体育館を離れ、僕と栗原さんは部室棟にある新体操部の部室へと向かった。
喧騒に満ちた体育館を離れてもなお、体育館と校庭から青春の汗を流す様子が伝わる。
部屋の中には僕と栗原さんだけで、邪魔するものなど誰も居ない。栗原さんの身体を伝った汗はいつしか収まり、本能を呼び覚ましかねない汗の臭いとデオドラントの残り香が僕の鼻腔を刺激し、思春期男子の悪い部分が目立ちそうになる。
栗原さんはベンチに座ると、理性と本能が相争う僕の顔を見て不安そうな顔をして問いかける。
「ごめん、二人きりにしちゃって。嫌だった?」
「いや、別にいいよ。栗原さんと二人っきりになって話してみたいって思っていたんだ」
栗原さんに気を遣う形でそう答えると、栗原さんは僕の身体をなめ回すように眺めた。
「その割には目が泳いでいるし、悪いところが目立っているけどね」
「わ、悪いところって、その……二人っきりになって、ナニするところか?」
「そうよ」
ナニするところと言われて体操着の下を眺めると、確かに一部分が盛り上がっていた。
高橋さんと米沢さんに負けず劣らず身長が高く、そのうえ目立つところが目立っていて抑えるべきところは抑えている。
普通ならばそのまま押し倒して情熱的なひと時を過ごすところだが、あいにくここは学校だ。しかも、今は球技大会の真っ最中だ。真昼間から男女の営みをするなんて、僕の理性が許さない。
深呼吸をして気持ちを幾分か落ち着かせると、僕は胸の高鳴りを抑えながら栗原さんの顔を見て問いかけた。
「それで、話したいことって一体何? まさか、エッチなことじゃ……」
「そうよね。優汰君だって年頃の男の子だよね。このままだと暴走して私とあんなこととか、こんなこととか……」
栗原さんは茹で上がった蛸のような状態の僕をからかうような素振りを見せる。栗原さんにいじられるのが嫌で、僕はつい「からかわないでくれ」と身振り手振りを使って彼女に伝える。
「いや、別にからかっているつもりは無いんだけどね。ただ、優汰の反応が面白くてね」
栗原さんは邪な笑みを浮かべて言う。
彼女の笑顔を見ていると、小泉さんにも似た感じがした。他人をからかって、その反応を楽しんでいるような印象だった。
「いつまでもこのままじゃ埒が明かないから、本題に入ろっか。阿部柚希って知っている?」
「もちろん。僕の幼なじみだからね」
「そう、それならば彼女が転校するということも知っている?」
「もちろん、知ってるよ。うちのクラスに居る後藤から聞いたよ」
「あのスケベそうな目をしていて、ハーフなのに英語しか取り柄が無い残念イケメンの後藤から? ホント?」
栗原さんの問いかけに、僕は黙ってうなずいた。さすがに言いすぎかもしれないけど、後藤の普段の行動を思えばそう言われてもしかるべきだろう。
「ただ、聞いたのは今朝になってからだよ。実は先月の末に柚希にサヨナラを言い渡されたんだ。同じクラスの沼倉と付き合っていて、キスまで進んだって話していてね」
「なるほどね。阿部さんと沼倉君は優汰君が思っているとおりよ。キスしたのは夏休み前で、今は男と女の関係になっているわ」
「そうか……」
栗原さんが涼しげな顔でそう語った途端、一瞬だけ僕は落胆した。
もし仮に栗原さんの言っていることが正しければ、もう僕と柚希は元の鞘に収まらないということになる。以前の僕だったら、二度と立ち直る気すら起きなかっただろう。
しかし、今は違う。今の僕にはチア部の部員たちが居る。この身を犠牲にしてまでも、彼女たちを幸せにする義務がある。落ち込む暇はこれっぽっちもない。
僕は自らを奮い立たせ、あっと言う間に蜘蛛の糸を手繰り寄せて極楽浄土の地を踏みしめた。自然と顔が引き締まり、背筋もピンと伸びた。
「あら、落胆するのかと思ったけどそうでもないのね」
「当たり前さ。今の僕は柚希のことを考えるよりも、高橋さんたちのことを考えていたいんだ」
「ふふっ」
僕の答えを聞いて、先程まで意地悪そうな顔をしていた栗原さんが心からの笑顔を浮かべた。
