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2-7

「おい、一星――」


 ここで今、一星が風太を守って、メリットがあるとは思えないし、このままでは、一星が風太にケガをさせたような印象を与えてしまうかもしれない。なぜ、一星がそんなことをする必要があるのか、風太は困惑していた。だが、ちょうどその時だ――。


「風太……!」


 院内の奥から、雅の声がした。風太は身の危険を察知し、即座に振り返り、体勢を整える。雅のことだ。怒りの鉄拳か、蹴りのひとつでも、飛んでくるだろう。いくら大好きな男がいる職場とはいえ、学校で面倒を起こしたと聞いて、雅が忠告だけで終わらせるはずがない。風太は目をつぶり、身構えた。ところが――。


「……?」


 雅は風のようにすっ飛んできて、風太をぎゅうっと抱きしめたのだ。風太は予想外の事態にぱちぱちと目をまたたきをして、呆気あっけにとられた。


「風太! あんた、体は大丈夫なの?」

「お、おう……」

「ったく、心配ばっかりかけさせて! 脳震盪のうしんとうで倒れたって聞いて、血の気が引いたわよ。頭は? どっか痛くないの?」

「あ――……、うん。平気。足もくじいたっぽいけど、そっちもたいしたことないし。明日、念のために、朝イチで病院行ってくる」

「ほんっとに、もう……。あんたって子は……」

「あの、雅さん……。俺たち、風太の足、父さんにてもらおうと思って来たんですけど、まだ施術中ですか?」


 一星がく。すると、雅は微笑ほほえんで答えた。


「そうだったの。一星くん、ありがとうね。太郎さん、今、最後の患者さんてるの。もうすぐ終わると思うんだ。待合のソファで待っててくれる?」

「はい。それで雅さん、本当にすみません……。俺たち、今日はちょっと無茶をしすぎて……」

「あぁ、いいのよ、気にしないで。どうせ、この子が一星くんのこと無理に誘って付き合わせたんでしょ。もう、昔っから、無茶させたら世界一みたいな遊び方ばっかりしてたんだから」


 さすがは母親だ。雅は、まるで今日の出来事を全部見て知っているかのような顔で、そう言った。それには一星も、驚いているようだ。


「そんなことねーし……」


 風太は口を尖らせてみせたが、内心ではホッとしていた。見たところ、雅は怒ってはいないようだ。


 よくわかんねーけど、とりあえず助かったぁ……!


 風太はホッと息をく。だが、待合のソファに座り、ほどなくして、奥の部屋から太郎と最後の患者が一緒に出てくると、院内の緊張感が一気に高まった。


「先生、いつも悪いわねぇ、わがまま聞いてもらって……」

「いえいえ。いつでも頼ってください。体が資本なんですからね」

「ありがとう。本当にここがなかったら、私はとうに寝たきりだわ」

「なーに言ってんですか。ツヤさんは、大丈夫。お大事になさってくださいね」


 最後の患者が施術代を払っている間、太郎は穏やかな笑顔を見せ、優しい声と言葉で話しながら、接骨院の外まで、患者を見送った。どう見ても、風太には彼が怒っているようには見えないが、神崎は、スリガラスの扉の向こうにいる太郎の様子を、しきりにうかがっているようだった。入り口の扉が閉まると、ほんの少しの間、接骨院は、しん、と静まり返る。風太は、ちら、と隣に座る一星を気にした。彼の横顔は、いつになくこわばっている。


 へー……。こいつにも、怖いものがあんだな……。


 それが父親だとは意外だったが、風太は口角を上げる。これは、まぎれもない一星の弱点だ。いつも涼しい顔とサラサラヘアーの優等生で、黄色い声に囲まれても動揺しない、冷静な彼の弱みを知ったことは、決闘に負けた風太にとって、最高の参加賞だった。


 こいつは嬉しい収穫だ。太郎さんを味方につければ、一星のヤツ、おれの言うこと聞きそうじゃ――……。


「一星! 風太くん!」

「は、はいっ」


 不意に名前を呼ばれて、風太は反射的に返事をして、瞬時に立ち上がった。見れば、太郎がそこに立っている。ひと呼吸遅れて、一星も静かに立ち上がった。


「君たちの無茶は聞いたよ。どうして倒れるような稽古をやったんだ。それも勝手に。先生もいないときに」

「す、すいませんっした……!」


 慌てて頭を下げ、風太はあやまった。元ヤンとはいえ、太郎だって鬼ではないはずだ。それに、今回は雅がまったく怒っていなさそうなところを見る限り、あやまればなんとかなるだろう。――と、風太は思っていた。だが、顔を上げた途端、風太は青ざめる。太郎の表情は明らかにさっきとは違っていた。


