すると、また一階へ戻って、彼が降りてくるのを待ち、一緒に朝食をとる。ふたりきりで朝食をとるのは、雅が休みの日。木曜と日曜だけ。だが、週に二度訪れる、この時間は、一星にとって至福の時間だった。


 今日の寝ぐせ、すごいな……。毛先が自由すぎてアートみたいになってる……。


「おはよう」

「……はよ」


 大あくびをしながら、アーティスティックな頭で、いかにもまだ眠そうな目をしたまま、風太はテーブルに座る。見る限り、彼の体はどうにか起きているようだが、脳みそはまだ眠っている。だが、目の前に朝食を並べてやると途端に、風太の目には生気が宿る。そうして、三白眼さんぱくがんの瞳をきらりと輝かせ、胸の前でパンッと手を合わせるのだ。


「いただきます!」


 彼はそう言って、朝食にありつく。これは、すでに慣れたルーチンだが、一星はこの時間がとても気に入っていた。まだ、太郎と雅が起きてこない早朝、ふたりきりの朝食の時間は、まるで、この家で同棲をする恋人同士のように錯覚できるからだ。


「ソーセージ、ちゃんと焼けてるか」

「うん、うめえ。……なぁ、今日の弁当なに?」

「から揚げと……、卵焼き」

「やったね」

「言っとくけど……、冷凍だぞ」

「でも、卵焼きは違うだろ。おれ、お前のあれ、好きなんだよねー」

「あ、そう……」


 寝起きだから、まだ鼻声だな……。


 今日の朝食は、トーストと、ソーセージつきの半熟目玉焼き。それに、ヨーグルトとオレンジジュース。ごく普通の朝食だが、風太はいつも本当においしそうにそれを食べてくれる。弁当だって、雅が作ってくれるときとは違い、一星にはそんなにバリエーションがあるわけではなく、冷凍のから揚げとか、朝食のソーセージのあまりとか、せいぜいそんなものだ。卵焼きだけは手作りするのだが、それだけで風太は大喜びする。しかし、それ以外には、たいした会話はなく、テレビも点けないままなので、どちらかの声が途切れれば静かなものだった。しかし、あれこれとおしゃべりをしなくても、彼の表情を見れば、考えていることは一目瞭然だ。


 本当に、うまそうに食うよな……。


「一星。ケチャップ取って」

「はいよ」

「サンキュー」

「お前、スクランブルと目玉焼き、どっちが好き?」

「ん……、どっちも好きだな! どっちもうめえし」


 風太には、苦手な食べ物がほとんどない。――というか、なんでも「うめえ」と言って、あっという間にたいらげる。一星も、食卓に出されたものには、一切不満を言わずに食べるが、内心では苦手なものもあるのに、風太はそういうわけでもなさそうで、いつでも、なんでも嬉しそうに食べるのだ。


 そういう彼を見ていると、一星はいつも幸せな気持ちになった。おかげで、二人分の朝食の支度をするのも、ふたりきりで朝食を食べるのも、いつの間にかこんなに楽しみになってしまった。


 時間にすればわずかなもので、たった、十五分か二十分くらいだろうか。それでも、一星は、雅に申し訳なくなるほどに、毎朝こうならいいのに、と思ってしまうこともあるくらいだった。


「はー、食った食ったぁ! ごっそさん!」

「はや……」

「先に支度してくるわ。皿、おれがやっから、シンク入れといて」

「あぁ」


 風太の言う「支度」というのは、その実、八割が髪のセットのことだ。今日はずいぶんと頭が荒れているから、なかなかに苦労しそうだが、それにしても、濡れた髪のまま寝ているわけではないのに、ただ、寝て起きただけで、どうして風太は毎日、あんな髪型になるのだろう。一星は不思議でたまらない。


 一星は、食べ終わった皿をシンクに置き、エプロンを外してダイニングの椅子に掛ける。こうしておくと、支度を終えた風太が、家を出る前に必ずエプロンを着けて、シンクの皿を水洗いし、食洗器に入れてくれるのだ。


 一星は、自室で制服に着替え、カバンを持ってまた一階へ下りると、廊下の突き当たりへ目をやった。そこは洗面所だ。扉がわずかに開いたその奥からは、ドライヤーの音と、バタバタと慌ただしい物音が聞こえていた。


