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1-3

「あーあ、災難な日だぜ、ったくよー……」


 胸おどる新学期は、波乱の予感だ。ちょっぴり大人な気分で意気いき揚々ようようと登校したかと思ったら、クラス替えは最悪なことに、一星と同じクラスになり、試合稽古では、また負け越し。もう今日は、夕飯を食べて、ふて寝をすることくらいしかできないだろう。――いや、今夜はこの悔しさと苛立いらだちで、いつも通り寝つけるかどうかも、怪しいものだ。


「あー……、ダリい」


 風太はくたびれた体を引きずるように、アパートの階段を上がって、鍵を開け、帰宅した。三つの部屋と、三畳ほどのキッチンがあるだけの、築四十年の狭いアパートの一室。そこが、風太の家だ。だが、ふと気付く。今夜はこの小さな家の中に、夕飯の匂いがまったくしていない。


「ただいま……」


 代わりに、化粧品のにおいがかすかにして、風太は居間の扉を開けた。そこでは、母、雅が居間の座卓の前に座り、真剣な表情で鏡をのぞき込んでいた。


「母ちゃん……? なにしてんの」

「あぁ、よかった。帰ってきた。おかえりー、風太」

「え……、なに、どしたの、そのカッコ……」


 雅は、見慣れないよそいきの服を着て、化粧をばっちり決めている。どうやら髪をセットしている最中だったようだが、その髪も、いつもの天然パーマをごまかすだけのそれではなく、どこから引っ張り出してきたのか、長らく見かけなかったテコで髪を巻き、ワックスでしっかりセットしたようだった。


「どっか、行くの」

「うん……。風太、突然で本当に申し訳ないんだけど……」

「なに……」

「母ちゃんさぁ、再婚しようと思うんだよね」

「は……」

「それでね、今日、これから家族で顔合わせがてら、食事しようってことになってて……、あんたにも来てほしいのよ。制服のまんまでいいからさ、一緒に来て」

「え、ちょっと待って……。ちょっと、再婚って……、なんだよそれ……ッ!」

「前からちゃんと話そうって思ってたんだけど、あんた怒りそうだから、つい言いそびれちゃってさ。――そうそう、相手の人にも、お子さんがいてね。男の子で、あんたと同い年なんだってー。誕生日があんたよりちょっと早いらしいから、お兄ちゃんになるのかな。よかったね、うふふ……」


 いや、うふふじゃねーし、全っ然、よくねえんだけど! 


 風太は呆然ぼうぜんとして固まったまま、雅の話を聞いていた。浮かれ調子で話す雅を前に、いったいなにを言ったらいいかわからない。本来なら、これはおめでたい話なのだろうが、風太には今、「おめでとう」を言う余裕はなかった。しかし、ほどなくして、雅のスマホが鳴ると、ハッとして我に返る。


「え……、あの、母ちゃん。相手ってどんなひと……」

「だからぁ、これから紹介するんだってば。……はーい、雅です」


 雅は少し声を高くして、猫なで声で通話に出た。その口調と声に、風太は思わず、顔を引きつらせる。


「はい。……えぇ、今さっき。あらぁ、いいんですか? なんだか悪いみたいだけど……」


 なにを話しているのかは、わからないが、とにかく母の猫なで声だけはえられない。風太は渋い顔で、雅をにらみつける。


「じゃあ、息子と表に出て待ってます。ありがとう、タローさん」


 タローさん……。


 どうやら、相手の名前は「タロー」というらしい。風太はあいかわらず、顔を引きつらせ、雅が通話を切るのを待っていた。


「男、迎えにくんの?」

「うん、車で来てくれるって。っていうか、なによ、その言い方。やな感じね。タローさんはね、すっごいやさしい、いい人なんだから」

「は……っ。なーにが、タローさん、だよ。どうせさぁ、だまされちゃってんじゃないの? 気を付けねーと、優しいのなんて最初だけに決まってん――」

「おい!」


 不意に、雅が声を上げ、風太を壁際に追い詰めるようにして、壁に拳を打ちつけてせまった。これまで、一度も見たことのなかった、恋に浮かれる母の姿を見せられ、風太はあまりの違和感に、まだ見ぬ母の彼氏を否定したが、それが久しぶりに彼女の怒りを買ってしまったようだ。風太は壁に背中をびったりとつけたまま、至近距離でにらみつけられ、ごくん、と生唾を飲んだ。こう見えても我が母、雅は昔、レディース総長を務めた、元ヤンなのだ。


