柚希を見送ると、僕たちは家に戻った。
小泉さんは替えの下着をカバンから取り出すと、母さんに一声かけてから真っ先に風呂場へと向かった。一方の高橋さんと栗原さんはリビングで母さんと歓談していて、部屋には僕一人が取り残されていた。
先ほどまで四人が一緒になって歓談していた部屋は、僕以外は誰も居ない。小泉さんが持ってきたスポーツバッグもいつの間にか見なくなった。恐らく風呂場に持って行ったのだろう。
ベッドをソファ代わりにして腰を下ろし、それから寝転ぶついでに東側の窓から隣の家を覗き込む。柚希の家はカーテンもなく、もぬけの殻となっていた。
「もう、居ないんだな」
僕は独り言を口にすると、もう帰らない柚希との思い出を少しずつ振り返った。
昔からある遊園地で一緒になって遊んだ日のこと、小学三年生の遠足で柚希からお菓子をもらったこと、柚希の家族と一緒に水族館へ行ったこと、柚希の家族と一緒にプロ野球を観戦したこと……。様々な思い出が脳裏に浮かび、消えていく。
幼い頃の淡い思い出に浸っていると、突然部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「誰?」
僕が問いかけると、「アタシよ」という声が聞こえてきた。
小泉さんだと悟った瞬間、僕は部屋のドアノブに手を掛けた。
「シャワーとドライヤーを使わせてもらったわ。ありがとね」
そこには、私服姿の小泉さんが立っていた。無論、肩には愛用のスポーツバッグを携えていた。
小泉さんはスポーツバッグをベッドの近くに置き、ベッドをソファ代わりにして僕の隣に座る。シャワーを浴びたばかりの小泉さんの身体からは、いつも使っているボディソープとコンディショナーの香りがした。
「ところで、ユータが使っているのって、夏の定番のボディシャンプーとリンスインシャンプーかしら?」
「うん、そうだけど」
そう答えると、小泉さんはお決まりの笑顔を見せる。
「いい趣味しているじゃないの」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ」
小泉さんと同じように、僕も笑顔を浮かべる。
「ねえ、ユータ」
小泉さんが僕との距離をさらに縮めて口を開く。
玉のような肌と波打っている髪からミントの香りが僕の鼻腔に伝わってくる。嗅ぎ慣れた香りなのに、官能的に感じるのはどうしてなのだろうか。
「阿部さんにエールを送って良かったのかしら?」
そんな僕の気も知らず、小泉さんは僕に問いかけた。
「どうしてそう思うんだ?」
「昨日あれだけユータが変わったことを認めなかった彼女にエールを送るなんて、普通じゃ考えられないでしょ。本当に良かったのかなって……」
「何言ってんだよ。良かったに決まっているじゃないか。たとえ昨日戦った相手であったとしても、相手の立場になって情をかけてやることも場合によっては必要だよ」
小泉さんの疑問に冷静な口調で答えると、小泉さんはプッと吹き出し、顔を離してから楽しそうに笑い始めた。
「あははっ! ユータ、それって漫画の受け売り?」
「ん? 何が?」
「さっきのセリフよ」
小泉さんに追及されると、僕は照れ臭そうに机の上にある色紙を眺める。
「いや、柚希にサヨナラされた日にウェブ小説を読み漁っていたら、父さんが良く見ているオリジナルビデオの原作を見つけてね。それで読んだら……だよ」
「クスッ。それってひょっとして定番のヤクザが出てくるやつでしょ?」
「ご名答。父さん、『仁義なき戦い』が好きで、家に居たときはそういった作品を良く見ていたよ」
「似たもの同士ってわけね、ユータも、ユータのお父さんも。ところで、ユータの父さんって何をしている人かしら?」
「父さん? 単なる地方公務員だよ。今は県北の港町で単身赴任をしていて、母さんが時折様子を見に行くんだ」
「兄弟は居ないの?」
