部室棟は体育館に隣接していて、体育館と同じ色合いの鉄筋二階建ての建物だ。
体育会系の部活がここに集まっているからか、廊下にも部活中に流れた汗の臭いが漂っており、音楽室とはまた違った雰囲気だった。
今は練習時間だから僕たち以外に誰も居ない。そのため、誰ともすれ違うことなく部室棟の中を歩いていた。
「チアリーディング部の部室ってどこにあるの?」
「バドミントン部の右隣だよ」
程なくして僕たちはチアリーディング部の部室の前で足を止めた。
そこには、『Cheerleading Team Bluestars』の看板が掲げられていた。看板は鮮やかな空色と白のコントラストがとても綺麗で、ロゴの脇に描かれた花びらが花を添えていた。
「ブルースターズ……、いつも思っていたけど、この名前ってどこから来ているの? 今までは青い星って意味なのかと思っていたけど、花びらが描かれているってことはそう言う花があるってこと?」
「そうだよ。だいぶ前のOGがつけたもので、ルリトウワタっていう初夏から秋頃まで咲いている花の別名がブルースターなんだ。優汰君は花言葉に詳しい?」
「ううん、あまり」
「ルリトウワタの花言葉は『信じ合う心』と『幸福な愛』。園芸部にも居た部員がつけたもので、部員同士で信じ合い、助け合うことを願って名付けたようだけど、ちょっと恥ずかしいよね」
高橋さんの話を聞いて、入学式から間もない時期に行われた部活紹介を思い出した。今思えば、園芸部のプレゼンで少し誇らしげにそんなことを語っていたような気がした。
そして高橋さんも恥ずかしいとは言っているけど、このチーム名に込められた思いも大切にしている気がする。そうでなければ、あそこまで見事な演技は出来ないと思うのだ。
「僕は素敵だと思うよ」
「そう言ってくれてありがとう。さ、入って入って」
高橋さんが部室の鍵を開けて引き戸を開ける。
「お邪魔します」
頭を下げてから中に入る。部室は十畳ほどの広さで、床はコンクリートだった。入って正面の窓の下には本棚があり、漫画や教本などが収められていた。昔からある本は、背表紙が傷んでいた。
左右の壁には縦長のロッカーがずらりと並べられていて、中央付近には向かい合う形でベンチが置かれていた。
パッと見は散らかっている様子はなく、清潔感もあるから居心地はとても良さそうだった。
「ここに座って」
高橋さんの声がした方向に顔を向ける。僕が部室を眺めている間ベンチに座ったようで、高橋さんは座りながら左隣を指さしていた。
窓から射す西日に照らされた高橋さんの姿はとても美しかったのもあるけれど、二人きりの密室で女の子の隣に座ってほしいと言われているというこの状況にドキドキしていた。
「どうしたの? どうぞ座って」
「あ、はい……、座ります」
一呼吸置いてから、僕は隣に座る。
「あー……、その、すごく綺麗な部室なんだね。体育会系だと汚いイメージがあったから」
「ことあるごとに掃除しているからね」
答えながら高橋さんは僕との距離を詰める。距離を詰められたことで高橋さんの体から漂うバラの香りと汗の臭いが鼻腔をくすぐり、自然に重ねられた手からは高橋さんの体温が伝わってきた。
外からは硬式野球部やサッカー部の威勢の良い声が聞こえる中、その喧騒とは真逆の静寂がこの空間を支配している。心なしか荒くなった高橋さんの甘い吐息が響くことから、お互いの心音すら聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
そんな中で二人きり、世の中の男子なら誰もが夢見るような状況に僕は居るのだ。
「ねえ」
高橋さんのそんな一言が静寂を破る。答えようと高橋さんの座っている方向を見ると、西日に照らされた高橋さんがとても大人っぽく見えた。しかし、それ以上にどこか妖しげで、ヒトじゃない何かが化けているのかとすら思わせるほどだった。
「は、はい……?」
「文化祭でのことなんだけど、君があの日言ったことを覚えている?」
「はい、高橋さんは綺麗だから、自分を信じて頑張ってみてほしいって」
「それだけじゃないでしょ。ほら、あのカッコいいセリフ。もう一回思い出してみて」
「えーと……、『お前はお前らしく自分を信じて歩けばいい! そうすりゃあ必ず道は開けるさ!』だっけ?」
「そう、それだよ!」
高橋さんは突然パンッと手を鳴らしながら大きく頷いた。
この言葉は僕が好きな漫画のセリフを元にしたものだ。その漫画はヤンキーもので、顔つきも普通で学校での態度も良好な僕には無縁な世界だ。だからこそ、あの世界や生き様には憧れる。あの漫画を読むたびに胸が熱くなるのだ。
「私ね、君のあの一言のおかげで頑張れたんだよ」
「僕の一言で……」
「私、甲子園の予選以上に緊張していたんだ。野球部の応援と違って、チアの演技はセンターとして一人一人に合った動きをしないといけないの。日野先生からセンターをやってくれと頼まれたときは、自分には出来ないと思っていたの」
