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第6話 夜陰に乗じて

 皆が寝静まった夜更けのこと。

 木々が風にそよぐ音が心地良い中、


「はっ、はっ、はっ……」


 小さくも荒々しい吐息の音が、混ざっていた。

 極力殺しているつもりでも漏れるその音は、無防備に大の字で眠る妖魔の少女へと忍び寄る、紗雪のものだ。

 穏やかな寝息を立てて眠るその子に跨ると、鞘から抜いた刀の切っ先を、小さな喉元へと添える。


「妖魔……妖魔なんですよ、この子は……」


 憎しみを込めた瞳で見下ろしながら、両手に力を籠める。


「これは妖魔……これは妖魔……」


 迷いを消し去るべく、頭の中を、昔日の憎悪で満たす為に、呪詛のように繰り返し呟く。


「妖魔、妖魔、妖魔、妖魔妖魔妖魔妖魔ッ…!」


 頭が煮えたぎるような感覚そのままに、紗雪は一気に力を籠めた。


「――――かはっ! はっ、はっ、はぁ、はぁ……」


 刀身が貫いたのは、少女の首元ギリギリの地面。

 力み、止めていた息を一気に吐き出すと、突き立てた刀身を抜き取り、力なく地面に転がした。


「私……私、は……」


 今なら誰も見ていない。

 こんな現場、ユウに見られていたとて、必要なら関係を断てばいいだけの話だ。

 滅びた集落跡でも目指して、桜花を出てしまえばいい。

 ただ、それだけのことなのに。


「あんなことを、言われて……殺せるわけ……」


 夕刻、純粋な笑顔を向けられ言われた一言が棘のように刺さって、身体も感情も、憎しみで満たすことが出来なかった。

 雪女という種族に生まれ、その境遇から満足な愛情を受けてこられなかった紗雪は、表裏なく向けられる好意に慣れていない。

 ユウの時もそうだった。

 拒絶したいのに、そうし切ることが出来ない。

 無垢なその瞳は、声の調子は、寝相の悪さは、あれから数百年、毎日のように桜花で見てきた妖の子らと、何ら変わりない。

 その小さな命を狩り取る行為の、なんと残酷なことか。


 最後に一度、深く息を吐くと、今一度持ち上げた刀身を鞘へと納め、起こしてしまわないようにゆっくりと、少女の身体から離れ、すぐ傍らで腰を下ろした。


「ありがとう、雪姉」


 控えめなその声に、紗雪は驚き、振り返る。

 こちらに背を向けたままで横たわってはいるが、よく観察してみれば、眠ってはいない。

 少女の方にばかり意識を向けていた所為で、気付いていなかった。


「……これは、酷い行為を見られてしまいました。起きていたのですね」


「君が動き出した辺りからね。これも、師匠の厳しい躾けの賜物かな」


「ご冗談を。どうせ、最初から眠ったフリをしていたのでしょう?」


「……まあ、ね」


 紗雪は肩を落とし、観念したように息を吐いた。


「雪姉のやろうとしたことは正しいよ。きっと、本当ならそれが正しいんだ。雪姉がもし、あのまま刃を振り下ろしていたとしても、止めないのが正解なんだよ」


「その言い方だと、ユウは私を止める為に起きていたようですね」


「うん。けど、それはきっと間違いだ。雪姉たち妖にとって、妖魔は脅威だ。敵だ。それは間違いなくて、当然のことで、その価値観が本当の意味で分からないニンゲンの僕の意見の方が、おかしいんだよ」


「そのようなこと……」


 ない、とは言い切れなかった。

 ユウにとって妖魔は、妖、ひいては友達である咲夜の敵だから斬り捨てている相手に過ぎない。

 妖気が感じ取れない以上、敵意や悪意のないただ本能で妖を襲う妖魔は、正直なところ敵かどうかも定かでないことだろう。

 妖という種族単位での認識、或いは紗雪のように私怨に駆られての認識とは違う。


「……ユウは、その、どうしてこの子を生かそうと思ったのですか?」


 紗雪の言葉に、ユウは少し考えた後で、


「殺そうと思えなかった、の方が正しいかな」


 いたって真剣な声音で答えた。


「咲夜様から聞いた酒呑童子の言葉に、『妖魔が言葉を話すのは元々だ』っていう節があったんだ。それが、ずっと引っかかってるんだよ」


「酒呑童子が、そのようなことを?」


「うん。ほら、さっき川で捕まえた魚も、普段目にしている動物たちも、言葉は話さないでしょ? 僕の世界に居た声真似が得意な鳥も、言葉は発するものの、その本質は知らずに真似ているだけだった。でも『言葉を話すのは元々だ』なんて、音の響きを真似しているだけの奴が言えるようなことじゃない。妖だけを狙う妖魔……あいつらが本当は何者なのか、ってずっと考えているんだ」


「それで、この子を……?」


「っていうのは、今になってやっと整理できた考えなんだけどね。正直なことを言うと、自分たちと、いや自分と同じ形をしている生き物を殺してしまうのが、ただ純粋に怖かっただけだ。ただ単に、怖かったんだよ」


 ヒト型の生き物を殺す――言わば『殺人』とも言える行為をしてしまうことが、幽世での生活の方が長くなってしまったユウでも、本能的に怖いと感じたのだ。


「……正しいと思いますよ、それ」


 少し迷いもしたが、紗雪は口を開いた。


「私だって、もし敵の中から雪女が現れて、それがどれだけ酷い行為に手を染めていたとしても、命を奪う瞬間にはきっと、良心が傷んでしまうでしょうから」


 本当に正しいかどうかは分からない。

 その最終の判断は、それぞれの主観だけで決まる。

 それでも今、紗雪自身が、まるで自分たちのような寝姿を晒す妖魔を見て、躊躇うに至った。それも事実だ。

 この判断が正しかったのか否か――それすら、最後に決めるのは自分自身。

 どんな結末を迎えようとも、ユウはそれを受け入れ、紗雪は拒絶するかも分からないし、その逆のことを思うかも分からない。


「ごめんなさい、お騒がせしました。私も、今度こそ床に就きます」


「うん、そうした方が良い。雪姉は気を張りすぎなんだよ。雪姉を護れるくらいには強いつもりだ。だから、その子のことで何かあった時には僕に全て任せて、ちょっとくらい羽を伸ばして休んでよ」


「…………はい」


 控えめに返して刀を置くと、紗雪は少女を挟んだ反対側に寝転がった。

 確かな迷いを孕んだ声音ではあったが、しばらくはそれにただ呑まれるようなことはないだろう。

 そう飲み込むと、ユウも瞳を閉じて、風が草木を揺らす音に聞き入った。

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