「一星――……?」
首を
「おう、なんだよ」
『俺だけど……』
「わかってるっつの。……なんなんだよ、電話なんかしてきて。まだなんか文句あんのか?」
一星とは、放課後のケンカのあと、ろくに口をきいていなかった。ただし、なにも風太は、大人げなくいつまでも
「それとも、心変わりして、おれともっかい勝負する気になったのかよ?」
『どっちも違う。あのさ……、今日はその、悪かったと思って……。一応……』
「え……?」
『ごめん……』
「え……」
振りしぼるような声が、耳元で聞こえた。一星が謝るなんて、意外だ。風太は思わず目を丸くして、慌てて画面を確認した。この通話相手が本当に一星かどうか、確かめたのだ。しかし、やはり通話中のスマホの画面には、一星とあった。
ごめん……って、こいつ、ほんとに一星か……?
『お前の、言う通り……、勉強の方法はいろいろあるし、山を張るのも、べつに悪いことじゃない。ただ、俺とはちょっと違う考えだったから、ついムキになった……』
「お、おう……」
『その……、今度から、勉強でわかんないとこがあるんだったら、聞いてくれれば教えるけど……』
「は――……」
『あさってから、一緒に住む、わけだしさ……。勉強、俺でよければ教える』
風太は
「お前……、どういう風の吹きっさらしだよ」
『は……?』
「急に……、勉強教えるとか言ってよ。どういうつもりだよって言ってんだよ」
『……あのさ、それを言うなら、どういう風の吹き回し、だろ。お前が珍しく勉強する気になってるから、本気なら、手伝ってやろうと思っただけだよ』
「ふーん……。なんか、妙なこと
『お前じゃあるまいし。そんなめんどくさいことするか』
一星がそう言い放ったのを聞いて、風太はふん、と鼻を鳴らした。だが、たしかに、あさってから一星と同居するのだから、彼に教えてもらえるのなら、そんなに効率がいいことはない。大学生活がはじまったばかりの白河に世話になるのだって、限度があるだろう。一星に教わる、ということだけが、ちょっと
「さっすが、学年二位くんは余裕だな。でも、せっかくだから、利用させてもらうぜ。――あぁ、それから……」
風太は言葉の途中で、不意に
「あさってから、頼むな」
『え――』
「母ちゃんのこと。母ちゃんさ、太郎さんとお前と、一緒に暮らすの、すげえ楽しみにしてると思うから。ほんと、頼む」
『うん……』
「母ちゃんは、ずっとおれのために、自分の幸せとか、欲しいもんとか、そういうのを全部、二の次にして、
『風太……』
「よろしくお願いするわ……、ほんとに。それだけ、約束してくれ」
そう言って、風太は通話しながら頭を下げた。一星の父、太郎が、雅を幸せにできるのかどうかは、風太にもわからない。今のところ、太郎は非の打ち所がないほどの善人だ。見た目もいいし、雅と並んでも、似合いだと思う。ただ、実際のところ、うまくいくかどうかまではわからない。わからないから、風太は約束をしてほしかった。今後、なにがあっても、雅を傷つけるようなことにはしない、雅を大事にする、ということを。
風太がそう言ったあと、しばらく一星は黙った。そうして、ひと呼吸置いたあと、静かに答える。
『約束するよ』
「……さんきゅ」
春の夜風が吹くアパートの階段で、風太は思い出していた。幼い頃、ここでよく、パートに出た母の帰りを待ったことを。思えば、あの頃。母に休みという日はあっただろうか。今日はコンビニ。明日はスーパー。夜はファミレス。仕事をいくつも掛け持って、休みらしい休みもなく、働きに出ていたこともあったような気がする。けれど、いつも母は、風太に約束してくれた。「おいしいごはん買って、早く帰ってくるからね」と。
「なぁ、一星。おれ、自分と母ちゃんが、まさか、こんなふうにこの部屋を出ることになるなんて、考えもしなかったけどさ。でも……、なんかよかったと思うわ」
『再婚が?』
「うん……。母ちゃん、すげえ嬉しそうだから」
『そっか』
怒ると世界一、怖い母。沸点の低い母。けれど、本当は優しく、その愛情はマリアナ海溝よりも深い。その母が今、恋をしている。転職先で出会ったばかりで恋に落ち、交際をはじめて、ひと月そこそこで、家族も巻き込んで同居をしようなんて、世間一般からすれば、こんな状況はフツウじゃないのかもしれない。だが、風太はこれまでの母をよく知っている。だから、彼女の恋を、誰よりも応援したいと思った。たとえ、この先、一星に兄貴ヅラされ、見下され、学校だけでなく、家でも
「ほんじゃ、そういうことで」
『あぁ、また明日な』
「あぁ、明日」
そう言って、一星との通話を切り、思いっきり伸びをした。再婚話が浮上して以来、風太にはひとつ、気付きがある。それは、これまでケンカばかりしてきた一星だが、まともに話してみると、案外、悪いところばかりではなく、いいところもあるということだ。初対面の印象が最悪だったせいで、これまで否定ばかりしてきたが、もしかしたら、風太は一星と、いつか本当に仲良くなれる日が来るのかもしれない。家族として。友人として。まだ抵抗はあるが、一応、義弟としても。そうして、いろいろ話すようになったら、好きな子の話になったりもするのかもしれない。
「はは……、まさかな」
今はまだ、想像もつかない。けれど、あり得ないこともなさそうだ。そんなことを思いながら、風太は部屋に戻り、残りの作業に取りかかる。あれほど嫌だった同居だが、妙なものだ。今はほんの少しだけ、あさってが来るのが楽しみだった。