ある夏の日の夜。
三ヶ月ぶりに訪れた水鏡の日に、悠希、改めユウはまた、湖を介して夢の世界へとやって来ていた。
暫く続く暗転の後で開けた視界には、懐かしくも思えるいつもの光景。
「お久しぶりですね、ユウ」
そう声を掛けてくるのは、誰あろう咲夜だ。
陽を受けて純白に輝く九つの尾が、楽しそうに揺れている。
「さくやさま! ご、ごめんなさい、みかがみの日が、ぜんぜん来なくて……」
そう謝るユウだったが、水鏡の日というものの条件を聞いた咲夜からすれば、そもそも毎月のように訪れることが出来ていたという事実の方が、驚きでもあった。
だからこそそれは、無用な謝罪のように思えた。
「夏は雨がふりやすくて、くもがお月さまをかくしちゃうんだ……」
「なつ、というものが何かは知りませんが――それは、ユウが謝るようなことではないでしょう?」
「そ、そうだけど…! さくやさまと、あそびたかったから……」
申し訳なさそうに、それでいて恥ずかしそうに話す少年に、咲夜はどこか胸が熱くなる。
「ふふっ。もう、仕方のない子ですね」
遊びたい、などという単純な欲を訴えかけられることが、これほどまでに嬉しいものだとは。
邪気の無い純粋な言葉に、咲夜も思わず乗り気になりかけてしまう。
「きょうは、何をしてあそびますか? かくれんぼ、かげふみ、くもさがし、しりとり……いろいろ知ってるよ!」
ユウの口にしたそれらは、祖父母がユウに教えたもの。
これまで誰かと遊んだことなどなかった咲夜の為に、ユウが頼み、誰かと出来る遊びとして教えてもらったのだ。
ただ、咲夜はどこか浮かない表情。
それは、この空白の数ヶ月間の間に起こったことが理由なのだが――
「ひーろーごっこ! ぼくがさくやさまを、わるいやつからまもってあげる!」
明るく楽し気に話す少年に、咲夜は思わず言葉を飲んでしまう。
「ひ、ひいろお、というものが、私にはまだいまいちよく分かっていないのですが……」
そう言ってたじろぐ咲夜の前で、ユウは「えい! えい!」と全身を振り回す。
いつもなら、こんなところから何となく、楽しい一日が始まる。
何でもない時間に笑って、ただ無邪気にはしゃいで、疲れたら寝て、時間が来たら帰る――そんな一日が。
しかし、今日だけは違った。
じゃあそれにしましょうか――いつもならそう続ける咲夜の表情が硬いことに、ユウは気が付き、身体を動かすのを止めた。
どうしたのかと問いかけるユウに、咲夜は一度生唾を飲み込んでから、口を開く。
その雰囲気が楽しいものではないことを察したユウもまた、次第に笑顔を失ってゆく。
「ユウ……今日は、一つのお願いを聞いて欲しいのです」
「おねがい?」
「ええ。正しくは、約束して欲しいこと、でしょうか」
「やくそく……なに?」
話すべきか、そうしないべきか。
相反する思いが、頭の中で鬩ぎ合う。
しかしこれは、今だからこそ話しておかなければならないこと――いや、ともすれば手遅れかも分からない。
自分も似たような立場にあったからと、向けられる好意にただ甘えていた怠惰が招いた迷いだ。
もう間もなく起こると決まっていること。どちらに転ぶとしても、それならば今は、今くらいは少しだけ楽しみたいと、自身を甘やかした結果だ。
どうしたのか、と重ねて問いかけるユウ。
その瞳を見ていると、覚悟はいっそう硬くなった。
そう。これは、ユウというニンゲンが辿る生に、大きく関わることだ。話さないわけにはいかない。
咲夜は腹を決めると、その小さな頭に、自身のしなやかな手のひらを乗せた。
「これより十年後――あなたが十六、或いは十七歳になろうという年、私は長い長い旅に出かけます」
「たび……さくやさま、いなくなっちゃうの?」
「そうならないよう尽力する所存ではありますが、ともすれば、ということも有り得るでしょう。ですから、もう暫くして心も成熟して来たら、この世界は午睡の夢であったものと思い、以降は立ち入ることのないようお願いしたいのです」
「ごすいの……なに? どういうこと?」
「要は『二度と来るな』と言っているのだ、少年」
背後からの声に振り返ると、そこにはいつの間にかやって来ていた菊理の姿があった。
咲夜と遊ぶ中で、菊理とも自然と知り合っていたユウだが、今みたく厳しい表情は見たことが無かった。
誰もそのようなことは、と咲夜が反論してくれることを期待しつつ向き直るユウだったが、恐る恐る窺ったその表情は、菊理の口にした言葉が嘘ではないと頷いているようにも見えるもの。
「勘違いはしてくれるな。咲夜はただ、お前に生きていて欲しいと願っておられるだけだ。来て欲しくない、と言っている訳ではない」
「いきて、なんてわからないよ……ここにいたら、ぼくはしんじゃうの……? さくやさまは、ぼくがきらい……?」
「そんなはずがないからだ、と敢えて私が強く言っておこう。少年、咲夜の言う『長い旅』というのは、口では言い表せない程に過酷で残酷なものなのだ。ひとつでも何かを違えるようなら、お前の住まう世界にも影響が出てしまう程にな」
「ぼ、ぼくのすむ、せかい……? どういうこと……ここって、ゆめの中なんでしょ……?」
菊理が何を言っているのか分からず、ユウは思わず聞き返す。
それの方がどういうことなのかと一瞬思考する菊理だったが、なるほど咲夜が嘘を言っているのだなと納得し頷くと、意を決したように重ねて口を開いた。
「いいか、少年。この世界は――」
『その話は後にしてくれるか、菊理。火急の報せだ』
地を這う程に低く、それでいてまっすぐに澄んだ声。ハクが、庭園の上から降りてきて、一同の間で軽やかな着地を決めた。
下から屋根伝いに跳んできたのだろう。
どうした騒々しい、と一喝する菊理に、
『酒呑童子のものと思われる妖気が確認された。雲外からの報告だ』
ハクの告げたその一言に、咲夜と菊理の纏う気配が変わった。