「これでよし」
プリントアウトした原稿を読み終えた私は、革張りの椅子をくるりと半回転させ、座ったまま夕日に向かって伸びをした。
校舎二階、角部屋に位置するこの部屋には、壁二面に大きな窓ガラスが
ガラス越し、半透明に映るセーラー服の向こうにグラウンド整備している野球部員を見つけると、私はカバンを膝上に置いて出来立ての原稿をしまった。そのままぎゅっと、カバンを胸に抱きかかえる。
いよいよ明日、この原稿を読み上げる。
そう思うと期待と不安、高揚感が胸にこみ上げてくる。
私はカバンを持って立ち上がり、部屋の扉へと向かう。去り際、誰もいない室内を振り返った。
中央に鎮座する書斎机に、無垢材を彫り込んだ机上名札が置いてある。
『生徒会長
全ては明日、この四月から始まる一年のために。
私は、瀬名高等学校の生徒会長になった。
* * *
校舎一階、正面玄関前の靴箱まで降りてくると、ガラス扉の外に、学ランとセーラー服の男女が立っている。
女の子が茶色く染まった後ろ髪を手で払うと、耳たぶのピアスが夕日にきらめいた。払ったその手で男子の襟元を指差すと、口を尖らせ何やら文句を言っている。
何もこんな、正面玄関前でやらなくても。
私は玄関のガラス扉に身体を預け、ぐっと押し込むように扉を開けた。
「それじゃあ詰襟を閉じたとは言えないわ。あなた、身だしなみすらちゃんとできないの?」
「……すみません」
茶髪にピアス、黒タイツ。清楚なセーラー服を着崩した、いかにも遊んでそうな女子高生は、辛辣な言葉を投げつける。
一方、学ランをキチッと着込んだ男子生徒は、少女にペコペコと頭を下げ、言われるがまま緩んだ襟をきつく閉じている。
いつもの事だ。私は気付かれないよう、そそくさとその場を離れた。
「会長! 夜遅くまでご苦労様ですっ!」
グラウンド脇の歩道を歩いていると、部活の片付けが終わった野球部キャプテンが、威勢の良い声をかけてくる。
「ありがとう。一之瀬君こそ遅くまで練習お疲れ様」
「いよいよ明日ですね、入学式……。祝辞はバッチリですか?」
声を潜めた一之瀬君に、私は手にしたカバンを掲げてみせた。
「さっき原稿仕上がったとこ。明日は新入生だけじゃなく、在校生も震えさせてあげるわよ」
「ははっ、そいつぁ楽しみだ! よろしく頼んますよ、新生徒会長!」
豪快に笑うと、一之瀬君は片手を振って去っていった。
女の私が生徒会長になったから、彼なりに心配して声をかけてきたのだろう。
残念ながら、余計なお世話だけど。
「明日は頑張らなくっちゃ」
一人気合を入れ直し、夕焼けに彩度を落とした桜並木を、早歩きで帰る。
今夜はお母さんが、豪華な夕食を作ってくれてる。
きっとあの子も、お腹を空かせて待ってるはずから。
* * *
「では生徒会長、祝辞」
校長の言葉で、私は席を立つ。それだけで、大講堂に集まる新入生の空気がガラリと変わった。
まだ登壇すらしていないのに……畏怖と好奇が入り混じる視線を背中に感じながら、私は壇上へと歩いていく。
「歌劇の人っぽくない……?」
通りすがり、ひそひそ話が耳に入った。
ショートカットの高身長だからだろう。私はよく、某有名歌劇団の男役に例えられる。多くの場合それは誉め言葉だと分かっていても、本質を見透かされているような気がしてあまり好きじゃない。
壇上に立ち、緊張した面持ちの新入生達を見渡した。スポットライトの逆光で、やはりお目当ての顔は見つからない。
探すのは早々に諦めて、私は原稿を取り出し笑顔で話し始めた。
「生徒会長の時瀬春花です。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。この良き日に、校門のソメイヨシノは満開の桜を咲かせてくれました。皆さんの門出を祝うに相応しい、素晴らしい一日となった事を嬉しく思います」
堂々とした、無難な滑り出し。新入生達は皆一様に、きょとんとした顔を向けてくる。