「おめえよぉ、タローさんのこと悪く言いやがったら、どうなるかわかってんだろうな……?」


 その迫力は、いまだ健在だ。風太は、こく、こくと頷くことしかできない。


「母ちゃんの幸せは、世界一、大事じゃねえのかよ?」

「だ、だいじです……」

「だったら、どうすりゃいいかぐらい、わかるよなぁ? あぁ?」

「わ、わかります……。大人しく、お食事会に参加します……」

「……いい子だ」


 そう言って、雅は風太から離れる。だが、すぐに目をせて言った。


「すまねえな……。母ちゃん、風太がいっちょ前になるまでは、絶対、母ちゃんのままでいようと思ってたんだよ。……昔、父ちゃんなんかいなくたって、風太が母ちゃんを守るって言ってくれたことも、ふたりでがんばろうって、言ってくれたことも、全部忘れたわけじゃねえ。でも……、あの日、アタシは出会っちまったんだよ……」

「タローさんに……?」

「うん……!」


 雅の明るい笑顔には、再びげんなりさせられたが、雅のはじめて見る浮かれ顔が、しばらくぶりの幸せのせいだと気付き、風太はひとまず、彼女に従うことにした。やがて、再び雅のスマホが鳴って、風太は雅とともに、表へ出る。迎えに現れたのは、ワンボックスカーに乗った、見るからに優しそうな大柄の男だった。


「風太、この人がタローさん」

「よろしくお願いします……。平野風太です……」

「風太くん。素敵な名前だね。よろしく」





 いい人っぽいな……。母ちゃんも、すげえ楽しそうだし……。


 見知らぬ男が運転する車の後部座席で揺られながら、風太は思う。彼がもし、悪い男だったら。雅をだまそうとしているのなら。命に代えても、雅を守らなければならない。だが、タローは明らかに無害そうな、人のよさそうな感じではある。声は低く深みがある、いい声だ。どこかで聞いたことがあるような気もしてくるが、それにしても、いったい彼は普段、なんの仕事をしているのだろう。後部座席から見てもわかるほどに、その体は筋肉質でたくましい。まるで、プロレスラーのような体つきだった。


 なにしてる人なのか、わかんないけど……。とりあえず優しい人で、母ちゃんが惚れてんなら、まぁ……、いいのかもな……。


 後部座席から、ぼんやりと幸せそうなふたりを眺めながら、風太はそんなことを思う。だが、約十五分後。車が停まり「さぁ、着いたよ」とタローが言ったその瞬間。全身の血の気が引いた。視界に入ったのは、家の表札だった。


みなもと――……?」

「風太、どうしたの?」


 後部座席の乗降ドアが開き、雅に声をかけられる。だが、風太はなにも答えられなかった。源という表札だけが、脳内をぐるぐる回っている。源、という苗字は、この辺りには、多いのだろうか。


 たしかに……、ここは鎌倉だしな……。昔、幕府があったから……、源頼朝、的な……? あれ、でも鎌倉幕府って、すげえ昔じゃね……? 何年前……? ってか、鎌倉幕府って、そもそも何時代だっけ……?


 頭がどんどん混乱していく。風太の自宅アパートがあるのは、神奈川県藤沢市だが、おそらく、ここは鎌倉市だ。海の音がかなり近くに聞こえるところ、かなり海岸に近い場所にあるのかもしれない。いや、今、そんなことはどうでもいい。問題は、表札の名前。源という苗字だ。


「風太、ほら。早く降りて。タローさん、待ってるから」


 雅に手を引っ張られて、ようやく風太は車を降りる。周囲は、閑静な住宅街。目の前に建っているのは、庭付きの立派な一軒家だった。そして、改めて表札を確認する。やはり、そこには「源」とあった。


 源って……、まさか……。アイツの親戚とかじゃ、ねえよな……?


「風太、どうしちゃったのよ。ぼーっとして」

「あ、いや……。母ちゃん、この家……、源って……」

「あぁ、そうか。すまなかったね、ちゃんと自己紹介を先にすべきだったのに、慣れないことだから、ついあせってしまって……」


 タローはそう言うと、頭を深々と下げてから、自己紹介をした。


「雅さんとお付き合いさせていただいてます、みなもと太郎たろうです。よろしくお願いします」

「源……」

「タローさんはね、鎌倉駅の近くで、接骨院をやってるの。そこの院長先生なんだよ。かっこいいでしょう」

「やだなぁ、雅さん……。やめてくださいよ」


 へえ、接骨院……。


 いちゃつくふたりを前に、風太はタローをぼーっと見つめる。接骨院の院長。なるほど、それでその体格なのか、とひとまずは納得する。だが、次の瞬間。


「おかえり、父さん」

「おう、ただいま」


 い……!


 源という表札のついた、その家の玄関扉から出てきた、ひとりの青年の姿に、ぶわっと全身の毛が逆立つ。目の前にいるのは、エプロンをつけた一星だった。


「一星……!」

「あれ、やっぱりお前だったんだ。いらっしゃい」


 胸騒ぎが現実となって、風太を襲う。たちまち、頭が真っ白になって、声を失い、全身が硬直した。母、雅の再婚相手である源太郎は、信じられないことに、一星の父親だったのだ。

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