次の日の放課後、僕は吹奏楽部の顧問をしている西村先生に吹奏楽部を休部する旨を伝えた。楽器演奏が出来なくなったというのはあくまで表向きの理由で、本当の理由は柚希と顔を合わせたくなかったからだ。
西村先生からは一度思い止まるよう説得されたが、小泉さんからチア部に誘われたことを話すと渋々ながら了解してくれた。挨拶を終えてから、階段の踊り場で待っていた小泉さんたちと一緒になって、僕たちは一年生と二年生用の昇降口へ向かって歩く。
「これで向こうへの挨拶は終わったよ。西村先生、結構手ごわかったけどね」
「お疲れ様、優汰君。西村先生に文句を言われた?」
「もちろん、言われたよ。男子が少ないから辞められたら困る、ってね。小泉さんの名前を出したら、西村先生は文化祭のことを思い出して唖然としていたよ」
小泉さんは文化祭の軽音楽部ではライブの途中でバク転をやって、チア部の演技披露でもバク転にさらなる高度な技を決めて観客を驚かせた。間近で見た僕でさえ、小泉さんはどれだけ体力があるのだろうかと驚きの目で見ていた。
僕の話を聞いて、小泉さんは何か知っているような顔をして僕に話しかけた。
「予想していたとおりね」
「えっ、何が?」
「西村先生、生徒を辞めさせないことで知られているのよ。軽音楽部に居る先輩から話を聞いたことがあるわ。それにね……」
「それに?」
「アタシも入学当初は吹奏楽部に誘われたのよ。軽音楽部よりも吹奏楽部の方が楽しいぞ、ってね。でも、アタシはチアとバンド活動を両方ともやりたいと言って断ったわ。……それはそうと、チア部への入部届はもらってきた?」
「もちろん。カバンの中に入れてあるよ」
「家に帰ったら、忘れずに書いて明日の朝一番に日野先生に出しなさい。それと、親御さんにサインを必ず書いてもらってね。ハンコもよ。後は……、そうね、保険証のコピーもお願い出来るかしら?」
「どうしてさ?」
「チアリーディングって、かなり危険な競技なのよ。骨折や腰痛はともかく、最悪の場合は死ぬこともあるわ」
「奏音、それはないでしょ。あくまでマネージャーとして入部するんだから、そこまでしなくても」
「そうだよ、小泉さん。そこまで余計な心配する必要ないよ」
「それもそうね」
小泉さんはクスッと笑った。
昨日は家に帰ってから母さんに吹奏楽部を休部することと、チア部に転入部することを話した。もちろん、柚希の一件を含めてだ。母さんは今まで無理してまで柚希と付き合っていた僕を気遣って優しい言葉をかけてくれた。
それから今日になって、日野先生にチア部へ転入部することを伝えた。日野先生は僕の授業態度などをしっかり評価してくれて、マネージャーとしてしっかり働いてくれるならば大歓迎だと答えてくれた。担任の桜井先生も僕の決断を支持して、胸を撫で下した。
「小泉さんが思っていたとおりだったし、これからは高橋さんのことをもっと近くで応援出来るのは嬉しいけど、他の人たちはどうだろう?」
「アタシの勘だけど、チア部のみんなは先輩たちを含めてアンタのことをすぐに受け入れると思うわよ。アンタのことを気にしている子は山ほど居るんだから。それに、ナツとの一件も気になっているからね。これからアンタはアタシたちの共有財産兼面白い話題の提供者として精いっぱい頑張ってもらうから、覚悟しなさい」
「共有財産って……、まあ良いけどさ」
「けど、優汰君は私の恋人だからね。そこは忘れないでね、奏音」
「ハイハイ」
小泉さんは苦笑いを浮かべながら言った。そんな小泉さんを見ていた時、僕は昨日のことを思い出してそれを口にした。
「結果的に小泉さんの考えとおりに動く形にはなったけど、小泉さんのお陰で僕は長年付き合ってきた幼なじみのことを振り切って高橋さんと付き合うことになったし、幼なじみと一緒に入っていた吹奏楽部を離れる決意を固めた。だから、お礼として小泉さんのお願いをひとつ聞きたいなと思っているけど、何かな?」
「へぇ、何でもいいの?」
その言葉が少しだけ怖くなり、僕の顔が少し強張っているのを感じていると、小泉さんは僕のもとに顔を近づけた。