視界の隅、ステージ端に座ってる校長と教頭が、驚愕の顔で私を見つめてくるが、気にしない。
「今日からの高校三年間、皆さんには素敵な学校生活が待っていると思います。中学と違って高校では、勉学の義務を果たし校則に則った行動をする限り、大きな自由が認められているからです」
講堂脇の通路では、一人の教師が生徒会副会長・島君に詰め寄っている。
何をしようと言うのかしら。
生徒の自主性を
「最初は慣れない高校生活に、戸惑う事があるかもしれません。そんな時は先生や周りのクラスメイト、先輩達を頼ってください。そうやって慣れてきたら、今度は勉強や成績だけでなく、あなたがこの学校で何をしたいのか、じっくり考えてみてください」
入学式には、生徒会役員以外にも何名か、成績優秀な先輩達が参加している。
学ランの下にパーカーを着て、腕まくりしてる男子。
長い爪にカラフルなネイルアートを入れた女子。
新入生には彼らを見習ってもらって、一日も早く、オシャレに制服を着こなせる生徒になってほしい。
「留学を目指して勉強する、部活や学校行事に熱中する、ボランティア活動に参加して色んな人と話すなど、なんでもいいと思います。自分らしいチャレンジができる活動に、積極的に取り組んでみてください。一見面倒に思うかもしれませんが、こうした活動は、かけがえのない友達と巡り合う良いきっかけになります」
最初は身構えていた新入生達も、さすがにこれは話が違うぞと、ざわつき始めた。
大講堂最後尾では、教師が両腕でバツを作りサインを送ってくるが、当然私は無視を決め込む。
「これから始まる学校生活が、振り返ると素晴らしい青春の日々だったと思えるように、生徒会も頑張って皆さんのサポートをしていきます」
だいたいこの祝辞の、どこがバツだって言うの?
みんな瀬名高に毒され過ぎて、正常な判断ができなくなっているのよ。
「最後に、新入生みなさんの今後のご活躍を祈念申し上げ」
こうして私の、生徒会長初仕事――、
「祝辞とさせていただきます」
――前代未聞の無難な祝辞は、幕を閉じた。
全ては今日、この四月から始まる一年のために。
私は軽くお辞儀をすると、まばらな拍手に見送られ降壇した。
* * *
「すごいよお姉ちゃん! さっすが生徒会長っ‼」
入学式が終わり講堂を出たところで、真新しいセーラー服に袖を通した妹――
ストレートの黒髪ロングが降り注ぐと、天然ピーチフレグランスの香りに一瞬理性を失いかける。
「あたし、いつお姉ちゃんが豹変して怒鳴り散らしてくるかハラハラしてたのに……めちゃめちゃいい祝辞で感動しちゃった! ありがとっ、お姉ちゃん!」
「……ダメよ柚、ここは学校なんだから。早く一年生の教室に戻りなさい」
私は平静を装って、生徒会長の仮面を被り柚のハグに応えない。ああもう、すごい罪悪感!
そんな私達に好奇な視線を送りながら、新入生達は教室へ戻っていく。
危ない危ない。初日から理性飛ばしてたら、この先とても、取り繕う事なんてできないじゃない。
「あーっ! お姉ちゃんがウチのお姉ちゃんじゃなくて、生徒会長さんになってる!」
「当然よ。祝辞だって、新入生全員に向けてのものよ。あなたも私の妹としてじゃなく、新入生らしく、お友達でも作ってらっしゃい」
柚の身体を引き剥がしつつも、やっぱり温もりは名残惜しい。
でもここは学校。講堂脇の渡り廊下。衆目集める公共の場。
「は~い、生徒会長~」
殊勝な返事に力を緩めた瞬間、柚は私の耳元に、ぷっくりした艶やかな唇を近づけてくる。
「ごめんね、お姉ちゃん」
短いウィスパーボイスで囁くと、柚はパッと離れて大きく手を振り去っていった。
頬だけじゃない。
柚の息のかかった耳たぶまでも、尽きる事のない熱を放ってしまう。
私の脳内で、柚のためだけの新入生歓迎会が始まってしまう。
祝辞はもちろん無難な……いいえ。
燃え上がるように激しい……愛の告白、です。