「取り返しのつかないことになっていたかもしれないんだぞ」


 今、その表情から穏やかさは消え、こめかみには血管が浮き出ている。笑みを見せてはいるものの、明らかににこやかではない。どこか、異様なほど威圧感があるのだ。同時に、風太はこの威圧感に馴染なじみ深さをも感じていた。


 これは……、元ヤンのメンチ切り……! この人、一星が言ってた通りだ。やっぱ、怒るとめちゃくちゃ怖ぇんだ……。


「君たち。まさかとは思うけど、ケンカ……とか、していたんじゃないだろうね?」


 静かな声でかれて、思わずかぶりを振る。隣にいる一星も同じように、かぶりを振っている。


「い、いや……!  ケンカなんて、そんなことするはずないじゃないすか! おれら、この通り、すっげえ仲いいし! なー、一星!」


 風太は一星の肩に腕を回し、強引に、だが、しっかりと肩を組む。一星は一瞬、身をこわばらせたようだったが、すぐにこたえるように風太の肩に腕を回し、肩を抱いた。


「あ、あぁ……!」

「今日だって、おれらだけで特訓してたんすよ! だっておれたち、すっげえ仲いいから! なー、一星!」

「あぁ!」


 くっそー……。こいつと肩組むなんて、いつもだったら死んでもありえねーが、今はこうするしかねえ……。


 とにかく、ケンカをしていたわけではないと、太郎に信じてもらわなければ、これから風太と一星を待っているのは、太郎のきつーいお説教だ。肩を組むふたりを交互に見つめ、太郎はしばらくそのまま、なにも言わなかった。だが、ほどなくして、ふう、と息をく。


「……だったら、いいけど。これからは気を付けるんだよ、ふたりとも」

「はいっ!」

「特に、一星。お前は風太くんにとっては、お兄ちゃんになるんだからな。自覚持って、もうちょっとしっかりしろ」

「はい」


 だあぁーーーっ! 頼むからお兄ちゃんはやめてくれ、太郎さん……! 


 お兄ちゃん、という太郎の言葉を聞くなり、ぞわぞわっと全身の肌が粟立あわだった。堂々と反論できないのがあまりに悔しいが、今は笑顔でうなずくしかなく、風太の胸の内側では、誇り高きプライドが急激にすり減っていく。しかし、どうしようもない。自分で言い出した決闘に惨敗したこともあって、ますます風太は、一星の弟でいなければならなくなったわけだ。


 おれ……、屈辱くつじょくで、心がつぶれちまう……。


「よし。それじゃあ、風太くん。奥の部屋へおいで。足をてあげるから」

「太郎さん……、足のことも知ってたんすか」

「あぁ、雅さんから聞いていたから。本当に心配したんだぞ。さっきの患者さんが帰ったら、学校に迎えに行こうと思ってたんだから」

「そうだったんすか……。ほんとに、すいませんでした……」

「いや。ひとまず、ふたりとも元気そうでよかった」


 風太は、太郎にうながされて、奥の部屋に通される。奥は座敷のようになっていて、施術台が置かれた個室のようになっていた。太郎はそこで、風太の足を念入りに診察したあと、テーピングをしてくれた。そうして、完治するまでは稽古を休むことと、軽いねんざをかばって運動した結果、二次的なケガを引き起こす危険性や、スポーツマンにとって、いかにケガが怖いかを、丁寧に説明してくれた。




 施術が終わったあと、風太は雅とタクシーに乗り、帰宅した。タクシーの後部座席で揺られながら、風太はぼんやりと物思いにふける。太郎の今日の様子を見る限りでは、一星の言う通り、怒らせると怖いことは間違いなさそうだった。だが、それ以上に、太郎はとても優しい人で、良い父親だった。


 ちゃんとしたお父さんって……、きっと、あんな感じなんだなぁ……。


「ねえ、風太。太郎さん、いい人でしょ」

「ん……、あぁ、そうだね」

「優しいし、かっこいいし」

「うん……。怒ると怖そうだけど」

「そこがいいんじゃなーい」

「まあね」


 うなずきながら、風太は隣に、ちら、と目をやる。雅は嬉しそうに窓の外を眺め、口元をわずかにゆるませていた。その表情を見れば、恋の経験など、ミジンコほどもない風太にだってわかる。彼女は本気で太郎に惚れ込んでいるのだ、と。ただし、今、風太はもう、太郎との交際をとやかく言うつもりはなかった。太郎なら、雅を幸せにできるのだろう、と信じられるからだ。


「母ちゃん、よかったね」

「え……?」

「いい人、見つけたじゃん」


 窓の外を眺めながら、そう言ったあと、雅の視線を感じる。だが、すぐに視線はらされ、やがて、「……でしょ」と、短い返事が聞こえた。

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