「あーあ、災難な日だぜ、ったくよー……」
胸
「あー……、ダリい」
風太はくたびれた体を引きずるように、アパートの階段を上がって、鍵を開け、帰宅した。三つの部屋と、三畳ほどのキッチンがあるだけの、築四十年の狭いアパートの一室。そこが、風太の家だ。だが、ふと気付く。今夜はこの小さな家の中に、夕飯の匂いがまったくしていない。
「ただいま……」
代わりに、化粧品のにおいがかすかにして、風太は居間の扉を開けた。そこでは、母、雅が居間の座卓の前に座り、真剣な表情で鏡を
「母ちゃん……? なにしてんの」
「あぁ、よかった。帰ってきた。おかえりー、風太」
「え……、なに、どしたの、そのカッコ……」
雅は、見慣れないよそいきの服を着て、化粧をばっちり決めている。どうやら髪をセットしている最中だったようだが、その髪も、いつもの天然パーマをごまかすだけのそれではなく、どこから引っ張り出してきたのか、長らく見かけなかったテコで髪を巻き、ワックスでしっかりセットしたようだった。
「どっか、行くの」
「うん……。風太、突然で本当に申し訳ないんだけど……」
「なに……」
「母ちゃんさぁ、再婚しようと思うんだよね」
「は……」
「それでね、今日、これから家族で顔合わせがてら、食事しようってことになってて……、あんたにも来てほしいのよ。制服のまんまでいいからさ、一緒に来て」
「え、ちょっと待って……。ちょっと、再婚って……、なんだよそれ……ッ!」
「前からちゃんと話そうって思ってたんだけど、あんた怒りそうだから、つい言いそびれちゃってさ。――そうそう、相手の人にも、お子さんがいてね。男の子で、あんたと同い年なんだってー。誕生日があんたよりちょっと早いらしいから、お兄ちゃんになるのかな。よかったね、うふふ……」
いや、うふふじゃねーし、全っ然、よくねえんだけど!
風太は
「え……、あの、母ちゃん。相手ってどんなひと……」
「だからぁ、これから紹介するんだってば。……はーい、雅です」
雅は少し声を高くして、猫なで声で通話に出た。その口調と声に、風太は思わず、顔を引きつらせる。
「はい。……えぇ、今さっき。あらぁ、いいんですか? なんだか悪いみたいだけど……」
なにを話しているのかは、わからないが、とにかく母の猫なで声だけは
「じゃあ、息子と表に出て待ってます。ありがとう、タローさん」
タローさん……。
どうやら、相手の名前は「タロー」というらしい。風太はあいかわらず、顔を引きつらせ、雅が通話を切るのを待って
「男、迎えにくんの?」
「うん、車で来てくれるって。っていうか、なによ、その言い方。やな感じね。タローさんはね、すっごいやさしい、いい人なんだから」
「は……っ。なーにが、タローさん、だよ。どうせさぁ、
「おい!」
不意に、雅が声を上げ、風太を壁際に追い詰めるようにして、壁に拳を打ちつけて
「おめえよぉ、タローさんのこと悪く言いやがったら、どうなるかわかってんだろうな……?」
その迫力は、いまだ健在だ。風太は、こく、こくと頷くことしかできない。
「母ちゃんの幸せは、世界一、大事じゃねえのかよ?」
「だ、だいじです……」
「だったら、どうすりゃいいかぐらい、わかるよなぁ? あぁ?」
「わ、わかります……。大人しく、お食事会に参加します……」
「……いい子だ」
そう言って、雅は風太から離れる。だが、すぐに目を
「すまねえな……。母ちゃん、風太がいっちょ前になるまでは、絶対、母ちゃんのままでいようと思ってたんだよ。……昔、父ちゃんなんかいなくたって、風太が母ちゃんを守るって言ってくれたことも、ふたりでがんばろうって、言ってくれたことも、全部忘れたわけじゃねえ。でも……、あの日、アタシは出会っちまったんだよ……」
「タローさんに……?」
「うん……!」
雅の明るい笑顔には、再びげんなりさせられたが、雅のはじめて見る浮かれ顔が、しばらくぶりの幸せのせいだと気付き、風太はひとまず、彼女に従うことにした。やがて、再び雅のスマホが鳴って、風太は雅とともに、表へ出る。迎えに現れたのは、ワンボックスカーに乗った、見るからに優しそうな大柄の男だった。
「風太、この人がタローさん」
「よろしくお願いします……。平野風太です……」
「風太くん。素敵な名前だね。よろしく」
いい人っぽいな……。母ちゃんも、すげえ楽しそうだし……。
見知らぬ男が運転する車の後部座席で揺られながら、風太は思う。彼がもし、悪い男だったら。雅を
なにしてる人なのか、わかんないけど……。とりあえず優しい人で、母ちゃんが惚れてんなら、まぁ……、いいのかもな……。
後部座席から、ぼんやりと幸せそうなふたりを眺めながら、風太はそんなことを思う。だが、約十五分後。車が停まり「さぁ、着いたよ」とタローが言ったその瞬間。全身の血の気が引いた。視界に入ったのは、家の表札だった。
「
「風太、どうしたの?」
後部座席の乗降ドアが開き、雅に声をかけられる。だが、風太はなにも答えられなかった。源という表札だけが、脳内をぐるぐる回っている。源、という苗字は、この辺りには、多いのだろうか。
たしかに……、ここは鎌倉だしな……。昔、幕府があったから……、源頼朝、的な……? あれ、でも鎌倉幕府って、すげえ昔じゃね……? 何年前……? ってか、鎌倉幕府って、そもそも何時代だっけ……?
頭がどんどん混乱していく。風太の自宅アパートがあるのは、神奈川県藤沢市だが、おそらく、ここは鎌倉市だ。海の音がかなり近くに聞こえるところ、かなり海岸に近い場所にあるのかもしれない。いや、今、そんなことはどうでもいい。問題は、表札の名前。源という苗字だ。
「風太、ほら。早く降りて。タローさん、待ってるから」
雅に手を引っ張られて、ようやく風太は車を降りる。周囲は、閑静な住宅街。目の前に建っているのは、庭付きの立派な一軒家だった。そして、改めて表札を確認する。やはり、そこには「源」とあった。
源って……、まさか……。アイツの親戚とかじゃ、ねえよな……?
「風太、どうしちゃったのよ。ぼーっとして」
「あ、いや……。母ちゃん、この家……、源って……」
「あぁ、そうか。すまなかったね、ちゃんと自己紹介を先にすべきだったのに、慣れないことだから、つい
タローはそう言うと、頭を深々と下げてから、自己紹介をした。
「雅さんとお付き合いさせていただいてます、
「源……」
「タローさんはね、鎌倉駅の近くで、接骨院をやってるの。そこの院長先生なんだよ。かっこいいでしょう」
「やだなぁ、雅さん……。やめてくださいよ」
へえ、接骨院……。
いちゃつくふたりを前に、風太はタローをぼーっと見つめる。接骨院の院長。なるほど、それでその体格なのか、とひとまずは納得する。だが、次の瞬間。
「おかえり、父さん」
「おう、ただいま」
い……!
源という表札のついた、その家の玄関扉から出てきた、ひとりの青年の姿に、ぶわっと全身の毛が逆立つ。目の前にいるのは、エプロンをつけた一星だった。
「一星……!」
「あれ、やっぱりお前だったんだ。いらっしゃい」
胸騒ぎが現実となって、風太を襲う。たちまち、頭が真っ白になって、声を失い、全身が硬直した。母、雅の再婚相手である源太郎は、信じられないことに、一星の父親だったのだ。