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3-4

「一星――……?」


 首をかしげながら、風太は通話ボタンを押した。今日のことで、彼はまだ文句を言うつもりなのだろうか。そんなことをかんぐり、うんざりする。雅は「噂をすればナントカだねぇ」と言いながら、上機嫌で荷造りを続けていた。


「おう、なんだよ」

『俺だけど……』

「わかってるっつの。……なんなんだよ、電話なんかしてきて。まだなんか文句あんのか?」


 一星とは、放課後のケンカのあと、ろくに口をきいていなかった。ただし、なにも風太は、大人げなくいつまでもむくれていたのではない。稽古が終わったあとは、早く帰って残りの荷物をまとめなければならなかったし、ケンカのせいで、白河にもまだメッセージを返していなかったので、急いで帰宅したのだ。ケンカしたっきりになってはいたが、それもいつものことで、風太はあまり気にしていなかった。


「それとも、心変わりして、おれともっかい勝負する気になったのかよ?」

『どっちも違う。あのさ……、今日はその、悪かったと思って……。一応……』

「え……?」

『ごめん……』

「え……」


 振りしぼるような声が、耳元で聞こえた。一星が謝るなんて、意外だ。風太は思わず目を丸くして、慌てて画面を確認した。この通話相手が本当に一星かどうか、確かめたのだ。しかし、やはり通話中のスマホの画面には、一星とあった。


 ごめん……って、こいつ、ほんとに一星か……?


『お前の、言う通り……、勉強の方法はいろいろあるし、山を張るのも、べつに悪いことじゃない。ただ、俺とはちょっと違う考えだったから、ついムキになった……』

「お、おう……」

『その……、今度から、勉強でわかんないとこがあるんだったら、聞いてくれれば教えるけど……』

「は――……」

『あさってから、一緒に住む、わけだしさ……。勉強、俺でよければ教える』


 風太は呆気あっけに取られて、一星の話を聞いていた。だが、ふと、そばにいる雅と視線がぶつかって、にんまりと笑みを向けられる。その顔にはうんざりして、風太は立ち上がり、外に出た。そうして、アパートの階段のはしに腰を下ろす。


「お前……、どういう風の吹きっさらしだよ」

『は……?』

「急に……、勉強教えるとか言ってよ。どういうつもりだよって言ってんだよ」

『……あのさ、それを言うなら、どういう風の吹き回し、だろ。お前が珍しく勉強する気になってるから、本気なら、手伝ってやろうと思っただけだよ』

「ふーん……。なんか、妙なことたくらんでるんじゃねえだろうな……?」

『お前じゃあるまいし。そんなめんどくさいことするか』


 一星がそう言い放ったのを聞いて、風太はふん、と鼻を鳴らした。だが、たしかに、あさってから一星と同居するのだから、彼に教えてもらえるのなら、そんなに効率がいいことはない。大学生活がはじまったばかりの白河に世話になるのだって、限度があるだろう。一星に教わる、ということだけが、ちょっとしゃくさわるが、問題はそこだけだ。


「さっすが、学年二位くんは余裕だな。でも、せっかくだから、利用させてもらうぜ。――あぁ、それから……」


 風太は言葉の途中で、不意に馴染なじみのアパートの部屋かられてきた鼻歌に気付き、玄関ドアへ振り返る。そうして、続けた。


「あさってから、頼むな」

『え――』

「母ちゃんのこと。母ちゃんさ、太郎さんとお前と、一緒に暮らすの、すげえ楽しみにしてると思うから。ほんと、頼む」

『うん……』

「母ちゃんは、ずっとおれのために、自分の幸せとか、欲しいもんとか、そういうのを全部、二の次にして、犠牲ぎせいにして、おれのために生きてきた。だから、これから、ちゃんと幸せにならないといけないんだ。その……、大事にしてやって」

『風太……』

「よろしくお願いするわ……、ほんとに。それだけ、約束してくれ」


 そう言って、風太は通話しながら頭を下げた。一星の父、太郎が、雅を幸せにできるのかどうかは、風太にもわからない。今のところ、太郎は非の打ち所がないほどの善人だ。見た目もいいし、雅と並んでも、似合いだと思う。ただ、実際のところ、うまくいくかどうかまではわからない。わからないから、風太は約束をしてほしかった。今後、なにがあっても、雅を傷つけるようなことにはしない、雅を大事にする、ということを。


 風太がそう言ったあと、しばらく一星は黙った。そうして、ひと呼吸置いたあと、静かに答える。


『約束するよ』

「……さんきゅ」


 春の夜風が吹くアパートの階段で、風太は思い出していた。幼い頃、ここでよく、パートに出た母の帰りを待ったことを。思えば、あの頃。母に休みという日はあっただろうか。今日はコンビニ。明日はスーパー。夜はファミレス。仕事をいくつも掛け持って、休みらしい休みもなく、働きに出ていたこともあったような気がする。けれど、いつも母は、風太に約束してくれた。「おいしいごはん買って、早く帰ってくるからね」と。


「なぁ、一星。おれ、自分と母ちゃんが、まさか、こんなふうにこの部屋を出ることになるなんて、考えもしなかったけどさ。でも……、なんかよかったと思うわ」

『再婚が?』

「うん……。母ちゃん、すげえ嬉しそうだから」

『そっか』


 怒ると世界一、怖い母。沸点の低い母。けれど、本当は優しく、その愛情はマリアナ海溝よりも深い。その母が今、恋をしている。転職先で出会ったばかりで恋に落ち、交際をはじめて、ひと月そこそこで、家族も巻き込んで同居をしようなんて、世間一般からすれば、こんな状況はフツウじゃないのかもしれない。だが、風太はこれまでの母をよく知っている。だから、彼女の恋を、誰よりも応援したいと思った。たとえ、この先、一星に兄貴ヅラされ、見下され、学校だけでなく、家でもくやしい思いをさせられる毎日だとしても、だ。


「ほんじゃ、そういうことで」

『あぁ、また明日な』

「あぁ、明日」


 そう言って、一星との通話を切り、思いっきり伸びをした。再婚話が浮上して以来、風太にはひとつ、気付きがある。それは、これまでケンカばかりしてきた一星だが、まともに話してみると、案外、悪いところばかりではなく、いいところもあるということだ。初対面の印象が最悪だったせいで、これまで否定ばかりしてきたが、もしかしたら、風太は一星と、いつか本当に仲良くなれる日が来るのかもしれない。家族として。友人として。まだ抵抗はあるが、一応、義弟としても。そうして、いろいろ話すようになったら、好きな子の話になったりもするのかもしれない。


「はは……、まさかな」


 今はまだ、想像もつかない。けれど、あり得ないこともなさそうだ。そんなことを思いながら、風太は部屋に戻り、残りの作業に取りかかる。あれほど嫌だった同居だが、妙なものだ。今はほんの少しだけ、あさってが来るのが楽しみだった。

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