鼻先がくっつきそうなほどに近づいた小泉さんの顔はとても可愛く、高橋さんが居なかったら小泉さんに惚れてしまいそうなほどだった。
「こ、小泉さん……?」
「アタシとも付き合いなさい、って言っても叶えてくれるの?」
「えっ……!?」
「か、奏音……!?」
僕たちは驚いた表情で小泉さんを見つめた。すると、小泉さんはプッと吹き出し、顔を離してから楽しそうに笑い始めた。
「あっはは! ジョーダンよ。もう、アンタたちの焦っている顔、ホント最高」
「小泉さん……」
「もう、奏音ったら!」
「まぁ、いつまでもアンタは好きな言葉のとおりでいなさい。人は人、アンタはアンタ。そうでしょ?」
「そうだけど、本当にそれでいいの?」
「いいの。ほら、さっさと歩いた歩いた!」
小泉さんに促されて僕たちは再び歩き始める。
いろいろ不安なことはあるし、大変なことだっていっぱいあるだろう。
けれど、僕は小泉さんのお願いとおりに歩き続けよう。僕は僕で、他人は他人。そのことをしっかりと大切にしながら。
(Side:小泉奏音)
「……冗談ではなかったんだけどね」
ユータとナツが楽しそうに話す姿を見ながら、寂しそうな声でつぶやく。
そう、本当はアタシとも付き合うのを願い事にしようとしていた。本人たちには言っていなかったけど、アタシはユータのことが好きだったからだ。
好きだったのは小学生の頃より前で、今みたいに自信満々になる前のアタシはナツと同じように弱々しい女の子だった。
幼稚園のお遊戯会でセンターを任されると聞いた時は、本当に緊張していた。逃げ出したい気持ちでいっぱいだったし、アタシじゃ無理だと思っていた。
そんな時に偶然出会ったのは、小さい頃のユータだった。ユータの言葉があったからアタシは自分を鼓舞することが出来たし、お遊戯会の成功がきっかけで誰かの前で踊ることや他の人を応援する楽しさに目覚めた。キッズチアを始めたのも、ユータが居たからだった。
本人はアタシのことを覚えていなかったけれど、アタシはずっと覚えていたし、ずっとお礼を言いたかった。だから、高校の入学式の日に再会してからはいろいろと世話を焼くようにしたし、今回の件だって全力で臨んだ。
「まぁ、いっか。アタシにだってまだまだチャンスはあるし」
といっても、ユータのことをナツから奪うわけじゃない。例の性悪な幼なじみから引き離し、ユータをアタシの近くに置くことで、少しずつアタシの魅力にも気づかせて、本当の意味でナツとの共有財産にするのだ。もっとも、ユータに興味があるのはアタシだけじゃないし、その数はこれからもっと増えるだろうけど。
そう、二年生の先輩たちを含むウチの部員たちがユータを認めてくれると考えているのはそれがあるからだ。いつも隣の席から見ているけど、ユータは決して悪い顔じゃない。むしろイケメン寄りだ。その上、ナツの件もあるから先輩たちを含むチア部の部員たちはユータに興味を示している。チア部の子たちは男子の間では人気の高い魅力的な子たちばかりだから、ユータが惹かれる可能性は決して低くない。
それに、キッズチア時代の友達もユータに興味を持ってくれるだろう。その子たちの中には芸能界でも通用するほどの子たちが揃っている。もちろん、高校でも現役でチアをやっている子も居る。但し、性格に関しては個性豊かだけれど。
「ねえ、ユータ」
「ん、どうしたの?」
ユータは不思議そうな顔をする。
「いつまでもアタシたちのことを見ていなさいね。破ったら許さないから」
「……うん。これからはチアリーディング部の部員……、いや、マネージャーとしてしっかりとみんなの役に立てるよう頑張るよ」
アタシの考えなんて知らない様子で、ユータが笑みを浮かべながら答える。
でも、それでもいい。少しずつ理解させていくから。アタシたちの魅力も、自分自身が持っている魅力も。
「さて、これから最高にクールでエキサイティングな毎日を始めましょう。アタシたちと一緒に、ね」
再びナツと話し始めたユータに聞こえない声でアタシはつぶやき、靴を履き替えて校門へと向かった。これから始まる楽しい日々を想像しながら。