 一星は、ドキドキしながら、そこをのぞく。途端に、ドクン――と、心臓が跳ねた。風太は濡れた髪をドライヤーで乾かしている。どうやら、びしょびしょに濡らしたようだが、上半身にはなにも身に着けていない。目の前にあるなめらかな背中に、一星は息をみ、そのまま釘付けになってしまった。


 うなじから、首の後ろ。そこから、やや盛り上がるようにして発達している僧帽筋そうぼうきんは見事だ。肩甲骨の窪みは、峡谷のように美しく、さらに、そこから下りていくと、脊柱起立筋せきちゅうきりつきんが、なめらかに腰までの道を示してくれ、たくましい上半身を支える腰回りへといざなってくれる。


 ただし、そのラインはしっかりとくびれていて、大殿筋だいでんきんと、そこへ続くラインがいかに美しいかを物語っていた。


 今日は朝っぱらから、刺激が強いな……。


 その先のどこを見ても、彼は非の打ち所がないほど、均衡きんこうの取れた体つきをしている。なめらかな筋肉のラインも美しい。まったく、拝みたくなるほどに魅力的だが、もうあと、数分でもこうしていたら、興奮して鼻血でも出そうだった。


「……風太。もう終わるか」

「あー……、あとちょっと! 時間やばい?」


 風太が鏡越しにく。一星はかぶりを振った。


「……いや。まだ余裕。皿だけ、よろしくな」

「おう、大丈夫だ。もう終わるからよ」


 そう言って、風太は満足げに鏡をのぞいている。これは、彼の念入りなチェックだ。しかし、自分の髪で慣れているとはいえ、あのアーティスティックな状態から、わずか数分で、よくぞここまで整えるものだ、と一星は毎朝、感心してしまう。


「今日の頭、すごかったな」

「そうか? いつもこんなもんだろ。……よし、もういいや、これで終わり!」


 そう言って、風太は二階へ上がっていったかと思うと、あっという間に着替えを済ませ、カバンを持って、一階へ戻ってきた。そうして、変な鼻歌を唄いながら、ゴキゲンでリビングへ入って行く。


 学校じゃ、あんまり歌なんか唄ってるの見たことなかったけど……。いつもなんか変な歌、唄ってるよな……。


「かわいいヤツ……」


 思わず、声に出てしまって、口をつぐむが、きっと彼には届いていないだろう。一星は洗面台で歯を磨きながら、くぐもって聞こえてくる、風太の変な鼻歌に耳を澄ませ、頬をゆるめた。


 こうして、毎朝思うのだ。風太が、おいしそうに朝食を食べる顔が、アーティスティックな寝ぐせ頭が、彼の魅惑的な体が、好きだ、と。変な鼻歌も、彼の声も。なにもかもが好きだ――と。


 俺ってほんとに、めちゃくちゃツイてるよな……。ずっと好きだった子と、こんなふうに、一緒に暮らせるなんて……。


「一星ー、皿、片付けたぜ」

「おー、サンキュ」

「歯、磨くから待ってて」

「早くしろよ……」

「わかってるって」


 朝、六時。一星は今日もいつも通り、風太とともに、家を出た。ふたりで肩を並べて通学するのは、はじめは少し緊張したものだが、ひと月経った今ではすっかり慣れてしまって、自然におしゃべりをしながら、わざと肩を寄せてぶつける余裕もできた。


「そういえば、ゴールデンウィークの合宿、もうすぐだな」

「あぁ、毎年恒例のヤツな。昼練はいいんだけどさぁ。早朝練がめんどくせえ……」

「……まぁな。体調、しっかり整えとけよ」

「わーかってるって。……最近のお前、なんか、母ちゃんより母ちゃんみてえだよな」


 そう言って、風太はけらけら笑う。釣られて、一星も頬をゆるめた。


 一星と風太は、もうずっと犬猿の仲だった。ライバルであり、天敵だった。しかし、その陰で一星は、必死にかかえてきたものがある。それは、絶対に誰にも言えない秘密。長きにわたり、胸の奥に必死に秘めてきた、初恋だった。

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