ある日の帰り道。夕日が街をオレンジに染め、建物の輪郭を淡くぼかしていた。
「ねえ、圭太。そろそろ歌を歌ってよ。約束したでしょ?」
「そうだね」
圭太は香穂のこの誘いを待っていた。実は隠れて歌の練習を毎晩のようにしていたのだ。「じゃあ、今から行かない?」
「いいよ」
圭太がそう答えると、香穂は少し俯き笑みを浮かべた。
カラオケ店は二人が利用する駅の近くにある。
四階建てのビルの三階にあり、一階と二階はパチンコ店が入っている。
受付を終えて部屋に向かう途中から、香穂は鼻歌を歌っていた。
部屋に着くと二人にしては広い部屋だったので圭太は座る場所に困った。とりあえず、香穂が座るのを待って自分の座る場所を決めようと考えた。
香穂は画面の真正面に座った。
圭太はそこから一番離れたソファーの角に座ることにした。
「ねえねえ、なんでそんなに離れて座るのよ」
「えっ、だって、近くに座るのは変じゃない?」
「ふーん、圭太はそんなに、私に近寄りたくないのね」
「いや、そんなことはないよ」
「じゃあ、もっとこっちに来てよ」
「うん……」
圭太は香穂にそう言われて、香穂の隣に移動した。人一人分程度を空けて。
「まあ、いいでしょう」
「うん」
「じゃあ、歌って」
「えっ、もう歌うの?」
「当たり前でしょ。何のためにカラオケに来てるのよ。しっかり練習してきたんでしょうね?」
香穂はニヤリとして言った。
「実はそんなに練習できなかったんだ」
「ふーん、圭太は私のために時間を使ってくれないんだね。私は何度圭太を助けてあげたことか」
「それはほんとに感謝してるよ」
「まあ、いいわ。とにかく歌ってみて」
「うん」
香穂にそう言われて、圭太は密かに練習していた曲を入れる。
「おー。いいね。私の大好きな曲じゃない」
「本人と比べないでよ」
「もちろん、圭太は圭太」
香穂はそう言うと、とても優しい表情をして圭太を見つめた。
圭太はその視線に耐えられず、思わず目を逸らしてしまった。
イントロが流れはじめる。
圭太の胸の鼓動がだんだんと早くなっていく。
ふと、香穂の方に視線をやると、香穂は体をゆったり揺らしながらリズムに乗っている。
圭太は覚悟を決めた。人前で歌を歌うのははじめてだが、それが香穂でよかったとも思った。
長いイントロも終わりに近づき、ついに声を出す瞬間が近づいてきた。
圭太は軽く息を吐き画面を見つめる。
一番の歌詞が画面に映し出された。
胸の鼓動が香穂に聞こえるのではないかと思うほど高鳴っている。
歌いはじめは順調だった。幸い、香穂の好きな楽曲はシンプルなメロディラインで、歌いやすい曲ではあったから。
圭太は何度も練習したとおりに歌うことを意識していた。香穂に少しでもこの曲を通して、今自分が感じている想いを伝えたかったから。
圭太の課題は最も盛り上がる部分の高音。練習のときにも、何度も声が裏返っていた。
圭太は歌いながらそこで声が裏返らないことを願った。頭の中はいままで経験したことがないほど忙しく回っていた。
その部分に差しかかる瞬間。
少しだけ視線を香穂に向けた。すると、ちょうど香穂と視線が重なった。
香穂は柔らかな微笑みを浮かべていた。
圭太はすぐに視線を画面に戻し、再び歌に集中した。
課題だった部分は自分でも驚くほど自然に声が出た。それは、今までに感じたことのないほどの高揚感を伴い、どこまでも声が伸びていくようにさえ感じた。
その高揚感を保ったまま歌を歌い終えた圭太は恐る恐る香穂に視線を向ける。
香穂はとても自然な笑顔をしていた。圭太に拍手を贈ってくれた。
「ちゃんと歌えてたかな?」
圭太は視線を揺らしながら言った。
「よかったよ。この曲、私が好きだって言ったこと覚えててくれたんだね」
「うん……」
「なんか、嬉しいな」
「よかった。すごく緊張したよ」
「そうなの? そんな風には感じなかったけど」
「手が震えるくらいに」
圭太はそう言うと、まだ小刻みに震えている左手を香穂の前に差し出した。
「ほんとだ。がんばったんだね。ありがとう」
香穂はそう言うと、そっと右手を差し出して圭太の左手を包み込んだ。
圭太は驚いて思わず手がびくついてしまった。ただ、圭太はそれが香穂に拒否の意味だとはどうしても捉えられたくなかった。少しだけ、ほんの少しだけ手の力を緩めた。
香穂に視線をやると、香穂はいままでに見せたことのないような表情をしている。
圭太の鼓動は高まるばかりで、もう自分で制御不能とさえ思えてしまうほどだった。
「じゃあ、圭太が一生懸命私のために歌ってくれたのだから今度は私の番ね」
香穂はそう言うと、素早い手つきで楽曲を入れた。
画面に歌手名と曲名が表示される。圭太が密かに聴いていた歌手の曲だった。
「この曲って」
「そうよ。圭太、この曲がすきなんでしょ?」
「うん、でもどうして知ってるの?」
「どうして、でしょう?」
「うーん」
圭太が答えようとしたとき、ちょうどイントロが終わり曲がはじまった。
香穂を見やると、いつものやわらかい表情とはまったく別の表情をしている。凛として視線はどこか挑戦的で鋭さを感じさせる。
香穂が声を出した瞬間。