「居ないさ。僕一人だけだよ」
「アタシもよ」
お互いのことを話していると、一階の喧騒もあまり気にならなくなる。お互いのことについても深く知れば知るほど、親近感が湧く。
すると、小泉さんが一瞬僕の顔をちらりと見る。
「ユータ」
「何?」
「ユータってさ、自分の芯がしっかりしているわよね。ユータはずっと憧れている存在があるからこそ、そうなっているんじゃないかって」
「どうして分かるんだよ」
「さっき机の上の色紙を眺めたでしょ。それで何となく分かったのよ。ユータって不良漫画が好きなんだなって」
「もちろんさ。あの漫画には、人生において大事なことが詰まっているんだ。たとえ親を失ってもそのことを悔やまずに生きること、人を羨まないこと、仲間を愛し、仲間を愛される人間になること……。その漫画が今の僕を形作っているんだ」
そう、僕はあの漫画の主人公のようになりたかった。
たとえスポーツが出来たとしても柚希にはかなわず、対人関係のスキルは柚希に比べると相当劣っていた僕は、その漫画を食い入るように読んだ。たとえ柚希に何を言われようとも、だ。そして今、その時にまかれた種から芽が吹き、今こうして花を咲かせている。
「ユータ、こんな時に言うのもなんだけど……」
「何?」
小泉さんはさらに顔を近づけて言う。
「アタシ、アンタのことが好きなの。幼稚園の頃から、ずっと……」
「えっ?」
突然の告白に、僕は言葉を失う。
「だけど小泉さん、僕は高橋さんと……」
「それは分かっているわ。……それでも、よ」
次の瞬間、僕は小泉さんに抱きしめられた。程よい大きさをしている胸の感触と小泉さんから漂うミントの香りは僕の身体を突き抜け、僕の身体を、心を熱くする。
いつもの香りが官能的に感じると思った、次の瞬間だった。小泉さんが目を瞑ったと思ったら、突如覆いかぶさるようにして唇を重ねた。
高橋さんとキスしたときは休憩中に飲んでいたかもしれないスポーツドリンクの味がした。爽やかで、少し甘い、そんな味だった。小泉さんとのキスの味は以前想起したのと同じレモンの味……というよりは、いつも使っているマウスウオッシュの味がした。
小泉さんの唇を静かに味わっていたその時だった。軽く閉じていた僕の唇を割って、彼女の舌が入ってきた。
「んむっ……」
僕がそのことに驚いているうちに、小泉さんの舌は口内を動き回る。高橋さんとキスをしたときと同じように、煽情的な舌の動きに応じて唇に吸いつき、小泉さんの舌に自分の下を絡める。お互いの吐息と唇に吸いつく淫靡さを感じさせる音だけが、この静寂の中にあった。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。肩で息をする彼女と僕の間には銀の糸が橋を作り、何度も舌が絡み合った証拠を見ながら互いに肩で息をしていると、小泉さんは机の上にあるティッシュを取って口を拭った。
「ごめんね、こういう時にこういう形で告白した上にキスしちゃって。幻滅したかしら」
「ううん、そんなことない。いきなりキスしたのが小泉さんらしかったよ」
「そう?」
小泉さんはキスした後なのにもかかわらず、一瞬だけ何も知らないような顔で僕を見つめる。そして、いつものように悪戯心溢れた表情を浮かべて僕の隣に座る。
「ユータ、たとえ幼なじみが遠くに行ったとしてもアタシが居るし、ナツも、チア部の仲間も居る。そうでしょ、ユータ?」
「そ、そうだね」
「だから、ユータは何一つ心配することはないわ。アタシとナツがアンタの専属チアリーダーになってあげるから」
戸惑いの顔を隠せない僕を横目に、小泉さんは僕の腕を絡める。柔らかい感触が肘に伝わると、得も言われぬ不思議な感覚を味わう。
僕は僕、柚希は柚希だ。この町に残る僕は僕で、彼女たちの笑顔を守ろう。
二人きりの部屋で、僕は思いを新たにした。