風太が、一星へのラブレターを渡すように頼まれた日から、二日。ついに引っ越しの日がやって来た。この日。一星の父、太郎は接骨院を臨時休業にして、平野家の引っ越しの手伝いをしてくれることになっていた。荷物の運搬は業者に頼んであるし、すでに荷造りは終わっているので、作業といえば、源家に到着したあとの、荷解きくらいなものだが、太郎は雅を心配して、仕事を休んで付き添ってくれることになったのだ。風太が学校を休んでもよかったのだが、太郎はそれには断固、反対した。とはいえ、あいかわらず太郎の言葉は優しく、その気
――学校へは行ったほうがいい。今年は受験もあるし、部活動だって、あと半年もないだろう? 部活が終わったら、一星と一緒に帰っておいで。今日の晩ごはんはごちそうだよ。
それを聞いたとき、風太は少しだけ実感した。太郎がもうすぐ、風太の父になること。そして、まだ抵抗感はかなりあるものの、一星が風太の兄になることにも。ただし、認めたわけではない。風太はただ、ちょっとだけ、一星より先に生まれた、というだけのことで、形としては家族になるが、今は、それだけだ。
校門を出て、徒歩わずか十分。風太と一星は、
「やっぱ、この距離に学校あんのは便利だな……」
「まぁ、寝坊しても全速力で走れば、数分だからな」
寝坊なんか、一度もしたことのなさそうな顔で、一星は言う。そうして、門扉を開け、風太に先に行くように
うおぉ……。やっぱ実感わかねー……。
庭つき、二階建ての一軒家。その立派な家の玄関に立ち、風太はごく、と息を
「開いたよ」
「おう……」
「……あとで、父さんが鍵、くれると思う」
「そっか……」
そう答えて、ぼーっとしていると、一星がドアを開ける。風太は一星のあとから、家の中へ入った。途端に、そこで目を
「おかえり、風太くん、一星」
「おかえりなさい」
ふたりは、
「た、ただいま……」
「ただいま。なんかふたり……、もうすっかり夫婦っぽいね」
一星がそう言った。それを聞くなり、太郎と雅は
「そうかい? いやぁ、照れちゃうな」
「でも、うれしい。一星くんにそう言ってもらえると……。ね、太郎さん」
「うん、そうだね」
一星はそれには答えず、無言で靴を脱ぐ。そうして、風太を
「ふたりとも。夕飯の支度、できてるから。着替えたら、下りてきてね」
「おう……」
「わかりました」
雅の声がいつになく
「二階は、おれとお前の部屋と、あと空き部屋がもうひとつあるんだ」
「へえ……。広いんだな……」
「べつに、フツウだと思うけど」
そう言いながら、一星は奥から二番目の部屋のドアを開けた。向かい側にも、そしてさらに奥にもドアが見えている。風太がそれを気にしていると気付いたのか、一星が説明してくれた。
「俺の部屋は、お前の部屋の向かい側だ。一番奥の部屋は普段、納戸として使ってる。来客があるときは、そこに泊まってもらったりもしてるかな……」
「来客……?」
「たまーにだけど、副院長とか。うちで飲んで、酔っぱらって、そのまま泊まってったりするんだ」
「へえ……」
「――で、ここがお前の部屋」
一星に
「おぉ……」
そこは六畳の洋室だった。壁には大きなクロゼットが取り付けられていて、ベッドに棚、勉強机まで置かれている。机のそばには、水色のカーテンが引かれた、大きな窓があった。風太は、好奇心に誘われ、カーテンを開ける。その先にはベランダがあるようだ。
「なんか、不便があったら言って。俺、着替えてくるわ」
「お、おれの服は――」
周りを見渡し、部屋の
「服は雅さんが、クローゼットに入れてくれたんじゃないか?」
言われるまま、クローゼットを開けてみる。すると、そこにはすでに、風太の服が掛けられていた。
「あった……」
当たり前だが、そこにあるものは、すべてが風太のもので、これまであのアパートにあった風太の私物だ。それを見て、風太はもう一度、無理にでも実感させられる。
そっか……。今日から、本当におれはここで、暮らすんだ……。ここが、おれの家になるんだな……。
***
「それじゃあ、風太くん、雅さん。ようこそ、我が家へ。……乾杯!」
「カンパーイ!」
……あ、これデジャブだ。
つい先週、似たような乾杯をした記憶を思い出しながら、風太はグラスに並々と
野菜サラダに鶏のから揚げ、じゃがいものチーズ焼き。どれも食べ慣れた、雅の料理だった。なにもこんな日に、慣れない台所で料理をしなくても、スーパーで惣菜でも買ってきて並べたほうが楽だったんじゃないか、と風太は思う。だが、雅の視線に、その理由を察して納得がいった。
「一星くん、味はどう?」
「……おいしいです。とても」
「よかったー!」
雅は乾杯を終えてから、ずっと一星の顔を
「雅さん、すみません。から揚げの
一星が、目を輝かせて
「どっちも入れるんだけど、うちはね、風太が喜ぶから、片栗粉を多めに入れるんだ。どっちかっていうと、
「なるほど……。それでこんなに
「一星……。お前、から揚げばっか食うなよ」
そう言って、風太がから揚げに箸を伸ばすと、それに競うようにして、一星もまたから揚げに
「まだ、これで五個目だ」
「もうそんなに食ってんのかよ! 吐き出せ、オラッ!」
「お前こそ……ッ、まさか俺の分まで食ってないだろうな。自重しろよ」
「なんだと、この……!」
「ちょっと、ちょっと……。おかわりも作ってあるから、ケンカしないで、ふたりとも」
風太と一星のやり取りを見て、雅が
「いやぁ、もうすっかり兄弟らしくなっちゃったねぇ。でも、ケンカはだめだよ……?」
その言葉で、から揚げ争奪戦に熱くなっていた風太は、たちまち冷静さを取り戻した。忘れかけていたが、この宴は、源家にお呼ばれした飲み会ではなく、一家団らんの場。これから、風太にとっては、このあまりに非日常的なやり取りが、日常となるわけだ。そして、この家の家訓ともいえる
あー……、うるせーし、めんどくせえ。でも……、なんだか、にぎやかだな。
なにげない夕飯が、こんなににぎやかだったことなんか、数えるくらいしかなかった。まだ慣れない雰囲気ではあるが、ここには、不思議な心地よさがある。いつもいがみ合う一星が向かい側に座っていて、あいかわらずイライラさせられても、居心地がいい。
悪くねえ、かもな……。こういうのも。