空気が変わった。明らかに。停滞していた部屋の中の空気がぴんと張りつめる。それは、緊張感を生み出すものではなかった。
香穂の歌声は圧倒的だった。
圭太は歌に関して聴くことだけが専門だったが、それでも、香穂の歌声が他のどのアマチュアより、いや、もしかするとプロにすら比肩するほどのものだと直感した。
ただ、ただ、聴き入ることしかできなかった。
途中店員がドリンクを運んできたが、店員も部屋の空気感に気づいたのか、少しのあいだ仕事も忘れて香穂の歌声に耳を傾けているように思えた。
香穂はオリジナルの良さをじゅうぶんに引き出していた。だが、圭太には香穂自身が歌うことに意味のある曲のように感じた。
二番に入っても香穂の声量は落ちることなく、声の伸びもよりしなやかに、かつ、まるで声に意志があるかのようにどこまでも鳴り響いていた。
香穂は歌い終えると圭太の方に向き直りぺこりと頭を下げた。つられて、圭太も軽く頭を下げる。自然と拍手を送った。
「ありがとう。拍手までしてくれて」
「ううん、こちらこそ、聴かせてくれてありがとう。あの、なんていったらいいのかわからないんだけど。とにかく、すごかった。上手いなんて言葉じゃ足りないぐらい」
「ほんとに?」
香穂は不安げに視線を揺らしながら言った。
「うん。ほんと。僕に言われても説得力はないかもしれないけど」
「そんなことないよ。圭太に私の歌が届いたなら、それ以上にうれしいことはない。よかった」
「そう言えば、どうして、僕がこの歌を好きなこと知ってたの?」
「それはね。圭太が口ずさんでいたからなんだ」
「えっ、島本さんの前で口ずさんだことなんてあったかなあ」
「やっぱり、気づいてないのね。圭太はね、落ち込んでるときに、よくこの歌を口ずさむ癖があるんだよ」
「そうなの?」
「うん」
「島本さんは、よく見てるんだね」
「圭太のことは、よーく見てるよ。だって心配なんだもん」
「なんだか、恥ずかしいな。そんなに見られてるなんて」
「それはそうよね。こんな美女に、いつもよーく見てるよ、なんて言われたら」
「もう、からかわないでよ。でも、島本さんがきれいなのは事実だし」
「私のこと、きれいだって思ってくれてるんだ」
「だって、みんなそう言ってるし」
圭太がそう言うと、香穂は少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「私は圭太がどう思ってるのかを聞きたいな」
「えっ、僕がどう思ってるか」
「そう。圭太がどう思っているか」
香穂は圭太を真っ直ぐ見つめて言った。
「……僕もきれいだと思ってるよ」
「そっか、すごくうれしい」
香穂はそう言うと、胸に手を当てとても穏やかな表情をした。
そんな香穂を見て圭太の胸は締め付けられた。痛いほどに。
圭太はこの時間がずっと続けばいいのに、と心の奥底から思った。だが、そんなことは無理なことだ。
「ねえ、もう少し、歌を聴かせてもらえないかな? 島本さんの歌を」
「いいよ」
香穂が数曲歌うと圭太が一曲だけ歌うという流れでカラオケは進んでいき、時間は瞬く間に過ぎていった。
「もうそろそろ終わりの時間だね」
香穂が言った。
「すごく楽しかった。ねえ、島本さんはこんなに素敵な歌を歌えるのに、プロは目指さないんだよね?」
「プロになりたいって考えてたときもあるけど、私のはただ少し人より歌えるだけ。そんな人はたくさんいるから」
「そうかなあ。僕はそんな風には思えないけど」
「ありがとう。でも、自分の実力と才能は自分が一番わかってるつもり」
「そっか」
「うん」
「あっ、そうだ。圭太が私のために歌ってくれたら私の目標を教える約束だったわね」
「そうだ。すっかり忘れてたよ。歌い損になるところだった」
「私の目標はね……保育士になることなんだ」
圭太は香穂の目標を聞いても驚くことはなかった。香穂にとても合っている目標のように感じたので大きく一度だけ頷いた。
「あっ、もう出なくちゃ、延長料金とられちゃう」
「そうだね」
カラオケ店を出ると外は気持ちの良い風が吹いていた。風が頬を撫でるたびに、心の奥底が洗われるような気がする。
「今日はほんとにありがとね」
香穂が言った。
「僕こそありがとう。それと、ごめん」
「どうして謝るの?」
「だって、つまらない歌を聴かせてしまったから」
「そんなことないよ。すごーく、圭太らしい歌だった。どこまでも真っ直ぐで優しくて。私は穏やかな気持ちになれたよ」
「ほんとに?」
「うん!」
「それなら、よかった」
「ねえ、またカラオケ行こうね」
「もちろん。今度はもっと歌える曲を増やしておくから」
圭太は言った。
「なんだか、雨が降りそう」
香穂はそう言うと、遠くの空に視線を移した。
遠くの空から黒々とした雲の群れがこちらに近づいてきている。その雲は不吉なものも引き連れてきそうなほど黒くて暗くて、見ているだけで陰鬱な気分になるほどだ。
圭太は何か嫌な予感がしたが、ただの思い過ごしだろうと思い香穂に早く帰るように促した。
圭太は香穂と駅で別れて、予感が思い過ごしではないことに気づいた。
胸の鼓動がそれを知らせる。
圭太は息をひとつ吐き、足早に家路についた。