目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

4-4 日の出に吹く風

「へっくち」


 窓の開く物音と、かわいいくしゃみで目が覚めた。私がベッドで寝がえりを打つと、くしゃみの主は慌てて窓から出ていったようだ。

 ベッド脇のサイドテーブルに目を向ける。まだ明け方五時過ぎ。上半身だけ起きあがると、私は部屋を見渡した。

 下で柚が一人、布団にくるまって健やかな寝息を立てている。壁のハンガーにかかっていたセーラー服は消え、代わりにピンクのパジャマが床の上に畳んである。私は意を決してベッドから抜け出すと、早朝ランニング用のジャージに着替えた。

 そのまま部屋の扉から――ではなく、鍵のかかっていない窓を開ける。ちょうど日の出の時間。地平線から顔を出し始めた太陽が、爽やかな朝の始まりを告げている。

 私も窓から顔を出し、きょろきょろと周囲を見回した。念のためと思って見上げた空に、はたしてくしゃみの主は見つかった。

 傾斜をつける屋根の上、セーラー服姿のちっちゃい女の子は、でっかい朝日と向き合っている。

 その姿は、まるでヒーロー映画のワンシーンのようにキマっていて、私はちょっと笑ってしまった。


「なんで笑うのよ」


 恥ずかしそうにそう言うと、風花は傍に置いてあった物干し竿を取って、その先端を私の目の前に下ろしてくる。意味が分からず見上げると、風花は『捕まれ』と、ジェスチャーを送ってくる。

 私が両手で竿を掴むと、風花はものすごい力で物干し竿を引っ張った! 私の身体は窓をくぐり抜け、簡単に上まで持ち上げられてしまう。

 自宅屋根に初めて降り立った私は、突然の事でバランスを崩し、慌てて風花に抱きついた。

 風花は、身体が屋根に突き刺さってるんじゃないかと思うほどの安定感で、しっかり受け止めてくれる。

 密着すると、ほのかに漂うシャンプーの匂いと、風花の耳たぶに光る深緑のピアスに気が付いた。


「おはよう。やっぱり明け方は、まだ冷えるわね」

「おはよう……あなた、風花なのね」

「昨夜は……六花がお世話になったみたいね。とても楽しかったって言ってたわ」


 ゆっくり身体を離した風花は「私は知らないけど」と、拗ねたように付け加えた。

 風花はポケットからハンカチを取り出して、お尻の下に敷いて座る。地平線から半分ほど出てきた朝日を、なんとはなしに眺めている。


「座った方がいいわよ」


 そうか。屋根の上に立ったままだと、下の通りから丸見えだ。不審者に見間違われて通報されかねない。

 ジャージだからいいかと、私も風花の横に並んで座り、膝を抱えた。


「ねぇ風花……風花が生徒会長に立候補したのって」

「……」

「お父さんに近付いて、六花の行方を探るため?」


 瀬名高の生徒会長は、最高評価の内申点がもらえる。その恩恵は凄まじく、国内外の大学はもちろん、希望する企業への就職も思うがままだ。

 ましてや風花の父は瀬名広大。複数の事業を成功に導いた日本屈指のカリスマ経営者。希望すれば高校卒業後すぐにでも、父の元で後継ぎとして働けるだろう。そうして懐に入りこめれば、双子の妹六花の消息も、何か分かるかもしれない。


「春花は六花の事、どう思った?」

「え? とてもいい子だと、思ったけど」

「そうね、とってもいい子なの。六花は」

「ええ」


 風花は沈黙する。早朝の静寂に、音もなく昇る朝日を見つめて。

 遠くで新聞を配達するバイクの排気音と、電車の走る音がした。

 凍っていた世界が、人々の生活音で少しずつ溶けていくように、風花もゆっくりと、自身から溶け出た言葉を紡いでいく。


「私は……六花はもう死んでいると思ってる。だって今もこの胸に、確かに六花はいるんだもの。でもお父さんはそれを認めない。私の中にいる六花は、私が作り出したイマジナリーフレンドだって……子供がよくやる、見えないお友達みたいなものだって言うのよ」


 風花は胸に手を当てた。まるでそこに六花が眠っているかのように、優しく。


「六花の生死を、確かめたくないと言えば嘘になる。でももし本当に亡くなっていて、その幽霊が何かの未練で私に憑りついているんだとしたら……その真相を知る事で、六花は私の中からいなくなってしまうかもしれない」

「……うん」

「もし六花がイマジナリーフレンドで、それが高じて解離性同一性障害になっているのだとしたら……私が友達を作る事で、六花はいなくなってしまうかもしれない」

「……うん」


 悲痛な面持ちで、風花は胸に当てた手を握る。

 結末は同じ――、どちらにせよ、胸を痛める結果にしかならないなら、真相なんて知らない方がいい、という事か。


「風花は……六花が消えてしまうのが怖いのね」

「私は……私が嫌いなだけ。こんな性格だし、いつもみんなから怖がられて、友達なんてできたためしがない。でも六花は違う。あの子は優しいし友達もいっぱいいた。きっとお母さんのお腹の中で、六花にだけ『優しい』が全部行っちゃって、私には『優しくない』しか残らなかったのよ」

「……」

「消えるべきは私の方。六花がこの身体を使って、私の意識が消えてなくなればいい。その方法が分からないから、せめて今は、六花が消えないようにしたい。だから私は生徒会長になろうとしたし、風紀委員長になった。権力の頂点に立てば友達はできないし、検挙率歴代ナンバーワンになれば、みんなに嫌われるから」


 風花は突然立ち上がると、私に向かって笑顔を見せる。


「だから春花。これからも柚と一緒に、六花と仲良くしてあげて。そうすれば六花も、もっと表に出て遊びたいって思うだろうから」

「風花は……それでいいの?」

「言ったでしょ、消えるべきは私の方だって。実際問題、瀬名風花という人物が消えてなくなるわけじゃない。他人から見れば、私がちょっと優しくなって、最近丸くなったねって、言われるだけだから」


 そう言うと、風花は物干し竿を手に取って、棒高跳びの選手みたいに斜めに構えた。

 私は咄嗟に立ち上がり、右手を振り上げた。冷えた朝の空気に、パチンと小さな音が響く。

 風花は目を丸くして、私を見つめている。


「私と柚は六花の友達でもあるけれど、あなたの……風花の友達でもあるんだよっ!」


 風花は何も言わない。張られた頬に手も当てず、はにかんだような笑顔を見せた。


「急に殴んなし」


 風花は屋根の上を駆け出した。慌てて私が手を伸ばすも、小さい背中には届かない。

 あっという間に屋根のへりまで達すると、勢いよく空に向かって大ジャンプ。中庭の地面に物干し竿を突き、そのまま身体を一回転、塀を飛び越え見事な着地を決める。

 風花は後ろを振り返る事もなく、そのまま走り去ってしまった。


 常識外れの運動能力を目の当たりにして、私は一歩も動けない。

 中庭に残された物干し竿を見て、はたと気が付いた。


「これ……私、どうすればいいってのよ……」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?