「何がおかしいんだよ」
「おかしくなんかないわ。ただ、優汰君って奏音ちゃんの話していたとおりの子だなって思ったのよ」
「一体どういうことなんだよ」
「イケメン寄りでスポーツもできるのに、決してそれを表に出さない。それどころか、自分に自信がないように思い込んでいる。言うなれば、学園を舞台にしたラブコメ小説の主人公ってところね」
栗原さんの言葉のひとつひとつが棘のように胸に突き刺さる。だからと言って、反論する気はない。
僕は何も言わずに、ただ栗原さんの言うことを聞き入れた。
「何も言わないってことは、そのとおりってこと?」
「もちろん」
「でも、優汰君は阿部さんに何を言われようと、ひたすら耐えた。阿部さんと別れた後で奏音を通じて私たちと出会い、大きく変わった。間違いないかな?」
「そうだね」
失意のうちに居た僕を助け出したのは、何を隠そう小泉さんだ。
もしも小泉さんと再会していなかったら、僕は孤独な人生を歩んでいただろう。
「小泉さんには感謝しているよ。もし小泉さんが居なかったら……」
「これ以上は言わなくても分かるわ。今の優汰君、間違いなくカッコ良いよ。だから、胸を張っていいのよ」
「ホント?」
「ホントよ。私だって惚れちゃいそうだから……、ほら」
そう話すと、栗原さんは僕との距離をさらに縮める。汗の臭いとデオドラントの残り香が僕の本能を刺激する。
「分かるでしょ? 私もどうにかなりそうなの」
「栗原さん……」
ふと、隣に座っている栗原さんと目が合う。
栗原さんの目は蕩けていて、キスしてほしいとせがんでいるようにも見える。いや、もしくはそれ以上のことがしたいとせがんでいるのかもしれない。
だけどここは学校で、今は球技大会の真っ最中だ。もし学校で破廉恥な行為をしたら、タダでは済まされない。
思い直してベンチから立ち上がり、引き戸へと向かう。
「……止めとこう。そろそろ次の試合に移るかもしれないから、体育館に戻ろうか」
「えっ、しないの?」
「しないに決まっているだろう。もしここで不純異性交遊なんてしたら、僕だけでなく栗原さんもまずいことになるよ。それに、チア部が廃部になったら元も子もないからね」
僕が立ち上がってから間もなくして、栗原さんも「そうね」と一言つぶやいてベンチから立ち上がった。
廊下に出ると、体育館と校庭から聞こえる歓声がこちらにも伝わる。
体育館へ向かう道すがら、先程と同じように栗原さんは腕を絡めてから僕に話しかける。
「優汰君って、真面目なのね」
「そうだよ。あと一歩で道を踏み外すところだったけど」
「道を踏み外すって、一体どういうことかしら?」
栗原さんは腕を絡めながらも、さぞかし不満げな顔で僕の顔を覗き込む。
「それは、その……。ついキスしそうになったんだよ」
「別にいいじゃない、キスくらい。……もしかして、それ以上を望んでいたのかしら?」
「そ、そんなことは……」
「図星でしょ」
「ま、まあ……」
顔を赤らめながら栗原さんの問いかけに答えると、また邪な笑顔を浮かべる。
「でも、そういうのはナツだけにしておいて。全員を相手にしたら、優汰君が干からびちゃうから」
「干からびるって、一体何を想像していたんだよ!?」
「さぁて、ね」
「教えてくれてもいいじゃないか!」
「ダ〜メ。手を出さなかった優汰君には教えないもんね」
終始この調子で、栗原さんの卑猥な話は体育館に戻るまで続いた。
栗原さんとは今まで一度も話したことはなかったけど、頭のネジが一本外れている人だとは思いもよらなかった。
小悪魔的でありながら、口を開けば下ネタの嵐。だけど、僕のことを気にかけてくれた。
柚希のことについても話してくれたけど、まさかそれ以上に進んでいたとは思わなかった。そのことにショックを感じているのかというと、そうでもない。
僕は僕。柚希は柚希だ。これからはチア部の部員たちと仲良くやっていこう。
栗原さんの話に付き合わされながらも、僕は決意を新たにした。