それを聞いて高橋さんのチアの演技を想起する。少しヒヤッとする場面こそあったけれど、大きなミスもなく見事に最後まで素晴らしい演技をしてみせたし、それは間違いなく高橋さんの日頃の頑張りがあってこそだ。
「私たちの学校のチア部、こう見えても有名なんだ。甲子園で優勝した高校のチア部と同じイベントにも出たこともあるからね。奏音のようにキッズチアをやっていた子も居れば、新体操をやっていた子も居る。そんな子たちに比べれば私なんてまだまだだなぁって」
小泉さんと隣の席になってから、小泉さんについての様々な話を聞いた記憶がある。ピアノや電子オルガンなどを習っていたことやキッズチアリーダーをやっていてステージに立ったことを。確かにそれはすごいし、僕が高橋さんと同じ立場なら同じように思うだろう。
けれど、僕にとっては高橋さんの方が輝いて見えていた。さっき練習風景も見たけれど、高橋さんはほかの誰よりも輝いていて、気合いのこもった掛け声も、弾ける笑顔もそのどれもが一級品だった。高橋さんは決して誰にも負けていないと思えた。
「そんなことない!」
僕は高橋さんの手を握る。
「僕の力添えもあったかもしれないけど、それはあくまでも微々たるもので、高橋さんの頑張りや勇気があの成功を生み出したんだ。あの日も言ったけど、他人は他人で自分は自分だから。高橋さんはもっと自分に自信を持って良いんだよ」
高橋さんは僕の顔をじっと見つめてから軽く目に涙を溜めながら笑みを浮かべた。
「……ありがとう。やっぱり、そう言ってくれると嬉しいよ」
そして高橋さんは僕に顔を近づける。
「優汰君、好きだよ。あの日からずっと、君のことしか考えられないんだ」
その瞬間、僕は高橋さんに抱き締められた。たわわな胸の感触と高橋さんから漂う香りは僕の体を突き抜け、僕の体を、心を熱くする。
幼なじみとの一件からまだ日は浅いけれども、僕の中にもう柚希は居ない。今の僕の中には高橋さんへの思いだけがある。
「僕も、高橋さんが好きだ。あの日からずっと」
自然と僕の口から高橋さんへの好意が漏れる。
欠けた心のピースを埋めてくれたのは間違いなく高橋さんだ。そんな彼女とずっとこうしていたいし、この体温をずっと感じていたい。
「ねえ、優汰君」
「うん、なに?」
「キス、したいな」
その言葉を聞いて僕の心の中に嬉しさが溢れる。
「うん、もちろん」
「私、初めてで加減がわからないかもしれないけど……」
「僕だってそうだよ。だから、安心して」
「うん、それじゃあ……」
「しよう、か」
彼女が目を瞑るのに続けて僕も目を瞑り、どちらともなく唇を重ねる。
初めてのキスは爽やかなレモン味という歌詞を聞いたことがあるが、僕が感じたのは高橋さんが休憩中に飲んでいたかもしれないスポーツドリンクの味だった。爽やかで、少し甘い、そんな味だった。
そしてそんな彼女の唇を静かに味わっていたその時だった。軽く閉じていた僕の唇を割って彼女の舌が入ってきたのは。
「んっ……」
僕がそのことに驚いているうちに、彼女の舌は口内を動き回る。舌に軽く巻きついたのかと思えば舌先を表面でなぞって僕を身悶えさせる。舌の裏で撫でてきたと思ったら、自分の舌の裏をくっつけて甘い息を漏らしながら恍惚とした表情を浮かべる。その様子はとても煽情的で、初めてというのは建前のようなものだったんじゃないかと思ってしまうほどだった。
けれど、彼女の手の震えを感じて僕はその考えを追い払った。緊張しているのは高橋さんも一緒で、初めての彼女なりに僕への愛情を示し、お礼という形で僕を気持ちよくしてくれようとしているのだ。
そしてそれに応じるため、僕も唇に吸いつき、彼女の舌に自分の舌を絡める。お互いの吐息と唇に吸いつく淫靡さを感じさせる音。それだけがこの静寂の中にあり、それだけで僕は満たされていくのを感じていた。
高橋さんから「好きだ」と言われ、僕もそれに返してからどれくらい経っただろう。肩で息をする彼女と僕の間には銀の糸が橋を作り、何度も舌が絡み合った証拠を見ながら僕も肩で息をしていると、彼女は座っていたベンチに置かれていたスポーツタオルで口を拭った。
「ごめんね、加減がわからなくて最初からこんなことしちゃって。幻滅した?」
「そんなことないよ。高橋さんは高橋さんだから」
僕は胸を張りながら答える。幻滅なんてするはずがない。高橋さんは初めて会ったあの日からずっと彼女らしかった。
「ありがとう、優汰君にそう言ってもらえると嬉しいよ」
彼女は大胆にも再び僕に抱きついてくる。それによって彼女の豊満な胸が押し付けられ、その柔らかさと鼻腔をくすぐる彼女の甘くて心地良い香りが同時に僕を包み込み、それが僕に安心感を与えてくれる。
今自分の身に起きている出来事が現実のものなのか、未だに疑ってしまう。小さい頃から一緒だった柚希にサヨナラされたらチアリーディング部の美少女に好かれて、二人きりでキスしているなんてフィクションの中にしかないと思っていたからだ。
けれど、これは紛れもない現実だ。現に目の前には長身でスタイルが良く可愛らしい顔をした高橋さんが居て、僕に微笑みかけてくれているのだから。